23th 約束

 一陣の風が吹き、全員の髪を揺らした。目を閉じたアスカは、出した『答え』を告げた。

「ごめんなさい」

 アスカは――渡羽に向かって頭を下げた。

 渡羽の表情は変わらない。アスカはそのまま続けた。

「あたし、やっぱり魔法界に帰るわ。昨日、一晩中考えて、いろんなことを思い出して、分かったの」

 初めて渡羽と出逢った時のこと。最初の願いを叶えた時のこと。渡羽が告白してくれた時のこと。

 プールでバルカンや明衣子と会った時のこと。翔子姉様やその家族と会った時のこと。

 そうして一つ一つ思い出して、改めて分かった。アスカは顔を上げ、微笑んだ。

「あたし、渡羽のことが大好き」

 渡羽は軽く目を瞠る。アスカははにかんで、下に少し視線をずらした。

「この一年……一緒に日々を過ごしたね。楽しいことも悲しこともあったけど……幸せだった。この一年は渡羽との思い出でいっぱいだよ」

 けれど、思い出を振り返っていって、マジカリアに里帰りした時。あの時の町のみんなの笑顔を思い浮かべた時、心が温かくなった。

「いっぱいだけど……マジカリアのみんなの笑顔を思い出したら、切なくなった。……守りたいと思ったの」

 自分の生まれ育った国。いるべき世界。守るべき愛する民。それは、どうしても捨てられないもの。

 アスカは真剣なまなざしで渡羽を見つめ返した。

「だから、あたしは帰らなくちゃいけない。あたしは王女で、次期女王としての責任がある」

 一晩考えて出した『答え』がこれだ。出したはいいが、渡羽と離れるのはとてもさみしい。

 初めて好きになった人。この世界に来て初めて巡り逢った人。いとしい人と会えなくなるのはつらい。

 それでも選んだ。この結果に悔いはない。だって――忘れるよりいい。

 “伝書本エシリムウェルハー”によってレイゼルから示された、リーフェに残る方法。それは“忘れる”ことだった。

 魔法界に関わることは、一部を除いて人間界の住人が知ってはいけない。

 だから、女王試験が終われば試験に関わった人間からは、魔法界に関する記憶を消される。

 アスカがこれからもずっと人間界に残っていれば、いずれ魔法界の存在を人間が知ってしまう恐れがある。

 だから人間界に残りたいなら、魔法界での記憶をすべて忘れなくてはならない。

 家族のことも、魔法のことも、そして渡羽のことも。なぜなら渡羽は魔法界の存在を知ってしまっているから。

 魔法界に関わったものすべてを忘れ、まっさらなただの人間として人間界で生きること。

 それが女王に選ばれてもなお、人間界に留まれる唯一の方法だ。

 もちろん渡羽からもアスカの記憶は消え、二人は知らない者同士となる。

 けれど結果的には、渡羽のそばにいたいというアスカの願いは叶う。互いに記憶がないだけで。

 それでもいいというのなら、リーフェに残ることができるのだが。アスカはそんなのは嫌だった。

 忘れて互いに見知らぬ者として同じ世界にいるくらいなら、違う世界にいても記憶があった方がいい。

「魔法界に帰ったら……もう渡羽には会えなくなるけど、これがあたしの選んだ道なの」

 悲しげに微笑むアスカ。渡羽は表情を消し、ただアスカの目を見つめ返している。

「それにね、女王の役目は魔法界を統べ、守ることだけど……もう一つ、大事な役目があるの。それは……リーフェを守ること」

 テュレーゼミアルの故郷であるリーフェ。遠い昔、ジョアロトが新世界へと移住する時、一部のジョアロトがリーフェに残ることになった。

 そのジョアロトたちを守り、導くために、誰かがリーフェに残らなくてはいけなかった。

 十貴士の一人であり、マジカリアの恋人でもあったアイクレート。彼はそれを望んだ。



『アイクレート』

 一人、丘の上から町を見下ろしていたアイクレートは振り返った。

『……マジカリア』

 微笑んで佇んでいたのはいとしい恋人。

