アネクドートⅡ イリアとシードの恋愛模様

 大国マジカリア。テュレーゼの創世神話の中で語られる十貴士が一人、“究極の魔導師”マジカリアから名を取ったテュレーゼの中心国。

 その国の第二王女・イリアタルテは、一人気ままに王城の庭園を散歩していた。あの男が現れるまでは。

「はーっはっはっは! ごきげんよう、イリア姫!」

 耳障りな笑い声に始まり、風を取り巻いて目の前に降り立ったのは、隣国ジェンディスの第二王子・シーウォルドだった。

 コバルトグリーンの腰まで届く長い髪を一つに束ね、ストライプの入ったライトグレーのスーツを優雅に着こなす。シーウォルドは微笑んで恭しく一礼した。

「お散歩ですか? ご一緒しても」

「また出たわね、シーウォルド!」

 よろしいですか? まで言わせず、イリアは威嚇体勢を取る。フクシャ色のツンツンとした長髪にサルビアブルーの瞳。

 イリアはきっ、とシーウォルドを睨みつけた。

「いい加減にしなさいよ! 毎日のように私につきまとって!

 だいたいね、いくら王族だからってひょいひょいうちの庭に入ってこないでくれる? ったく、門番は何をしているのかしら」

「貴女に逢うためならば、どんな強固な壁も乗り越えて見せますよ。我が愛しのイリア姫」

 そう言って、シーウォルドはイリアの足元に跪き、イリアの右手を取ってその甲に軽くキスをした。

 ぞわぞわっとイリアの背筋に悪寒が走る。イリアは悲鳴を上げ、シーウォルドを爆発魔法で吹っ飛ばした。

「私に近づくな、粘着質男ぉーっっ!」



 城の自室に戻ったイリアは、憤然としてドアを開けた。部屋で待っていた妖精のクオーツが驚いて飛んできた。

「イリア様、どうかなさったのですか?」

「どうもこうもないわ! またあいつが来たのよ!」

「あいつ?」

「あの粘着質男よ!」

 どさっとベッドに腰掛けて枕元のブラシを手に取り、イリアは乱れた髪を梳かす。クオーツは「ああ」と得心のいった顔で頷いた。

「ジェンディス国のシーウォルド様ですね」

「あんな奴に“様”なんていらないわ。キザ男で充分よ」

 ぷんすかと怒るイリアに、クオーツは困ったように眉をハの字にする。

「イリア様はなぜそんなにもシーウォルド様を邪険になさるのですか? 悪い方ではないでしょうに」

 シーウォルド・リオーナー・ウィル=ジェンディス。マジカリアと同じ十貴士“煌水こうすいの幻惑士”ジェンディスから名を取った隣国の第二王子。

 クオーツの言う通り、彼の悪い噂は一つも聞いたことがない。

 容姿端麗で、国民からの人望も厚く、魔法力も国内一の実力を持つ兄の第一王子にも引けを取らないとか。

 アイスグリーンの切れ長の瞳は綺麗だと思うけれど、あのしつこさにはどうしても腹が立つ。

 シーウォルドとの出会いはついひと月前。ジェンディス国との会合に出る父王に、珍しくついていったのが間違いだった。

 他国の城に入るのは初めてだったので、イリアは父とジェンディス国王にお願いして庭園を見学させてもらった。

 その数日後、庭を歩いていたイリアを見かけたというシーウォルドが「一目で貴女を気に入りました」などと言って訪ねてきたのだ。

 それ以来、彼はイリアにつきまとっているというわけで。

「私は粘っこいものは嫌いなの。それにね、あいつは私の好みの対極に位置してるのよ。いたっ」

 怒り任せに髪を梳かしていたせいで、ブラシに髪が引っ掛かった。引っ掛かった髪の毛を外そうとすると、クオーツが魔法で大きくなり、そっと手を遮った。

「無理やりなさっては髪の毛が傷んでしまいます。綺麗な髪をお持ちなのですから大事にしませんと」

 ブラシに絡まってしまったイリアの髪を、クオーツは丁寧に外してくれる。

 ヒトと同じ大きさになったクオーツは、イリアより頭一つ分ほど背が高い。外見の年齢は十五歳のイリアより二つ年上くらいだ。

 間近にあるクオーツの顔に、イリアの胸がどきんと高鳴る。さらりとクオーツのセミロングの髪が胸の前に流れ、イリアはその髪に視線を落とす。

