彼の活動 1

いつもより早い時間に起きていた。魔物たちは睡眠を貪り、日が明けそうで開けていない時刻。


 彼の身支度はある程度整っている。誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。その怠惰の生活リズムからは考えられないほどの、きっちり感。


 商人に会う。それが彼の行動理由だった。必死に準備を整え、身なりを彼なりに整えた。この世界の文明、文化において適切な皮交じりの服。軽くもなく、多少重いだけの服。現代で言うならばジャージ一式のような服装だ。肩口から袖まで安物の獣の皮で作り上げられたような感じの茶色の服と関節部のみ布で、あとは空気の通りが悪い茶色いズボン。


 ジャージによく似ていて、まったくの別物。防御力は現代の服よりはありそうだが、快適性は最悪だった。この世界、この文明において布というのは中々に高い。布自体は安価で買えるものの、それよりも狩猟生活大好き文明にとって、余りがちな獣や魔物の皮の方が安かった。



 グラスフィールの都市にて。店員が怯えながら割引をしたジャージ製品を装備し、靴に関しては現代のスニーカーが今のとこ使えるため継続。厚着をする彼にしては珍しく、薄く、簡潔な着替えだった。


 爪を切り。目に掛かりそうな髪を適当に短剣で切り落とし。みじめな寝起き顔を少しでもましにするために、桶の水を両手で救っては顔を洗う。



 いつもよりも。


 普段よりも。


 ましになったといえた。普段の彼は身なりは最低限しか整えることしかしない。服装なども適当であり、髪型も寝癖を直す程度。風呂は毎日欠かさず入るのと、歯磨き、炊事、洗濯などを欠かせないことぐらいしか規則的な行動などなかった。現代の社会人のように毎日仕事という考えもありはしない。



 それも、昨日までのことだ。昨日、仮面の男からの話で商人に合えば正式採用されると聞いた。その一点のみが彼を精神的に先行させ、常人のような身だしなみを整えることをためらわない。どうせ一人だから、誰も気にしないという安易な日常は消えた。


 今度からは、彼も常人のように日々を過ごすことが定められたのだ。身だしなみも服装も性格も。全てを改善し、人間社会に溶け込む日がきたのだ。


 彼は、何度も。何度も顔を洗う。


 不安もある。これからどうなるのか。仕事が見つかったとはいえ、この先それが続けられるかどうかもわからない。だからこそ、続けるために不安を掻き消すために。


 水で洗い流すかのように、必死に顔を洗う。


(僕は大丈夫。大丈夫のはず)


 これが就職。


 これこそが就職活動。失敗しつづけて、働ければいいという逃避も時期に終わる。今度からは、どう働くのかという不安と立ち向かわなければならない。


 底辺には底辺の悩みというものがあるのだ。



 スーツなどがあればよかったのかもしれない。服装はこの都市の民衆に合わせたのみだ。スーツなどの形式を伴った専用の服などがあれば、悩むことすらない。それが無いようで、彼の個人のセンスによって、客人と応対をせねばならないのだ。


 彼にはセンスなどなかった。


 気付けば、手は止まっていた。洗うこと。身だしなみをしっかりすること。清潔感を持つこと。色々あるけれども。



「…本当に大丈夫かな」


 不安から生じるトーンを落とした声。彼は彼なりに行動をした。努力もした。成果を出せたかはともかく、就職たりえる難関をそれなりに突破した。


 あとは一つ。


 たった一つだというのに。



「…怖いなぁ」


 不安は消えそうにない。目標が近づきにつれ、彼の押し迫る闇が深くなっていく。何もない愕然とした状態での就職と、目標が目の前のときの達成感とその達成感が増大にするにつれて増えていく失敗への恐怖。




 こんなものを皆突破し、クリアしてきた。それも彼ができなかった現代の就職を。


 年収を高くとか、低くとかそういう目標ではなく、ただ働くという行為を。


 皆が突破した。


 突破してきた。



 果たして自分ができるのか。またしても失敗するのではないか。その不安は消えそうにない。





 たった商人に合う。


 これだけなのに、何故か。どこか。遠いところの自分が成功する姿と、失敗する姿が一辺に見えた気がした。簡単に見えて、難しい。難しいように見えて簡単。前者はよくあるが、後者は意外と少ない。難しく見えるものは、結局は難しいというパターンが多い。彼はそれを経験してきた。無駄に積み重ねてきた。





 これも、全ては自分のまいた種。就職をするために行動した対価なのだ。






 グラスフィールの一角。都市の広場から見て南東側に進み、繁華街へと進む。敷き詰められた石畳の地面を靴がたたき、心臓が鼓動を響かせる。通りぬく、脇を抜けていく人々の生活音も今日ばかりはやけに音が高いような気がした。