『おまえの考えていることは分かる。リーフェここに残りたいんだろう?』

『!』

『「どうして分かったんだ」とでも言いたそうな顔だな。分かるに決まってる。おまえはそういう男だ。愛よりも仕事を優先する』

 微苦笑するマジカリアに、アイクレートは顔をゆがめて顔を逸らした。

『……すまない』

『なぜ謝る? 私だって似たようなものだ。それに、そういう奴だと知ってて、私はおまえを愛した』

 目を伏せ、マジカリアはそっと恋人の胸に手を当てた。アイクレートの鼓動が手に伝わってくる。

『マジカリア……オレは、彼らを放ってはおけない。君とともに新世界には行けない。だが』

 顔を戻し、アイクレートは痛みをこらえるように言った。

『君を愛している。心から、誰よりも』

『……知っているよ』

 アイクレートと目を合わせ、マジカリアは初めてさみしげに笑った。つらいのは互いに同じ。

 切なげにほんのわずか見つめ合い、アイクレートは一度目を伏せると、真剣な表情でマジカリアの瞳を見つめ返した。

『どんなに離れていようとも、二度と逢えなくなろうとも、オレは君を愛し続ける。そして守り続ける。君と、君が愛したこの世界を』

『ああ。私もおまえを愛し続ける。遠く離れてしまっても、逢うことはできなくなっても、守ってみせるよ。おまえと、おまえの住むこの世界を』

 その気持ちも互いに同じだから、マジカリアも涙を抑えて真剣なまなざしで頷いた。



 互いに守ると誓った。愛し続けると誓った。遠く離れていても、心は繋がっていると。

 その誓いは、マジカリアがテュレーゼの女王になってから、代々受け継がれることとなる。

 テュレーゼとリーフェを守ること。それがテュレーゼの女王の役目。

 泣きそうな顔で、アスカは笑った。拳を握りしめていないと、涙があふれそうだった。

「あたしね、本当に渡羽のことが好きなの。渡羽に関わるもの全部が好き。美鳥母様や修吾父様、バルカンに明衣子、翔子姉様……みんな大好き。そのすべてを守りたい」

 マジカリアがアイクレートに誓ったように、自分も守りたい。離れても、逢えなくなっても、そうすることで、いとしい人を守れるなら。

「あたしは、テュレーゼの女王になって、渡羽の住むリーフェを守りたいの!」

 守るために、別れることを選んだ。あなたのすべてを守れるなら、さみしさもつらさも我慢しよう。マジカリアもきっと同じ思いだったに違いない。

 アスカの叫びを聞いても、渡羽はしばらく無言だった。ちらっとレイゼルを見ると、レイゼルは腕を組んで、自分たちの様子を見ていた。

 テュレーゼに帰る。それがアスカの出した『答え』。なら、自分の『答え』は――

「アスカがそう決めたのなら、俺は何も言いません」

 渡羽は微笑する。アスカは大きく目を見開いた。

「俺も一晩中考えました。正直、アスカとは離れたくありません。でも、これは俺が選ぶことではないと思ったんです。だから、アスカが選んだことに従おうと」

 自分には、アスカに帰った方がいいと薦めることも、帰らないでほしいと引き留めることもできない。どっちを言っても、アスカは困った顔をするだろうから。

 渡羽はアスカに歩み寄り、アスカの手を取った。

 自分を変えてくれた人。自信が持てなくて、将来の夢をあきらめていた自分。けれど、アスカを見ていて、もう一度頑張ろうと思った。

 アスカに出逢わなければ、今も“小説家になりたい”という夢をあきらめていたかもしれない。

 アスカの揺れる瞳を覗き込み、渡羽は満面の笑みを浮かべた。

「君と逢えてよかった。好きだよ、アスカ」

 その瞬間、アスカの瞳から大粒の涙が零れた。流れ落ちる滴。アスカは顔をゆがめ、渡羽に抱きついた。

「渡羽……っ。あたしも……あたしも大好きっ。渡羽に逢えてよかったよぉ……っ。

 ごめんね、ずっと一緒にいたかったけど……ごめんね、ありがとう……っ」