「……クオーツの方が綺麗よ」

 風族特有の毛先だけ水色のクリーム色の髪。翠色の瞳。クオーツの髪はまっすぐでサラサラで、自分の癖っ毛なんかよりよっぽど綺麗だ。

「何か仰られましたか?」

 顔を上げたクオーツと目が合いそうになり、イリアは頬を赤らめて顔を逸らした。

「な、なんでもないわ」

 一度高鳴った鼓動はなかなか治まらない。イリアは一年前、クオーツに会ってから彼に恋心を抱いていた。

 初めは兄ができたような感覚だったが、だんだんと彼に惹かれていった。

 けれども、自分とクオーツは身分違いどころか種族も違う。

(私、どうして王家に生まれてきたんだろう)

 せめて王家でなければ。庶民であったなら、種族の壁だけ越えればいい。それだけでも難しいことだが。 

「はい、取れましたよ」

「ありがと、クオーツ。…ねえ、しばらくそのままの大きさでいてよ」

「え? ですがこの大きさだと羽が邪魔になるかと」

「だったら羽は消せばいいじゃない。別にそんなに困らないでしょ?」

「……分かりました」 

 微苦笑し、クオーツは背中の羽を消した。優しくて穏やかなクオーツ。イリアはそんな彼が大好きだった。あんなしつこい男よりもずっと。



 その翌日も、翌々日もシーウォルドはやってきた。

 今となっては、シーウォルドがイリアの周りをうろつくのも、シーウォルドがイリアに魔法で吹っ飛ばされるのも当たり前のことになっていた。

 時には贈り物として、ドレスや宝石のついたアクセサリー、花束を持ってきたりもしたが、イリアは全部突き返した。

「もぉーっ、しつっこいわね! もう来るなって言ったでしょ!? そんなもの持って来たって私はあんたなんか嫌いなのよ!」

「照れていらっしゃるのですか? そうですね、人前では恥ずかしいというならば、人のいない静かな所へまいりましょう。貴女のためにとっておきの場所を見つけたのです」

「ぎゃーっ、どこ連れてくつもりよ! 人気のないところって…クオーツ! クオーツー!」

「ご安心を。何も危険などありません」

「あんたと二人っきりっていうのが充分危険よ! 何されるか分かんないじゃない! クオーツ! 殺虫剤持ってきてー!」

「おや、虫が怖いのですか? 虫などこの僕が瞬く間に退治して差し上げます」

「退治されるのはあんたの方よ! 近づかないでよ害虫ーっ!」

 どんなに冷たくあしらってもシーウォルドはイリアに会いに来た。ある時、イリアはシーウォルドに尋ねてみた。

「ねぇ、シーウォルド。どうしてあんたは私につきまとうの? 毎日そんな苦しい思いしてるのに」

 魔法弾をぶち込まれ、うずくまっていたシーウォルドは脇腹を押さえながら苦笑する。

「苦しくなどありませんよ。苦しいことがあるのなら、それは美しい貴女に逢えないことです」

 イリアは思い切り顔をしかめた。

「よくもそう口が回るわね。恥ずかしくないの?」

「僕が貴女に逢いに来るのは、ひとえに貴女への愛ゆえ」

「ア、アイって……」

 あまり聞き慣れないので赤面するイリア。シーウォルドは立ち上がってイリアに近づく。イリアはさっと身構えた。

「イリア姫。僕は一目見た時から貴女に恋をしているのです」

「!」

 微笑んでいるが、いつもと違って真剣な目だ。いや、いつだってシーウォルドは真剣だった。

 ただ、イリアはこれまで正面からシーウォルドと向き合ったことはなかった。うっとうしさからまともに相手をしなかったのだ。

 今、初めてシーウォルドの瞳をまっすぐに見つめた。

「貴女は罪な女性ひとだ。あの日から、貴女の瞳が、声が、姿が…僕を魅了してやまない。貴女を求めずにはいられないのです」

「んなっ……」

 リンゴのように顔を真っ赤にさせるイリア。正面きって言われたことがなかったので、イリアはシーウォルドの顔が見ていられなくなり、ぐるんと体を反転させた。

(冗談やめてよ! そんな真剣な顔で言うなんて反則だわ!)

