はぐれドラゴンの湯 (前)

(御入浴における注意事項)


・魔術師、エルフ、ドワーフなど様々なお客様が来店します。

文化や生活習慣の違いによるトラブルがあるかもしれません。

・入浴マナーは守りましょう。番頭さんを怒らせると大変なことになります。

・営業中・・・の素潜りは御遠慮下さい。



 湖畔には一匹の竜が棲んでいた。

 彼女は白金の鱗で覆われた、美しい雌の竜だった。


 美しい湖は広大な森で囲まれ、人の群れが立ち入ることはない。

 故に外敵はおらず、動物たちと静かに暮らしていた。


 彼女は大抵、湖のなかにいた。

 湖底に沈んでいる金銀財宝を腹に敷き眠っていた。

 誰のものかも分からない宝物。それを親が遺したものだと思い、触れることで、温もりの残滓を感じとろうとしていた。


 彼女は孤独な竜だった。



 やがて湖畔に『異変』が起きた。


 発端は、土砂崩れだ。

 河が堰き止められ、山の源流から水が運ばれてこなくなり、そのせいで湖の水質が僅かに淀み出した。


 最初に被害がでたのは水草だ。

 湖の水面を鮮やかな白で彩っていた睡蓮に異変が起き、花弁が毒々しい色をつけるようになり、更には悪臭を放つまでになった。


 次に魚や水棲生物たちが犠牲になった。

 元気に泳ぎ回っていたはずの彼らの鱗が黒くなり、疱瘡ができ、やがて無数の魚たちが泡を吐き、次々と水面に浮かんだ。


 勿論、小動物たちにも変化の兆しが出始めた。

 湖畔を水源とし、周辺の森で穏やかに暮らしていたはずの彼らのなかに、仲間を傷つけたり森の木々を喰い荒らしたりと狂った行動をとる個体が出るようになった。


 こうして湖畔の秩序が目に見えて、乱れだした頃、水面に何かがが漂いだした。


『黒い霧』のような何なのか。

 それが何であるのか彼女は判らなかった。

 どこからかやってきたのかも知らない。

 恐らく最初はごくごく小さな弱々しい存在だったのだろう。

 それが湖畔の水が淀んだことで少しづつ力を増していき、多くの生き物たちの生命を冒涜し始めたのだ。


 竜は何か手を打たなくてはいけないと考え、動きだそうと決意した。

 だがもうすべては手遅れだった。


 何故ならこの時点で、既に彼女自身も狂い始めていた。



『黒い霧』は狡猾だった。

 知らず知らずのうちに忍び寄り、彼女の白い鱗に張りつくと、間隙を縫うようにじわじわと浸食してき、やがて鱗の一部が完全に黒く染めた。


 その頃になると、身体のあちこちに嗜虐的な痒みと痛みが現れ始めた。

 彼女はその苦しみから逃れようと何度ももがき、暴れた。


 グオオオオオオオオオオオオオオオ!!


 尾で木々をなぎ倒し。

 爪で大地を抉り。

 おびえる他の生物たちなどお構いなしに咆哮し。

 血反吐を吐きのたうち回った。


 苦しみは彼女自身の力ではどうすることもできなかった。

 暴れながら心の中でどこかにいるかもしれない同胞に何度も助けを求めた。


 タスケテ。

 タスケテ。

 タスケテ――。


 だがどれだけ泣こうが呼ぼうが助けが来ることはない。

 これまで彼女は独りだった。

 今更、誰の助けが来ようか。


 いつしか全てを諦めた頃、その美しく白金に輝いていたはずの鱗は暗黒色に染まり果てた。



「偉大なる黒竜・・よ。どうか話を聞いて頂きたい」


 最初の『訪問者』は、年老いた人間だ。

 彼は冒険者組合ギルドに遣わされた使者だと名乗った。

 話を要約すると、街道の付近で暴れらると交易の妨げとなるので、どうか怒りを鎮めて欲しいという懇願であるようだ。


 勿論、どうすることもできなかった。

 助けが欲しいのは彼女自身であり、こうして対峙している間も、正気を保つのが精一杯だ。

 経緯など把握できないままに意識が途切れ――

 彼らとの戦いが始まった。


 毎日のように懸賞金や名誉を目当てに手に剣を携えた者たちが現れた。

 時には軍が出撃し。

 挙句、斧を携えたドワーフや弓を構えるエルフの群れが派遣され。

 果ては英雄と呼ばれる強者たちが駆り出された。


 だが誰一人、彼女を仕留めることはできなかった。


 やがて彼女は人々から『汚れた湖畔の邪竜』と呼ばれるようになり果てたが、その頃には正気に戻れる時間は瞬きする程になった。


 白濁した意識のなかで、彼女はいつもの湖畔にいた。

 かつての綺麗な湖底に沈み、あの寝床でひとり、ただただ死ぬことだけを願っていた。



 あるよく晴れた日のことだ。

 意識が戻ってきたのは久しぶりのことで、痒みも痛みもない。

 とても清々しい気分だったが、どうしても四肢に力が入らなかった。


 ――ああ死にかけているのだな。

 彼女は状況を理解した。


 ついに何者かが自分を倒してくれたのだ。

 名のある剣の使い手か、象牙の塔より派遣されし魔導師の旅団か。

 何れにしろ自分を討伐できたのだから余程の手練だろう。


 彼女は重い瞼をなんとか開け、最期に一目その人物の姿を拝もうと試みた。


 果たしてそこに人影がひとつ。

 精悍ではあるが、これまでに見てきたどの戦士よりも細見で、かといって腕の立つ魔術師のような魔力も伺えない。

 あらゆるものを見通す彼女の瞳は、彼がただの人間の青年であると告げていた。


「やあ白竜の旦那。いや御嬢さんかな?」

「……教えてください……どのように……私を仕留めたのですか……?」

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