 アスカは渡羽の胸で泣いた。渡羽はアスカをぎゅっと抱きしめた。そのぬくもりを忘れまいとするように。

 アスカの傍らにいたティアラも涙ぐんでいる。レイゼルは頃合いと見たのか、時空移動魔法の呪文を唱えた。

 地面に白い光の円が現れ、白光の柱が立つ。いよいよ別れの時が来たのだ。

 泣きじゃくるアスカの背中をそっと撫で、渡羽はアスカの体をゆっくりと離した。

「……アスカ」

「渡羽……あたし、守るから……ちゃんと……女王に、なって……っ。渡羽のいるこの世界を……守るからね……!」

「……はい」

「アスカ、そろそろ……」

 レイゼルが声をかける。アスカはごしごしと涙をぬぐうが、涙はとめどなくあふれてくる。

 ティアラが渡羽のもとへと飛んで行き、ぺこりと頭を下げた。

「渡羽さん、今まで……どうもありがとうございました……っ。私、渡羽さんのこと……忘れませ……ふえ~ん」

 泣き出したティアラに、渡羽は苦笑してティアラの頭を撫でた。

「ティアラも元気で。これからもアスカのことを頼みますよ」

「はい……っ、もちろんです!」

 何度も頷くティアラ。アスカはレイゼルを振り返り、最後にもう一度だけ、渡羽に抱きついた。

「渡羽……今までありがとう。……もし、もしもあの“約束”を思い出すことができたら、その時は――あたしの名前を呼んで。あたしの、本当の名前を」

 そう言って、アスカは渡羽の唇に口づけた。すぐに離れていくぬくもり。

 渡羽は目を見開き、思わず手を伸ばしかけた。

「アスカ……っ」

 光の柱へと走っていくアスカ。これでもう、逢えなくなってしまう。

 いざ離れるとなると、切なさで胸が痛くなった。それでもアスカは走った。ティアラがその後を追う。

「アスカ……!」

 もう届かないと解っていながら、渡羽は腕を伸ばす。

 胸を刺す痛みに、離れていく後ろ姿に、いとしさが募る。

 アスカは体ごと渡羽を振り向き、後ろ向きで、とん、と地面を蹴った。

「さよなら、渡羽……」

 アスカがの白光の中に飛び込んだ直後、レイゼルは小さく唱えていた魔法を発動させた。

 光の中に消えていくアスカ。渡羽は声の限りに叫ぶ。

「アスカっ! アスカァァァァっ!!」

 眩しい光が辺りを包み込み、渡羽は腕で顔を覆った。



 光が消え、腕を下ろした渡羽はきょとんとした。

「あれ……? 俺、なんで庭にいるんでしょう……」

 レイゼルが発動させた記憶隠蔽魔法のおかげで、渡羽はアスカに関わる記憶を一切なくしていた。

 そのため、なぜ自分が庭にいるのか理由が思い当たらない。

 小首を傾げていると、家の中から自分の名を呼ぶ母の声が聞こえた。

「なんですか? 母さん」

「あらっ、庭にいたの? 飛鳥」

「はい。庭に出た覚えはないんですけど」

「? まあいいわ、ちょっと来てくれる?」

 渡羽が家の中に戻り、食堂に行くと、美鳥は頬に手を当てて、困った顔を見せた。

「さっき、ちょっと休憩しようと思って、コーヒー淹れに来たんだけど……」

 美鳥は一つのコップを差し出した。

「これ。誰のかしら?」

 花柄のそれは、以前アスカが使用していたものだ。しかし、渡羽は怪訝な顔でコップを受け取った。

「……さあ? 俺のじゃないのは確かですし、姉さんやましてや父さんのものではないでしょう」

 数年前に嫁いで行った姉の物があるわけないし、こんなにかわいらしいのは姉の趣味ではない。

「そうよねぇ。おかしいと思って他も見てみたんだけど、食器がね、一人分多いのよ」

「え?」

「誰かが使った形跡はあるんだけど……見覚えないのよねぇ」

 最近は客も来ていないので、美鳥と渡羽の分しか食器は使っていないはずだ。

 食器は家族分あるが、翔子の分はもうないし、修吾は年に数回しか帰らないので食器棚の奥にしまってある。

 今、食器棚の手前に置かれているのは二人分のはず。だが、見てみると確かに三人分。見覚えのない食器一式が一人分増えている。

