11th 帰郷

 翌日、渡羽とアスカは魔法界に行くことを美鳥に伝えた。

 美鳥は魔法界に行くと聞いてとても興奮していたが、仕事の都合上、一緒に行けないことを非常に残念がっていた。

 うらやましそうに息子を上目遣いで見ながら、

「でも、あんまり長居しちゃダメよ? 外泊は別に構わないけど」

「それは問題ないわ、美鳥母様。明日には帰ってくるつもりだから」

「あら、そうなの? いいのよ? 二泊や三泊してきたって。私は一人でも大丈夫だし……あ、でもそちらに迷惑かしら」

「ううん、こっちも何泊してもいいんだけど、人間界と魔法界じゃ時間の流れが違うのよ。

 人間界は魔法界の倍の速さで時間が過ぎるから、あっちでの一日はこっちの二日になるの」

 事前に聞いていたので、渡羽は驚いた様子はない。

 最初に聞いた時は、それだとアスカが長居できないから一緒に行くのは遠慮すると言ったのだが、アスカがどうしても家族に紹介したいと言うので、申し訳なく思いながらも了承した。

「あらぁ、それなら長居はできないわね。のんびりしてると飛鳥の冬休みが終わっちゃうものねぇ」

「うん。だから心配しないで、美鳥母様。お仕事がんばってね」

「ありがとう、アスカちゃん。ほんといい子ねぇ、アスカちゃんは。アスカちゃんが本当に私の娘になってくれたらいいのに」

 あまりに自然に言われたので、渡羽は一拍置いてからぶっと吹き出した。

「っええ!? なっ! 何言ってるんだ母さん!! 娘ってどういう意味だよ!?」

 動揺しすぎているようだ。眼鏡をかけたままにもかかわらず、渡羽は地に戻っている。

「あらぁ、どういう意味って…そのままの意味よ。アスカちゃんがあなたと結婚してくれれば、私の義理の娘になるでしょ」

「んなっ!!」

 美鳥がにんまりと笑う。ぼっ、とゆでダコのように顔を真っ赤にする渡羽。

 アスカも意味を理解してから、少し顔を朱くして俯いた。渡羽は口を開いたまま固まっている。

「ああ、別に結婚しなくても養子にするとかでもいいのよねぇ……って聞こえてないわねぇ」

 二人にはまだ早い話題だったみたいね。確信犯、美鳥。



 しばらくして正気に戻った渡羽は、散々美鳥に文句を言い、一足先に平静を取り戻していたアスカと一緒に家を出た。

 正気に戻ったおかげで、今さらながら疑問に思うことがある。

 魔法界に行くと言ってもどうやっていくのか。アスカが人間界に来た時は、国王様に強制的に送り出されたそうだが。

「あの、アスカ? 魔法界へはどうやって行くんですか?」

「私もそれは疑問に思っていました。魔法界に行くということは、時空移動魔法を使うんですよね?」

 渡羽の横に滞空していたティアラが問う。アスカは二人を肩越しに振り返った。

「そりゃもちろんそうよ。時空移動魔法を使わないと、魔法界に行けるわけないじゃない」

「ですが、時空移動は第一期魔法ですから、一流フィミハイテである魔導師クレシアスにならないと使えないではありませんか。

 姫様は四流ンヴァミハイテ魔法士ノエウィなのですから、時空移動魔法は使えないでしょう」

 ティアラの言葉を聞いて、ほうきを出す呪文を唱えるアスカの傍ら、渡羽はぎょっとした。

「ええっ? じゃあどうやって行くんですか」

「まさか姫様、一縷の望みにかけて、パーガウェクオで魔法力を増幅させて、時空移動魔法を使おうとか思っているのではありませんよね……!」

 頬を両手で挟んで、顔を青くするティアラ。ティアラはひゅいっとアスカの前に飛んで行き、諫止かんしする。

「いけません、姫様っ。いくらパーガウェクオを操れるからと言って、それは危険です!