 シーウォルドは背を向けたイリアの髪を一房手に取る。

「強く気高いイリア姫。僕を惹きつけてやまない貴女の心に、少しでも触れることができるのなら…僕は何度でも貴女に逢いに来ますよ。いくらでも愛の言葉をささやき続けましょう。

 ずっと貴女だけを想い、そばにいますから。イリア姫、何があろうとも僕は…貴女だけを愛し続けます」

「…………」

 プロポーズとも言えるシーウォルドの告白を、イリアは耳半分で聞いていた。こんなふうに真剣に気持ちをぶつけられたのは初めてで、戸惑ってしまう。

 それに、どんなに想いを向けられても、自分には心に想うヒトがいるのだから。

 何も答えずにいると、シーウォルドは手に取ったイリアの髪に口づけをし、「またお逢いしましょう、僕のイリア姫」と魔法で姿を消した。

 動けずにいたイリアは、しばらくしてぽつりと呟いた。

「僕のイリア姫って……勝手なこと言わないでよ」

 まっすぐに向けられたシーウォルドの想いに、イリアはどうしたらいいのか分からなかった。



 それからもシーウォルドはイリアに逢いに来る。シーウォルドの態度は相変わらずで、イリアは戸惑いがありながらもいつものように追い払った。

 そんな風に日々が過ぎ、イリアは十六歳の誕生日を迎えた。

 テュレーゼにはマジカリア女王を決めるための女王試験というものがあり、マジカリア王位継承者の十六歳の誕生日に数名の候補者が選出され、試験が行われる。

 王家の者は十六歳になると自動的に候補者となるので、第二王位継承者のイリアも本日付で女王候補者となった。

 候補者たちは人間界――リーフェへ赴き、主人あるじとして選んだ人間の願いを三つ叶えなくてはいけない。

 王家の場合、女王試験を受けることは掟でもあるので、イリアはクオーツとともに掟に従ってリーフェへと向かった。

 試験は順調。高校生の女の子を主人あるじに選び、願い事も二つ叶えた。リーフェに来て三日目のことだった。

「んーっ、あと一つ願いを叶えれば試験終了ね~!」

 小高い丘の上にある木の枝に腰掛けたイリアは、両腕を空に向けて伸びをする。

「そうですね。ここまで何事もなくてよかったです」

「まあねー、リーフェに来てからうるさいのがいなくて平和だったし」

 そう言って、イリアははふと黙りこんだ。肩の近くに滞空していたクオーツが「どうしましたか?」と顔を覗き込んでくる。

「ふぅ……」

 膝の上で頬杖をついてため息をつくイリア。

(この三日間、確かにうるさいのがいなくてせいせいしたけど、毎日顔を見ていたせいかあの男がいないとなんだか……)

「シーウォルド様に会えなくて寂しいですか?」

「!!?」

 ぎょっとしてイリアはクオーツを見る。

「な、何それ! 寂しいって…なんで、あの粘着質男に会ってないからって私が寂しがらなくちゃいけないのよ!?」

「いえ、そのような顔をなさっていたのでそう思っただけなのですが…」

 イリアは慌てて顔を逸らし、ぺちぺちと両頬を叩いた。

(うそでしょう!? 私、そんな顔してたの!?)