「不思議よねぇ。あ、でもこれはいいネタになるかも! きゃーっ、不思議体験しちゃったわ!」

 美鳥はコップを食器棚に戻し、意気揚々と自室に戻って行った。

 渡羽はしばらく考え込んでいたが、考えても分からなかったので、部屋に戻ることにした。

 階段を上り、部屋に入ろうとドアノブに手を伸ばした時、ふと何か気になった。

 向かいにある部屋――そこは以前、アスカが使っていた部屋だが、今の渡羽にとっては、結婚して家を出るまで姉が使っていた部屋、としての意識しかない。

 今はほとんど物置になっているから、なぜ気になったのか渡羽には分からない。けれど、渡羽はその部屋のドアを開けた。

「…………」

 開けてみると、今までと何も変わらない、物が雑多に置かれた部屋だ。

「まあ、ですよね。何を期待してたんでしょう、俺」

 さっきからおかしい。何か、頭に引っ掛かっているものがある。心がざわついて仕方がない。

 けれど、渡羽は気のせいだと自分に言い聞かせ、かぶりを振ってドアを閉めた。

 そうして何日か過ぎていくうちに、渡羽はその疑問を忘れていった。




 そして――それから八年後。




《念願の小説家デビュー、おめっとさーん!》

 相変わらず、悩みとは無縁そうな(バカっぽい)笑顔に、渡羽はこめかみを揉んだ。

 テレビ電話の画面の向こうにいるのは、幼学校からの腐れ縁(別名・金魚のフン)であるバルカンこと坂月将之介である。

《いやー、ついにおまえも、一人前の小説家かぁ。よかったな、飛鳥》

「一応礼は言っておくよ、ありがとう。――で、君はデビュー作の小説読んだのか?」

 眼鏡をくいっと指で持ち上げ、渡羽が問いかけると、バルカンは視線を泳がせながら、

《あ~……うん! 読んだ読んだ》

「……君に訊いても無駄なことは分かってたけど、やっぱり読んでないんだな」

《いやー、読んだよ? うん。ほら! あれだ! うん……おもしろかったぜ!》

 バルカンは満面の笑みでぐっと親指を立てた。

「君にまともな感想を求めた俺がバカだった。いや、元から期待はしてなかったけど、念のためと思って言ってみたのに、本当、君には呆れさせられるよまったく」

 肩をすくめ、やれやれと首を振る渡羽に、バルカンは画面に飛びついた。

《うっわ、何その顔! その言葉! ほんっと、おまえって地の性格は意地悪いよな!

 なんでか中学の終わり頃からは磨きがかかったしさあ。高学入ってからは眼鏡かけててもほとんど地だったし。

 そういや、小説家になるって言い始めたの、その頃だっけか?》

 バルカンの言う通り、なぜか高学校に入学後、昔に思い描いて自信のなさからあきらめていたはずの、小説家になりたいと思う気持ちが強くなった。そして先日、その夢を叶えた。 

 夢に向かって進もうと思えるようになった理由は、今でも分からないが。

「ああ、君に話したのはその頃だな。地の性格が出せるようになったのは…どうしてかは分からないけど、俺の中で何かが変わったんだ」

 それまでは、眼鏡をかけている時はどちらかと言えば消極的で、目立つのが苦手だった。

 周りに流されることも多かった自分が、いつからか眼鏡をかけていても地の性格を出せるようになった。

 子供の頃に、祖母にまじないをかけてもらった眼鏡。それは人外――霊が視えないようにするためのもの。

 その眼鏡をかけるようになってから、眼鏡をかけると性格が変わるようになった。

 けれど、その眼鏡は高学生の時に壊れてしまった。

 性格が変わるのはまじないのかかった眼鏡をかけていたかららしい。眼鏡を新しくしたら、性格が変わることはなくなった。

 まじないのかけられた眼鏡は一つしかなく、霊を視たくなかった渡羽は困って、ないのならいっそコンタクトにでもしようかと思ったが、長い間眼鏡生活だったため、眼鏡をかけないと落ち着かないことに気づいた。