 今日は魔物を連れてきていない。


 一匹たりとも、だ。


 就職活動に、親やペットなどを同伴することがないように。彼も無い頭を必死に回して、常識だけをもって場のみでも整えようとした。


 今のとこは平気だった。不安が強い。逃げ出したい恐怖もある。だが進まなければいけない。足音と心臓の鼓動が一致する。かつかつと足がならす音と、どくんどくんと血を垂れ流すように鼓動する心臓。両者のタイミングは計らずとも、統一されたハーモニーとやらを奏でていた。



 彼は進む。無表情の顔からでは想像できないが、必死になって弱気な自分と戦うように。肉体は目的地へ進み、精神は真逆の方に進もうとする。肉体と精神が剥離することがあれば、離れ離れになって二度と会うことすらない。そういう確信が持てるほどのことだった。



 やがてつく。都市において最も巨大な建物。華やかな西洋の建造物。城でもなく、城砦でもない。一般の庶民が暮らすような石造りの家を巨大化し、装飾物をあたり一面に凝らされている。そんな一面を目の当たりにしたことが、彼の足を止めたわけじゃない。


 彼と商人の建物から隔離するような大きな門が、行動を止めていた。


 門の柵格子から奥を覗けば、花壇の列すら門から一直線に通る道を遮ることなく、客人を出迎えるような左右に整頓されている。


 立場は庶民というくせに、この建物、世界は華やかだった。


 彼が門番に気付くのは少し後だった。光景に魅了されたというよりは、驚きからか周りを確認することを怠っていた。普段の彼ならば、ありえない失態だった。


 彼の視線が門番へ向かうと。門番は何も言うことなく、柵格子の門を開けた。警戒の表情も、緊張のようなものもない。ごく自然に仕事をこなす門番。


 彼が何者か。何用か。問うことなく、門番は中へ入るように手で促した。



 怠慢などではない。彼が確信したのは、門番のきちんとした視線が彼の全身をくまなく捉えていることから想像できる。口では語らず、目と行動で語る。できる仕事人というサンプルが目の前に存在している。


 彼は、何か口にしたほうがいいのか迷った。だが、結局は語らずに首肯するのみで、先へと進む。


 何を語れというのか。


 仕事人に対し、どうもとでも言えばいいのか。ありがとうと言えばいいのか。敬語を使って丁寧に言えばいいのか。そんなことをしても意味がない。


 これは異世界。ここは異世界。ある程度人間の常識は前の世界と似ていても、挨拶の形式も、文化も文明も異なる別世界。前の世界の常識で行動をしようとしても、彼はそれすら完璧にこなせない。前の世界の常識すらまともにできやしないし、この世界の形式を完璧にしっているわけでもない。


 だから、口を開こうとしたが、結局閉ざした。


 花壇の花が、道を進む彼を歓迎するかのように咲き乱れている。あふれんばかりの色とりどりの花々。その圧倒的な光景だけれども、彼の視線は正面に固定されている。


 建物と門の距離は近いようで遠い。彼の視力は良くもなく、悪くもない。普通程度の視力では、門前から扉の前に立つ人物の姿などよく見えなかった。


 それが近づくたびにくっきりと見えてくる。


 扉の前に、装飾品などを豪快にあしらった、ふくよかな男性。恰好と同じように豪快そうな顔で、愉快そうに笑みを浮かべる傑物。


「なるほど、なるほど。かっかっかっかっか。貴方が怪物か。なるほど」


 その声は彼に正確に届くほどには距離が近づいているわけでもない。何となく、声が聞こえるという程度。


 彼は歩く。


 商人は愉快そうにそれを眺めている。


 彼がまっすぐ視線を正面に。無表情なくせして、死に物狂いの目をもって。何事にも振り向くことなく、殺意に近い気配を飛ばして、進む。


 就職。


 仕事。


 この重みが彼の気配を鋭く尖らせている。鋭利な刃物と彼の現在の気配。比べるまでもなく悪寒がするのは現在の彼だろう。


 悪意に全てを割り切る存在が、商人だけを捉えて進んでいる。


「かっかっか。こいつは。こいつは。中々に畜生な獣だこと」


 愉快そうに笑みを浮かべることを隠さない。


 無口でありながら、人形でありながら。人間の振りした人形が。人形に成り下がる獣が。強情と謂われた商人の心を揺れ動かしている。


 人の欲望を突き動かす、財産と権力を象った箱庭。この建造物は、商人の家であり箱庭だ。これは遊びでもある。財産と権力を存分に載せて、見せびらかすような世界を持った人間が、どう行動するか観察するための玩具だ。