 シーウォルドに会わない三日間を『寂しい』と思うなんて、ありえない。しかも、よりによってクオーツにそう感じているように見られるなんて。

(サイアク……ッ)  

 恥ずかしいような後ろめたいような、悔しさに似たものが込み上げてきた。

 その後、イリアは主人の三つ目の願いを叶え、無事に試験終了となり、テュレーゼに戻ることになった。

 けれども、クオーツに言われたことが頭から離れなくて、ずっと心がモヤモヤしていた。

 そんなモヤモヤを抱えたままテュレーゼに戻ったイリアを、城に仕えている者や家族はあたたかく迎えてくれた。

 みんなからの労いの言葉に笑顔を返しながら、きっとあの男のことだから、またキザなセリフでも吐きながら会いに来るんだろう、とイリアは内心苛立っていた。

(あー、ムカつく。全部あいつのせいだわ。今度顔出したら、問答無用で吹っ飛ばしてやるんだからっ)

 と思っていたのだが。

「……シーウォルド様、会いに来られませんでしたね」

 自室で窓から夜空を眺めていたイリアは、クオーツの言葉にぴくりと反応した。そう。シーウォルドは今日、一度も顔を見せなかったのだ。

 シーウォルドの今までの言動からして、イリアが帰ってきたら絶対に会いに来るだろうと、魔法の準備をしていたのに。

「まあ、顔を見せなかった日が今まで全然なかったわけでもないし? 明日は来るんじゃないの?」

 と、この時は深く考えていなかった。ところが、その次の日も、また次の日も、さらに次の日も、シーウォルドが会いに来ることはなかった。

 イリアがテュレーゼに帰ってきてから一週間。さすがのイリアもおかしく思い始めていた。あの粘着質男が一週間も顔を見せないなんて!

(それとなくお父様に訊いたら、あの男は体調を崩してるわけじゃないみたいだし。ということは、自分の意志で私のところに来ていないってことよね? 一体どういうことよー!?)

 今まで何度来るなと言っても会いに来ていたくせに。イリアは窓辺に持ってきた椅子に座り、頬杖をついてぶすくれた顔で外を見ていた。

 こんなことは今まで一度もなかったので、困惑となぜか怒りがふつふつと沸き起こってくる。

(なんでこの私があいつのことでこんなにイライラしないといけないの!? いえ、イライラしているのはいつものことだけど、いつもと違うイライラなのよ!)

 怒りをぶつけたいのに、そうできる対象がない。イリアの怒りはついに頂点に達した。

「あーっ、もう! あっちが来ないならこっちから行ってあげるわよ!! 私に会いに来ない理由を聞き出して、今までのうっぷんを晴らしてやるんだから!!

 何よ、何度でも会いに来るとかそばにいるとか言ってたくせに、うそつき男!」 

 イリアは勢いよく立ち上がり、おろおろとイリアの様子を窺っていたクオーツを連れ、ジェンディス国へと急いだ。



 ジェンディス国は水の多い国で、川や池、湖があちこちにある。

 湖の上に浮かぶジェンディスの王城。イリアとクオーツの二人はそこにやってきていた。

 ジェンディス城はシーウォルドの実家なので、彼はここにいるはずだ。

 魔法力を辿り、庭園の奥にある林を抜けると、草原の広場のようなところに出た。

 茂みに隠れながらシーウォルドを探していると、花畑に立っている彼を見つけた。

「いたーっ。あんの粘着質男! こんなところで花なんか眺めて何様のつもりよー!」

「イリア様に贈られる花を見つくろっていたのではありませんか?」

「え?」

 クオーツがイリアの肩に止まって微笑む。その表情にイリアはどきっとするが、同時になぜかちくりと胸が痛んだ。

「シーウォルド様は真剣にイリア様のことを想っていらっしゃいます。それをイリア様も解っていますでしょう?」

 イリアは口をつぐんで、俯いた。

(言われなくても解ってるわ。でも、私はシーウォルドよりもクオーツの方が…)