 なので無駄だと知っていても、今も眼鏡をかけている。まじないのかかっていない眼鏡では、嫌でも霊が視えてしまうが仕方がない。

 渡羽は紅茶をカップに注ぎ、口に運んだ。

《ふーん。ま、元々それが飛鳥の地だしな。オレはなんでもいいけどよ。あ、話変わるけどな、おまえ、いつ高尾にプロポーズするんだ?》

 ぶぅーっ。

 渡羽は盛大に紅茶を吹き出した。

《あー……大丈夫か?》

「ゲホッ、ゴホッ……いっ、いきなり何を言うんだ君は!!」

 顔を真っ赤にして渡羽は怒鳴った。高尾明衣子。中学生の時に知り合い、高学校に入ってからつき合い始めた渡羽の恋人だ。バルカンはにかっと笑う。 

《だってよ、中学からのつき合いで高学の時にくっついて、今のおまえは念願の小説家になったわけだし。そろそろいいんじゃね?》

「う……いや、俺はまだデビューしたばっかりで……生活も安定してないし……次の作品に向けて構想を練らないといけないし……」

 煮え切らない渡羽に、バルカンが口を尖らせる。

《なんだよ、そんなこと言ってたらいつまで経っても結婚できねーぞ! 高尾だって待ってるかもしんねーし》

「……でも、不安定な生活でプロポーズするのは……やっぱり、ちゃんと生活が安定してからの方がいいと思うんだ。……幸せにしてあげたいし」

 俯きがちで、はにかみながら言う渡羽に、バルカンはため息をついた。

《そうかよ。ま、人それぞれだかんな。にしても》

 にやりと笑うバルカン。

《愛されてんなぁ、高尾》

「!!」

 赤面した渡羽は、思わず口を滑らせた。

「おっ、俺のことより、君の方はどうなんだよ!」

 言ってしまってから、しまったと思った。途端にバルカンは、えへ~としまりのない笑みを浮かべた。

《もちろん順調! もうラブラブだぜぇ~。おまえにもこの幸せを分けてやりたい!》

 バルカンは数年前に出会った女性と先月、結婚したばかりだ。しかも、相手の女性は現在、六ヶ月だそうで。

《もう楽しみで楽しみでしょうがねぇよ。四ヶ月後にはオレ、パパなんだよなぁ~》

 なんてウザい父親だろう。絶対、完全にバルカンは親バカ、いや、バカ親になる。

 渡羽は自分の失言と、バルカンのノロケに頭が痛くなった。

《なぁなぁ、飛鳥は産まれてくるの、男と女どっちだと思う?》

「気になるなら調べてもらえばいいだろ」

《バッカおまえ、先に知っちゃったら楽しみが減るじゃんか》

 だったら訊くな。渡羽はだんだんイライラしてきた。似たような会話を、ここ数ヶ月で何度したことか。

「もう切るぞ。俺はいろいろとやらなくちゃいけないことがあるんだ」

《え~、なんだよ。もう少し話聞いてくれたって》

 大掃除の真っ最中だったので、嘘は言っていない。ピッ、と渡羽はテレビ電話の通話ボタンを押して電話を切った。

 ヴァモバではなく、わざわざ家電にかけてきたので、渡羽は電話のあるリビングを出て自室に戻る。

 渡羽が部屋に入ると、段ボール箱の上で退屈そうに足をプラプラさせたり、床でごろごろしたり、窓の外を眺めていた、三角帽子をかぶった三人の小人たちが、待ってましたとばかりに笑顔になる。