 欲に塗れた表情を浮かべるものもいれば、必死に取り繕うとするものもいる。色々あれど、彼みたいにただ商人に殺気だけを飛ばしてくる輩は初めてだ。命を採られそうになったことなど、いくつもある。だが、それらは商売における遊びみたいなこと。このような形で、何の反応もなかったのは彼しかない。


 商人に不安はない。

 建物内には実力者などが滞在し、いざとなったとき商人を守る肉壁となる。また攻めるときの刃物でもある。


 それらがいるということ。


 もう一つは彼が知性をもつ怪物だということ。


 知性を持つゆえの今回の趣を理解しているという点。


 もし魔物を一匹でも連れてきていたならば、門の内側に入れることなどなかった。つまらない奴だと罵倒して、話のネタにするところだった。


 商人にとって、これは遊びなのだ。


 遊びに、本気でなられても困る。彼が武力たる魔物一匹連れた時点で、遊びではなく戦争に成り代わる。強情と呼ばれた商人は、武力を持つことを許さない。商売において持つことなどは全然平気だが、こういう遊びに持ってこられると冷めてしまう。そういうやりづらく、面倒な性格を持っていた。


 完璧だった。


 彼は。


 武器すら携帯せず。魔物すら連れず。いつもの奇天烈な恰好をしているわけでもない。欲望に塗れた姿をさらすわけでも、耐えるような形も一切示さない。


 人形だと。怪物だと。獣だと。化け物だと。誰もが語る。誰もがいう。悪魔とすら呼ぶ奴すらいる。


「そんな生ぬるい言葉じゃ足りんて。こやつは」


 彼の足がもうじき、商人の顔がわかる程度の距離まで進む。


「これは、失敗作じゃ」


 その言葉に不愉快さはない。愉快さのみをもって彼を笑みを浮かべて見つめている。見たことがない人種、性格。無でありながら、人間を演じること。


 人間の失敗作。


 初めて見て。


 初めて見て。


「これは勝てんわ。こんなのと戦ったら飲み込まれてしまう。全員に伝えよ。戦うな。同時に歓迎もするな。話すな、語るな。奴に言葉を通したら、最後終わりじゃ。あれは人間でも、人形でも、悪魔でもない。失敗作じゃ。初めて見た史上最悪な人間の失敗作じゃ。敵対するなよ、わしはまだ死にたくない。わしは家に戻る。これ以上進ませるなよ。わしは死にたくない。だが敬意は払えよ。まだわしはあれに睨まれたくない。金は弾め、ハリングルッズにも、あ奴にもな。その対応のみ話すことを許す。奴に敬意を示す場合もそれにあたるからの。ああ、なんて恐ろしいものなんだ」



 商人は笑みを浮かべて、踵を返す。ほかに誰もいないというのに、ただ口は病むことなく開かれている。


 彼が到着するのと同時に、商人は建物の中に入っていく。


「本当に人生は楽しいの!生きていてよかった。ああ、よいものを見れた。これであと十年は戦える。儲けられる。商売できる」


 その言葉のみを垂れ流し、商人は掻き消えた。


 笑みを浮かべて消えた商人の目論見は済んだ。


 だが、一人足を止めて、愕然とするようなものがいる。彼だ。何も言われずに、ただお偉そうな人を待たせて、到着しそうになったら消えてしまった人。


 悩むことなく、わかる。あの豪快そうな人物こそ、商人そのものだと。



 そして、その商人が消えてしまった。到着寸前で。


 彼は思った。


(会う価値すらないということ…?)


 失敗なのかもしれない。そういう結末なのかもしれないと、彼の行動は遅く、重くなっていた。また振り出しに戻るという点。それを再び巻き返すには、どれほどの時間と、運が必要なのか。



「…」


 少しだけ待つという考えもある。この場で。門の前で。恥を忘れて、ただ立ち尽くすという無様な醜態を晒すということが。


 できるわけもない。


 彼は商人が戻った門に背を向けた。


 無駄足だったと。


 思いたくもないが、彼は思うしかなかった。


 すたすたと今度は肉体も精神も一致したかのように、歩き出す。今度の場面では肉体面も精神面も剥離したとしても、再び会えるだろうという確信がある。


 宿に戻る。それのみが彼の行動理念。この町である程度物資を揃えたら、ベルクの町へ戻るという決意。就職に失敗した町にいつまでいても、心に傷をつけ続けるのみ。


 彼は失敗による喪失感と、どこかよかったという安堵感をもって門を抜けた。


 門を抜けた直後だ。


 脇に控えた門番が彼の背に声をかけた。


「 おめでとうございます、あなたは選ばれた」


 その声に振り返ることもなく、彼は突き進む。これに関しては聞こえていた。感謝の言葉とやらも選ばれたという言葉も聞こえたが、無視をした。


 相手に対して失礼という感情すらわくこともなく、すたすたと足は動くのみだった。

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