「あっ」

 クオーツの焦ったような声に、イリアは顔を上げた。そして目に飛び込んできた光景に愕然とする。

 花畑の中に立つシーウォルドのもとに、小柄な少女が笑顔で近づいていった。少女は花畑で摘んだであろう花束をシーウォルドに手渡す。

 シーウォルドがうれしそうに笑みを返しながら受け取り、花束の中から花を一つ選ぶと少女の髪に挿した。

 笑い合う二人はとてもお似合いだった。まるで恋人同士のように。ズキン、とイリアの胸が痛む。だが、イリアにはその胸の痛みの理由が解らなかった。

 どうして、シーウォルドと女の子が二人でいるところを見て胸が痛むのだろう。

 クオーツが気まずげにイリアの顔を窺う。イリアは呆然と二人を見ていた。

 その時、シーウォルドが自分の左耳のイヤリングを外した。あれは彼の法石だ。まさか……

 シーウォルドが何事か話して、イヤリングを少女の前に差し出す。

「!!」

 無意識にイリアはその場で立ち上がっていた。自分の法石を異性に手渡す。それは魔法界での正式な求婚プロポーズの仕方だ。

 茂みの音に気づいたシーウォルドと少女がこちらを振り向く。

「! イリア姫……!?」

 少女の方は驚いて口元に手を当てている。シーウォルドの驚いた顔なんて珍しい。けれど、今はそんなことはどうでもいい。

 イリアの中に、言い知れない怒りと―――悲しさが込み上げた。

「……そう。あんたがこの数日、私に会いに来なかったのはその子が原因だったのね」

「え? あ、いえ彼女は……」

「私なんかよりその子の方がかわいいものね。素直そうで優しそうだし、私なんかとは大違い。だからその子に心変わりしたんでしょう?」

「心変わりだなんて、何を言っているんです? 僕は」

「言い訳なんて聞きたくないわ!」

 グッと両手を握りしめ、イリアはシーウォルドの言葉を遮った。シーウォルドはイリアの表情に瞠目する。イリアは泣きそうな顔をしていたのだ。

「いつかはこんな日が来るんじゃないかって思ってたのよ。

 あんたはずっと私を想い続けるって言ったけど、あれだけ追い払われれば嫌にもなるわよね。

 あきらめたくなるわよね。当然よ。でもね、だからって突然顔を見せなくなるなんてあんまりじゃないの!?

 一言くらい言ってくれたっていいじゃない! あんたが来なかったこの一週間、私がどんな思いで……っ」

 ポロッとイリアの目から涙が一粒、零れ落ちる。イリアは弾かれたように踵を返してその場から逃げ出した。

「イリア様!」

「イリア姫!」

 クオーツとシーウォルドの声に構わず、イリアは林の中を無我夢中で駆けていく。

 モヤモヤを消すためにシーウォルドに会いに来たのに、モヤモヤが一層強まってしまった。もうどうしたらいいのか分からない。

 苦しい。悲しい。誰か助けて。

「イリア姫!」

 上空からシーウォルドの声が降ってくる。足を止めたイリアの前にシーウォルドが降り立つ。イリアは目に涙を溜めてシーウォルドを睨んだ。

「なんの用よ! 私のことなんかもうあきらめたんでしょう!? 放っておいてあの子のそばにいなさいよ!」

「イリア姫、どうか落ち着いて。僕の話を聞いて下さい」

「うるさいっ。あんたなんか大嫌いよ! あんたは私の好みの対極にいるんだから!! なのになんでよ!?」 

 ポロポロとさらにイリアの目から涙が零れる。ぬぐってもぬぐっても涙が溢れて止まらない。

「なんで……あんたに会えないからって、モヤモヤしなくちゃいけないの? 女の子と一緒にいるところ見ただけで、胸が痛くならないといけないのよ。

 なんでっ……こんなに涙が出てくるのよぉっ。全然、解らない……」

 ついには顔を覆って泣き出したイリアを、シーウォルドはそっと近づいていって抱きしめた。

「何するの! 放しなさいよバカ!」

「いいえ、放しません。放したくありません! もう……離れたくありません」

 ぎゅうっとシーウォルドの腕に力が加わる。イリアは初めて感じるシーウォルドのぬくもりに、少しだけ落ち着いてきた。

「ずっと貴女に逢いたかった。逢いに行きたかった。貴女に逢えなかった一週間……僕は狂おしさでどうにかなりそうだった。

 けれど貴女は女王候補となり、おいそれと逢える存在ではなくなった」

「え……あんたが私に逢いに来なくなったのって……」

(私が女王候補になったから? だから、気が引けてたというの?)