「待たせたね。じゃあ、続きやろうか」

 三人の小人たちはこくんと頷き、それぞれに割り当てられた仕事を再開する。

 二十センチほどの背丈しかない彼らだが、見た目より力持ちで、自分より大きい物を軽がると運ぶ。

 眼鏡が壊れ、霊をまともに見るようになってから、渡羽は少しずつそういったモノと関わるようになっていった。

 霊は相変わらず苦手だが、妖精である彼らとはなかなか好い関係を築いている。今ではこうして、何かと身の回りの手伝いをしてくれるようになった。

「えーと、これはいる。これもいる。これは……どうしようかな」

 整理をしていると、つんつん、とズボンの裾を引っ張られた。見ると、小人の一人が何やら小さな箱を持っている。

「?」

 受け取って見ると、それは錠のついた金色の箱だった。手のひらにすっぽり収まってしまうほど小さな箱。

「こんなもの持ってたっけ……鍵かかってるみたいだけど、小さすぎるだろ、これ」

 どことなく見覚えがあるようなないような。めつすがめつしてみる渡羽。

(あれ? 昔にもこんなことなかったかな)

 何かがひっかかる。妙な違和感。思い出せそうで思い出せない。

(なんだろう。これに関して、何か大切なことがあったような……)

 ずきん、と頭が痛んだ。思い出そうとすると、まるでそれをやめさせようとするかのように痛みが増す。

(頭が痛い……! なんなんだ、この箱は……っ)

 小箱を落とし、渡羽は頭を抱えてしゃがみこんでしまった。小人たちは渡羽の異変におろおろするばかり。

 時々、頭をよぎる映像。けれど、それはとても朧げで、蜃気楼のよう。

(誰か……いる? 俺の記憶の中に、知らない誰かが……)

 顔のない面影。これは女の子……?

『渡羽』

 聞いたことのない、自分を呼ぶ声。いや、知ってる……?

