はぐれドラゴンの湯 (後)

 彼は首を横に振った。


「人聞きが悪いねえ。俺は何もしちゃいねえさ」

「ですが……」

「ただまあ、治水工事はしたかな」

「治水?」

「そ。上流の川が堰き止められてたから、そいつを矯正した。お陰で澱んでた湖が綺麗になったみたいだな」


 竜が力を振り絞り、辺りを見回した。

 するとどうだろう。

 澱が浮き、毒々しい藻で覆われていたはずの湖の水面が、元の清らかさを取り戻しているではないか。

 まるであの頃の景色が戻ってきているようだった。


「黒い霧がどこにもない……」


 湖畔が浄化された事で、あの元凶が消えたのだ。

 正気を取り戻せたのもそのお陰だろう。


「それでさ竜のお嬢さん。あんたにちょこっとお願いがあんだ」

「お願いですか……?」

「獣耳族の連中にこの湖畔を使わせてやって欲しい」

「獣耳族……?」


 青年の後方、森の木々に隠れるようにして人影があることに気づいた。

 狼のような耳を持つ人々だ。

 彼らは恐々と様子を見守っている。

 誰も彼も見すぼらしい格好をし、顔に焦燥を滲ませ、長旅に疲れていた。


「あいつらさ戦争で住んでる場所がなくなったんだ。もうここしか行くところがねえのよ」

「……」


 青年の望みは、この湖畔を譲渡だった。

 無論、彼にはそれを望む資格があった。

 何故ならここにあった国は既に滅んでいる。もはや湖畔は誰のものでもない。

 何より邪竜討伐に成功したのだから。


「……一つだけ条件があります」

「あん?」

「どうか私の息の根を止めて下さい」


 竜の、彼女の願いは狂い出したあの時から変わらない。

 ただただ安らかになることだけ。

 そして、もし行けるのであればあの世へ、極楽浄土へと行き、親や同胞に会いたかった。


「そいつはできねえよ」

「何故?」

「だってあんたまだ生きれるもん。身体が弱ってるから心も弱ってるだけ。必要なのは湯治だな」

「湯治?」

「そう湯治。代わりに松の湯に来ねえか?」

「マツノーユ?」

「小さいけど居心地のいい水場だよ。常連客は皆んな、極楽だって言ってる」


 人が竜に住処を与えるなど聞いたこともない話だ。

 彼女は彼の話の半分も理解できなかったが、それでも『極楽』という言葉に心が惹かれた。


「……私がそれを望めるのでしょうか?」


 思わず口から出ていたその問いに、勿論と彼は力強く頷いた。


「あたぼうよ。松の湯のモットーは『来る者拒まず』だからな!」



 ――午後十一時。

 番頭は脱衣所で、和服の帯を解きながら、小さく溜息をついた。

 あれだけ賑やかだったのに、お客の姿は一人としておらずしんと静まり返っている。

 営業時間を過ぎた松の湯は、いつも少しだけ物寂しい。


 浴室に入り、背中を軽く流すと、湯船に浸かった。

 既にボイラーの火は既に落としている。

 湯はぬるく、多少物足りなかったが、眠るのにはこれくらいが丁度良い。


「ふう……」


 番頭は伸びをした。

 湯船の縁に背を付け、未だ浅黒い右腕に白い湯を撫でつけるようにかけながら、暫く湯の温かさを楽しんだ。


「……」


 それからいつものよう膝を抱え、湯のなかにもぐる。

 こうやって仕事終わりに、湯船に潜るのが彼女の習慣だった。


 普段の彼女であれば決してやらない行為。

 だが、今は午後十一時。

 湯に誰も入らない時間だ。

 営業時間を過ぎた、今だけはあらゆるマナーが適用されない。


「……」


 湯船の底でじっとうずくまっていると、少しだけあの頃を思い出すことができた。

 湖畔にいた時のこと。

 水底に沈んだ金銀財宝に寝そべっていたこと。

 会ったこともない親のこと。

 安心で、でも寂しかった遠い日々のこと。

 それから辛くて苦しかった日々のこと。


「……ふう」


 湯から顔を出すと、再び浴槽に背を預ける。

 明日は休館日だ。

 掃除や片付けや湯を抜くのも後回しでも良い。

 だからもう少し湯船に浸かっていようと思った。



 髪を乾かし、着替えを済ませた。

 消灯と施錠だけして、いつものように古びた暖簾を片づける。


「あ」


 敷地の外にでると人影があった。

 若旦那だ。

 彼はいつもの作務衣の上にジャンパーを羽織って、缶コーヒーをちびちびと飲んでいる。


「待っていてくれてたんですか?」

「別に。今出たとこだけど?」


 彼はそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。

 缶コーヒーを持っていない方の手にそっと触れてみる。


「……ななななっ!?」


 湯上がりにしては冷たかったので、きっと自分を待ってくれていたのだろう。

 相変わらず嘘が下手な人である。


「帰りにラーメン屋台に寄りましょう」


 そう提案してみる。

 夜中の駅近くに営業しているラーメン屋台があるらしい。

 昼間に若旦那が常連客と話をして、食べたそうにしているのを思い出したのだ。


「お、おう」


 若旦那は嘘がばれたことに動転したようだが、取り繕うように咳をした。

 顔が赤いのは何故だろうか。


「まあ番頭さんがどうしても行きてえなら付き合ってもいいけどよ」

「勿論、若旦那の奢りですよね?」

「え?」

「そうだ。特盛全部乗せ換え玉ありありで頼みましょう」

「ちょっま」

「冗談です」


 蝦蟇財布を覗き込んでいた若旦那は、ほっとした顔で「まあラーメンだけなら奢るけど」と笑う。


 それからテンションの高い声で何のトッピングが好きかを入れたいかしゃべり始める。

 よほど行きたかったらしい。


「やっぱラーメンには卵を入れなきゃ始まらねえよ」

「じゃあ私は葱を入れます」

「あそこは鳥出汁さっぱり系だ。きっと番頭さんも気にいるよ」

「いいですねえ」


 薄暗い商店街の通りに出る。

 ふたりだけで歩きながら、番頭は思った。


 自分はもう湖畔の竜ではない。

 親はなく同胞もない。


 でも今は松の湯という居場所がある。

 自分は松の湯の番頭で、いつでも客さんがいて、若旦那がいて、一人ではない。


「番頭さん……どうかしたかい?」

「いえ何でもありません」


 番頭は首を振り、微笑んだ。

 それから若旦那にも聞こえないような小さな声で「極楽極楽」と呟いた。

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