 そんなことを気にする男だったなんて。いや、それよりも。

「それだけの理由で一週間、音沙汰なしだったの!? そんなの気にしてないで、会いたいなら会いにくればよかったじゃないっ」

「そうするわけにはいかない。テュレーゼにおける女王がどれだけの存在かを貴女も知っているだろう」

 今頃気づいたが、シーウォルドの口調がいつもと違う。シーウォルドの口から敬語以外を聞いたのは初めてだった。

「女王候補は、選定が終われば次期女王として選ばれるかもしれない。次期女王となれば、それこそ手の届かない存在だ。

 そんな、この世界にとって大切な存在に、軽々しく近づくなんて…できるわけがない。してはいけないんだ」

 いつも自信たっぷりなシーウォルドの声が、今は頼りなさげだ。イリアは今までとは別の怒りを感じて、無理やりシーウォルドの腕を逃れる。

「何よそれ! 私が女王候補になったから会えなかった!? いずれは次期女王になるかもしれないからダメ!? あんたの気持ちってその程度のものだったの!?」

「!」

「まだなってもいないのに、なると決まったわけでもないものに躊躇するくらいの想いだったって言うのね!

 ずっと私のことを想ってるって言ったくせに。そばにいるって……あ……愛し続けるって言ったのに、あきらめるの!?

 他の女の子のところに行くの!? そんなの……勝手すぎるわ」

 またじわりと涙がにじみ出てくる。視界がぼやけてきた。

「あんたはいつも勝手よ。うっとうしいくらい私の周りをうろついて、そのくせこんなふうに突然いなくなって。

 勝手すぎるわ。どれだけ私を振り回せば気が済むの?

 この心のモヤモヤはあんたのせいでしょう!? なんなのか教えなさいよ! なんとかしなさいよ!

 モヤモヤが消えるまで……他の女の子のところに行くなんて許さないんだから!!」

 その瞬間に腕を引っ張られ、イリアは再びシーウォルドの腕の中にいた。

「うれしいですよ、イリア姫。貴女がそれほどに僕のことを愛してくれていたなんて」

「はあ!? 何よそれ!?」

 言葉通りうれしそうな声のシーウォルド。イリアはぼっと赤面した。

「先ほどの質問に答えましょう。貴女の心を惑わすモヤモヤは、嫉妬ですよ」

「嫉妬ぉ?」

「ええ。貴女は僕が自分以外の女性といるところを見て嫉妬したのです」

「なっ……バカ言わないでよ! どうして私が嫉妬なんてしないといけないの!? ありえないわ! それより、こんなところさっきの子に見られたら大変でしょ!?」

「ふふ。確かに文句を言われるかもしれません。けれどご安心を。彼女は貴女が思い描いているような人ではありませんよ。彼女は僕の妹ですから」

「…………は?」

 目を点にするイリア。シーウォルドはにこにこ笑いながらイリアの体を放した。

「いもう、と?」

「はい」

「で、でも! あんた、あの子に法石を…」

「あれはですね、予行演習ですよ」

「予行演習?」

 怪訝な顔をするイリアの前に、シーウォルドはさっき外したイヤリングを上着のポケットから取り出してみせた。

「本当は明日、貴女に逢いに行くつもりでした。これを貴女に渡すために」

 差し出されたヒヤシンス色のひし形のイヤリング。自分の法石を異性に手渡すのは正式な求婚の儀式。

「イリア姫、誰よりも貴女を愛しています。ですからどうか、貴女の心の花を僕に咲かせて下さいませんか?」

 イリアは差し出されたイヤリングをじっと見つめていた。これを受け取り、自分の法石を相手に渡せばプロポーズは成立する。

 いつの間にかモヤモヤは消え、代わりに心臓がどきどきしていた。なぜか法石を交換してもいいような気がしていた。自分の好みとは対極にいる男だけれど、その想いは真実ほんとうのようだから。