 錯綜する記憶。胸に突き刺さるような痛み。なんなんだこれは。

 渡羽は震える手で強く頭を押さえる。その時、どこからともなく甘い香りが漂ってきた。

 渡羽は動きを止め、顔を上げた。この香りは知っている。

 自宅の庭の隅に、いつからか知らない花が咲いていた。その花は見たこともない花で、図鑑にも載っていなかった。

 不思議なことに、その花は何年も枯れることなく、ずっと咲き続けている。

 一人暮らしをするために家を出る時、ふと気にかかって、いくつかプランターに移して持ってきた。

 この香りはあの花だ。ベランダに置いてある花の香りが、窓も開けていないのになぜ。

 そんな疑問が頭をよぎるよりも早く、渡羽は直感的に香りを吸い込んだ。

 みるみる頭痛が収まっていく。少しずつ、頭がすっきりしてきた。

 そして突如、鮮明になる記憶。

「……!」

 顔のなかった面影に表情が浮かび上がる。自分を呼ぶ懐かしい声。彼女との思い出の数々。

「あ……これ、は……」

 甦る記憶。その中で、渡羽はある言葉を思い出した。

『渡羽……今までありがとう。……もし、もしもあの“約束”を思い出すことができたら』

 約束……そうだ、俺たちは約束をした。大切な約束を。

『その箱は今は開かないで。いつか開くべき時が来るから。その時が来るまでは、なくさずに持っててね。約束よ』

 そう言って、指切りをした。約束の証。

『その時は――あたしの名前を呼んで』

「アス……カ……」

 のろのろと小箱を拾い、渡羽は小さく言葉を紡いだ。約束の言葉を。

『あたしの、本当の名前を』

「……アスフェリカ!」

 ……カチン……

 錠の落ちる音がした。次いで、金色の小箱から眩しい光が発せられる。

 驚いた小人たちが物陰へと隠れ、そっと顔を出して様子を窺う。

 小箱から発せられた光の中に、人影が見えた。渡羽はそれを見上げ、唖然とした。

 そこにいるのは、記憶の中より少し年を重ねたいとしい人。

《……渡羽?》

 あの頃より大人びた声。けれど、間違いない。彼女は――

「アスカ?」

《渡羽……思い出してくれたの?》

 泣きそうなアスカの笑顔。渡羽の瞳が潤む。

「アスカ……! 本当にアスカなのか!?」

《そうよ、渡羽。逢いたかった……》

 アスカのまなじりに涙が浮かんだ。目の前にいとしい人がいる。

 それは、ずっと願っていた奇跡。触れられないのが残念だけど、願いは叶った。

《渡羽……大人になったわね》

「……アスカこそ」

 別れてから八年。渡羽は二十四歳。アスカは二十一歳。

 魔法界と人間界では時間の流れが違うため、昔はアスカの方が年上だったのに、今では渡羽の方が年上になってしまった。

《渡羽、私、女王になったわ。今は母様にビシバシしごかれているの》

「あの女王様の指導なら、立派な女王になれるだろうな」

《うん。みんなは元気? 美鳥母様や修吾父様とか……》

 わずかに、渡羽の表情が陰る。それでもできるだけ笑みを作った。

「父さんも母さんも数年前に他界したよ」

《え……?》

「寿命だから仕方ないけれど」

《……そう、なの。ごめんなさい》

 時の流れは残酷なものだ。アスカの記憶の中の二人はとても元気だったのに、流れた時間の差を実感する。

 アスカは気を取り直して尋ねてみる。

《翔子姉様は? 確か、二人目が産まれるはずだったのよね?》

「アスカが魔法界に帰ってから無事に産まれたよ。男の子で、この前誕生日だったんだ」

 よかった、彼女はまだ健在だ。目に見えてほっとするアスカに、渡羽は微苦笑する。

 産まれると言えば。顔をしかめた渡羽に、アスカは首を傾げた。

《? どうしたの?》

「いや……バルカン、って覚えてる?」

《覚えてるわよ。バルカンがどうかしたの?》

「あいつが結婚して……子供もできたんだ」

《えっ、うそ! おめでとう!》

 アスカは素直に喜んだが、渡羽はげんなりとした。確かにおめでたい話ではある。

 彼らの恋路にはいろいろと障害があったので、なおさら。渡羽だって祝福していないわけではない。

 ただ、産まれる前であの調子だ。産まれてからどうなることやら。

 それを思うと、気が滅入るのも否定できない。

《バルカン、結婚したのね。そうそう、レイ兄様にも先月、一人目が産まれたのよ》

「そうなのか、それはうれしい話だな」

《ふふっ、それじゃあなんだか、バルカンの方はあんまりうれしい話じゃないみたい》

 バルカンに対してきついのは変わっていないようだ。アスカは昔を思い出して微笑んだ。

《ところで渡羽、眼鏡をかけてるのに地でしゃべってるのね》

「ああ、眼鏡が壊れたから変えたんだけど、これにはまじないがかかってないから」

《そう。でも、そっちの方が見慣れているわ。

 あ、そうそう。最近ね、ティアラとクラウンが仲いいのよ。カリンの話だと、クラウンって昔からティアラのことが好きだったそうなの》

 それなら意地悪ばかりしないで、素直になればよかったのに。

 そう父様たちに話したら、「素直に愛情を示せない人もいるんだよ」と、母様を見て言った。

 そうしたら、「何が言いたいのよ、粘着質男!!」と、魔法弾を撃ち込まれた。どうして母様は怒っていたんだろう? 

