症例:《知ったかぶり》三日目

 目が醒めた。

 体を起こし、スリッパに足を通す。そして部屋から抜け出した。

 白い病院の中を歩く。

 外はもう暗い。星が瞬いている。

 朝まで寝る予定のところを、こっそりと抜け出して屋上まで行くのは、そろそろお馴染みのルーティンと化してきていた。

 階段を上がり、屋上への扉を開く。––––––やっぱり、ここの屋上は鍵がない。

 つまりはそういうことだ。

 誰もいない、世界にあたししかいない。

 そうだったら、どんなに楽だろう。

 あたしは扉の外側に体を滑り込ませた。

 夜風が髪を撫でる。


「––––––あれ?」


 あたしの視界に、いつもはないものが入った。

 その黒一面の夜空に、灰色のすらりとした体躯が映えている。肩にかけた毛布が風になびいていた。左手の指を飛び降り防止の柵にかけて、閑散とした夜を眺めている。その長い足と、––––––不自然なほど短い右腕。

 神々しいような、暖かいような、そんな雰囲気が漂っている。それでもよくわからない。さみしいような、冷たいような。

 目をそらせば、すぐに姿を変えてしまう。そんな危うさ。

 だからだろうか、こんなにも、目を離せないのは。

 ぼんやりと見つめていたあたしの視線に気がついたからなのか、彼はあたしを振り向いた。

「今晩は、お嬢さん」

 少し掠れた低い声が、心地よく耳に馴染んだ。

「…………にん、げん?」

 あたしの口から、そんな馬鹿馬鹿しい言葉が漏れた。

 彼はくすりと、「にんげんだよ」微笑みかけてくれた。

「あ、ご、ごめん、なさい」

 つい謝る。初対面の人に「人間ですか」なんて、相手を馬鹿にしている。

「駄目」

 すかさず訂正が入る。少し笑いを含んだ言い方だった。それなのに、ちっとも嫌な気分にならない。

「お嬢さんは何も悪くないから謝らないんだよ」

 優しい声だ。

 とても、優しい声。

 あたしには不相応な言葉だ。

「何か飲むかい?」

 彼は––––––この言い方であっているだろうか––––––彼のすぐそばにある自販機を指差して、あたしに微笑みかける。あたしは首を縦に振った。すると彼は自販機に硬貨を入れる。出てきた缶コーヒーを持った手で、己の隣のフェンスを音を立てるように叩いた。

 こちらへおいで。

 そう聞こえた。

 あたしは彼の隣に近づく。遠慮がちに。

「こん、ば、ん、………わ」

 改めて、あたしは言う。

「うん、今晩は」

 彼は灰色の髪を揺らした。

「あの、あなたは?」

「僕? 僕は患者だよ」

 あたしはその言葉に、目を見開く。––––––患者? そんな、馬鹿な。

 彼はそれが何ということもないことのように、あたしに暴露した。

「僕は夢憂病患者だ。だからここに入院してる」

 入院というより、収容って感じだよ。

 そう言って、彼はあたしに缶コーヒーを差し出した。

 大きな山の絵が描かれている。ちょっとリッチなやつだ。多分、ここの医療従事者が買ってるんだろう。

 そのあたたかいものを受け取った時、あたしはつい、彼のごっそりと無くなっている右腕に目を留めてしまった。嫌な気持ちになるわけではないけれど、あるはずのものがないのは、違和感がして、気になってしまう。

 ––––––罪深いね

 そうだ。罪深い。

「君は? 定期検査かな?」

「は、はい。その、あたしも」

 夢憂病なんです。

「あ、そう。まあ飲みなさい」

 終わってしまった。

 あたしはプルタブを開ける。かしゅっ、と、音がして。ふんわり苦いコーヒーの匂いが漂った。

 口をつけると、口を通って鼻に匂いが入る。香ばしい。あったかい。

 生来の猫舌の癖で、少し躊躇しながらぎりぎりまで傾けた缶の口に、舌を触れさせる。

 ほんわり。

 優しい、重さ。

「重いね」

 どきん、と。

 あたしの胸に何かがのしかかる。

「なに、が……ですか」

 彼はあたしを見ずに空だけを見ている。

「空が重い。今日の空は––––––重い」

 空が重い、その表現。

 不思議と理解できる、抽象的な、優しさだ。

 恐ろしい。吸い込まれるみたい。

 まるで、


「自分が自分で無くなるような感じだね––––––」


 彼は。

 そう、なんという事もないように呟いた。

「そうです」

 思わず呟いたあたしを、彼は横目で見る。また空に戻す。あたしは彼を見続ける。空は重い。光がちかちかしている。重くて深い。

「いつも嫌な夢を見るんです」

 あたしの口は自然と言葉を紡いでいた。

 彼は空を見ている。

「もう、やめにしたいんですけれど、やめにできないんです」

「どうして?」

 彼は、そうあたしに問いを投げかけた。

 夢憂病だから?

 いいや、違う、そうじゃない。

「あの人を––––––」

 どうしても。


「ころしてやりたい」


 あたしと、同じ目に合わせてやりたい。

 あの日の悲しみを、苦しみを。

「––––––いいんじゃないかな」

 彼は。

 あたしの想像を超えた言葉を言った。

 その言葉は、普通なら優しい声だと思うはずなのに、あたしの心を抉り、引き込み、閉じ込める。

 ひとひらの恐怖。

 あたしの背筋に悪寒が走る。

 何の感情も籠っていないその声は、不思議と怖くて。

 彼はあたしを見る。

 あたしの目と彼の目が合わさる。

 どくん。

 ––––––それも いいかもしれない。

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