「……あ、あんたがどうしてもっていうなら……もらってあげなくもないわ」

 ためらってから、イリアがイヤリングを受け取った時だった。

「お兄様ぁ~っ!」

 頭上から聞こえた少女の声に、イリアは手を引っ込めた。見上げると、さっきシーウォルドといた少女とクオーツが降りてきた。

「シードお兄様、ようやく見つけましたわ! それと……ああん、イリアお姉様!」

「はい?」

 自分を見て目を輝かせている少女に、イリアは目をぱちくりさせた。

「ああ、本物ですのね? 信じられませんわ。こんなにおそばで本物のお姉様を見られるなんて! なんという幸運でしょう!

 あら、いやですわ、あたくしったら名前も名乗らずに。イリアタルテ王女、ご無礼お許し下さい。

 あたくしはノーマリア・リオーナー・ウィル=ジェンディスと申します。ノアとお呼び下さいませ」

 ドレスの裾を広げ、お辞儀する少女。長い癖のない金髪。青い瞳。よくよく見ると、シーウォルドに似ていなくもない。

「イリア姫、ノアは昔から貴女に憧れていまして、姫へのアプローチも彼女のアドバイスなのですよ」

「はあ……えっと、ノア……でいいの?」

 イリアが声をかけると、ノアは頬を紅潮させて身悶えした。

「ああん、お姉様に愛称で呼んでいただけるなんて、あたくし幸せでとろけてしまいそうですわぁ!

 ああ、でもイリアお姉様は女王候補の身。『お姉様』だなんて軽々しく呼んではいけませんわよね!」

「え、い、いいわよ? 別に。好きに呼んでくれて」

「まああっ、なんてお優しいお言葉! 素敵ですわ、イリアお姉様ぁん!」

 清楚な女の子かと思ったらなかなか激しい娘だ。さすがはシーウォルドの妹。しかし、なぜにここまで心酔されているのやら。

「ところでお兄様、プロポーズは成功しましたの?」

 わくわくと尋ねるノア。シーウォルドは笑って頷いた。

「ああ、今法石を受け取ってもらったところだ」

「まあ! では、あとはお姉様から法石をいただくだけですのね!?」

 ノアが期待のこもった目でイリアを見る。イリアは赤面して、つい怒鳴っていた。

「か、勘違いしないでよ! まだ完全にプロポーズを受けたわけじゃないんだから!」

「え?」

 きょとんとするノア。シーウォルドは分かっていたとでもいうように微苦笑する。

「この粘着質男が勝手に法石渡してきただけで、私はいいなんて一言も言ってないのよ!

 だいたい、私はこいつのこと嫌いなんだから! 法石を受け取られたからって調子に乗らないでよね!?

 もう帰るわよ、クオーツ! 目的は果たしたんだからっ」

「は、はい」 

 魔法で飛び去るイリアを、クオーツはシーウォルドたちに一礼してから追いかける。ノアが残念そうな顔で見送る。 

「がっかりですわ。すぐにでも『あたくしのお姉様』になっていただけると思いましたのに。けれども、一歩前進したようですわね、お兄様」

 くるっと振り返って、ノアは楽しそうに微笑む。風が吹き、二人の髪を揺らした。シーウォルドはくすりと笑い、前髪を掻き上げる。

 あれだけ熱烈に思いをぶつけられたなら、応えないわけにはいかない。

「ああ。それと本人からお叱りを受けたから、明日からまた逢いに行くことにするよ。それがあの方の望みのようだからね」

 僕はもう貴女の虜。僕のすべてを貴女に捧げますよ、いとしいイリア姫。



 その後、イリアは次期女王に選出された。

 彼女がシーウォルドに自分の法石を渡したのは、それから半年後。

 『シード』と愛称で呼ぶようになったのはその一年後。

 そして、周りから催促され続けてシーウォルドと結婚するのは、さらに四年後のこと。

 ここから新たな物語が始まる。

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