 渡羽は苦笑した。その時の様子がありありと目に浮かぶ。

「そういえば、カリンはあれから……?」

 記憶をすべて思い出したので、カリンのことも思い出した。あれから彼女はどうなっただろう。

《まだ魔法力は封印されたままだけれど、魔法牢からは出られたわ。今は目下、他人とのつき合い方を勉強中》

 それを聞いて安心した。カリンもきっと変われるだろう。渡羽がほっとした時、鮮明だったアスカの姿がぼやけ始めた。

「!」

《あ……もうすぐ効力が消えるみたい。これは一度しか使えないから、今度こそ本当に逢えなくなってしまうけれど》

「そんな……やっと思い出せたのに」

 しゅんとなる渡羽に、アスカはずっと気になっていたことを訊いてみた。

《ねえ、渡羽。明衣子とはどうなってる?》

 バルカンとの会話を思い出し、渡羽はかあっと頬を朱く染め、俯いた。

 その反応に、アスカは心から安堵した。この四年間、ずっと気になっていた。

 明衣子には、ずっと渡羽を好きでいてほしいと頼んでおいたが、記憶隠蔽後どうなるかは二人次第だった。

 明衣子はアスカが言わなくても渡羽を好きでいただろう。だが、渡羽が明衣子を好きになるかどうかは分からなかった。

 自分がいなくなった後、渡羽が誰かと結ばれるのなら、明衣子がいいと思っていたから。

 明衣子にならいいと思っていたから、願い通りになってよかった。

《そう。幸せになってね、渡羽》

「アスカ……」

 忘れていたとはいえ、元恋人に知られたのは、なんだか居心地が悪い。アスカは晴れやかに笑った。

《そんな顔しないでちょうだい。渡羽が幸せならいいの。私はその幸せを守るだけだわ》

 一層、アスカの姿がぼやけ、揺らめいた。これが本当に最後だ。

 渡羽は目に焼きつけるように、アスカをじっと見つめた。

「お別れ、なんだな……」

《ええ。もう一度だけでも逢えてよかったわ、渡羽》

「アスカ。俺は……離れていても、君を愛してる」

《!》

「他の誰を愛しても、君を一番に想う」

 渡羽の真剣なまなざしに、アスカの顔が火照る。アスカは気恥ずかしそうに視線を逸らした。

《やっぱり大人になったわ、渡羽。そんなこと言うなんて》

 姿が消えかけ、アスカは渡羽に顔を戻し、微笑んだ。

《でも、ありがとう。私もずっとあなたを想っているわ。さようなら、渡羽》

「さようなら、アスカ……」 

 完全にアスカの姿が見えなくなり、光も消えた。金色だった箱は黒ずんで、渡羽の手のひらに残っている。

 二度と逢えなくなった最愛の恋人。けれど、心はずっと繋がっている。

 物陰に隠れていた小人たちがおそるおそる出てくる。渡羽は笑って「もう大丈夫だよ」と、小箱を自分の机の上に置き、ベランダに向かう。

 窓を開けると、ベランダの隅に置かれたルティアの花が、まるで渡羽が来るのを待っていたかのように、風もないのに一度揺れて、枯れていった。

 枯れることのなかった花。それが枯れたということは、役目を終えたということだろう。

 渡羽は微笑んで、遠い空を見上げた。

 





   *   *   *  






 一筋の涙が頬を伝った。

 再び逢えるかどうかも分からなかった最愛の人。記憶隠蔽魔法を打ち破り、彼は思い出してくれた。

 とてもうれしかった。だからもう、心残りはない。

 アスカは玉座から立ち上がり、窓辺に置いてある一つの植木鉢に近づく。

 そこに植えられているのはルティアの花。

 ただし、本物ではない。これは渡羽家の庭に植えたものをかたどったもの。

 アスカが呪文を唱え、その花にかけた魔法を解いた。

 花はしゅるしゅるとしおれ、枯れた。これで、あっちのルティアの花も枯れるだろう。

 あれは、いつか渡羽に思い出してもらうための、最後の手段だった。もう役目は終わったから必要ない。

 枯れた花をちょん、とつついて、アスカはパチン、と指を鳴らした。アスカの手元にグラスが現れる。

 中身は黄色く透き通った飲み物――ヨパンジョリー。

 アスカは空を見上げる。里帰りした日のように、夜空いっぱいに広がる点光ココヴィアオを、ヨパンジョリー片手に眺める。

 渡羽と見たリーフェの星空ほどではないけれど、瞬く点光ココヴィアオは綺麗だった。

 この光の下に、たくさんのヒトたちが生きている。

 ここが自分の生きる世界。守るべき、愛すべき世界――テュレーゼ。

 ――そして、もうひとつ。

 次元を超えた遙か遠く。心から愛する、いとしい人が生きる世界――リーフェ。

 ずっと守り続ける。どんなに離れていても、逢えなくなっても、心が繋がっている限り、いつまでも。




  ~END~


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