 能力以上の魔法を使えば、たとえ魔法力を増幅したとしても、反動や副作用でどうなるか分かりませんよ!?」

 さらに驚愕する渡羽。アスカはしかし小さくため息をついて、あきれ顔でティアラを手で追い払うしぐさをする。

「それくらい解ってるわよ。そんなことしないし、したくないわよ。いいから離れて黙って見てなさい」

 不安げにティアラは、言われたとおりにアスカのそばを離れる。渡羽も心配そうに見つめている。

 アスカは大きく息を吐くと、すうーっと思い切り息を吸い、

「どうせまた近くにいるんでしょ!!? とっとと出てきなさいよ、シン!!!」

 大音量で空に向かって吠えた。すると、どこからともなく「はーっはっはっは!」と聞き慣れた笑い声が聞こえてきた。

 渡羽とティアラはきょろきょろと周りを見回し、アスカは手にしたほうきをくるりと回して持ち直し、穂の部分を前方に向けた。

「あなたの呼びかけに応え、シン、ただ今参りました。お呼びですか? アスカひ」

 ばすっ。

 自分の前に現れたシンの顔面に、アスカは腕を伸ばして、ほうきの穂の部分を突き当てた。

「やっぱりいたのねストーカー男。ホント期待を裏切ってくれるわね、あんたは」

「……あの……痛いのですが……」

 穂の部分に顔をうずめながら、シンはもそもそと言った。



 いつもどおり、ストライプが入ったスーツ姿のシンは、これまたいつも通りコバルトグリーンの前髪を掻き上げた。

「ごきげんよう、皆の衆。そして我が愛しのアスカ姫。ふふふ、まさかアスカ姫からお呼びがかかるとは思っていませんでしたよ」

 にっこりと笑うシンに、アスカはふんっと鼻で笑った。

「しらじらしいわね。そんなこと言って、今まで使い魔で覗いてたんでしょ?」

「覗いていたとは心外ですね。見守っていたと言って下さい」

「どっちにしろ見てたんでしょ? だったら呼び出した用件も分かってるわよね? 父様」

 腕を組んで、アスカはシンを睨み見る。シンは若い頃の国王の姿だ。渡羽もティアラもそれが分かっているので、対応に困っている。

「アスカ姫。この姿の時は」

「はいはい、どっちでもいいわよ。そもそも、もう正体バレてるんだから、わざわざ変身しなくたっていいじゃない」

 ぶすくれるアスカに、シンは楽しそうに笑った。

「こちらの姿の方が気に入ってますので。それに、渡羽はこの姿の方が気兼ねしなくていいだろうと思ってね」

 シンが渡羽を見る。話を振られて、渡羽はどぎまぎした。

「えっ、あ、俺は別にどちらでも……」

「ふふ、渡羽は相変わらずだな。しかし、使い魔を介して見た時はよく分からなかったが……」

 渡羽に近づき、シンはまじまじと渡羽を見る。渡羽はびくりと体を強張らせた。

 時々周りに出没してはいたが、こうして会話することはなかったので、正体が分かってから話すのはこれが初めてだ。

 シンはアスカの父親。そして渡羽はアスカの恋人。父親として何か小言を言われるのではないかと、渡羽は身構えた。

「少し背が伸びたのではないか?」

「え?」

 肩すかしを食わされ、渡羽は目を点にした。

「ふむ、やはりそうだ。初めて会った時より少し伸びている。成長期だからな、これからもっと伸びるだろう。そのうち僕に追いつくかもしれないな」

 笑顔のシンに、渡羽は目をぱちくりさせてから、照れ笑いを浮かべた。

 アスカは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐いた。

 人間界に残り、渡羽との交際を認めてくれたとはいえ、何かしら思うところはあるだろうから、渡羽に文句でも言うのかと心配だった。

 シンはアスカに向き直ると、少し真剣な顔つきになった。

「アスカ姫、僕を呼んだのは時空移動のためですね?」

「そうよ。あたしじゃ時空移動魔法使えないもの。父さ……シンは魔導師クレシアスだから使えるでしょ?」

 表情を引きしめたアスカが、まっすぐにシンを見据える。シンは前髪を掻き上げ、

「それはもちろん。では行くとしましょうか。あなたとマジカリアに帰れる日を待ち望んでいましたよ」

 シンはきびすを返し、両手を前方に伸ばして精神を集中させる。

「言っておくけど里帰りだからね。母様たちに会ったらこっちに戻ってくるんだから」

 それにシンは答えず、無言で微笑んだ。微かに憐憫を含んだ笑みだったが、シンの後ろにいたアスカたちには見えなかった。

 シンの周りに弱い風が起こる。シンの中に宿る魔法力が放出されているのだ。

 そして魔法力が練り込まれていくのが分かる。アスカは改めてシンの魔法力の強さに感嘆した。

 漏れ出てくる魔法力だけでもかなりの強さを感じるのに、これでも全力じゃない。

 一流の証である魔導師クレシアスの称号を手に入れるには、これくらいの魔法力レベルにならなければいけないということだ。

「ファイディーラ=ボツ=ジェイシーエルク」

 シンの前方の地面に、白い光の円が現れる。

「リ=ラーチ=タカヴァ=ツージャガ=リスト=レレッキーチャメロネルク」

 時空の道が開かれ、白い光の柱が立った。シンがアスカたちを振り返り、柱の中へと促す。

「魔法界に道が繋がりました。さあ、この光の中に入って下さい」

「うん。行こう、渡羽!」 

「は、はいっ」

 アスカは渡羽の手をつかみ、光の中に飛び込む。ティアラとシンも後に続いた。

 光の柱は全員が中に入ると急速に細くなり、跡形もなく消えた。



 一瞬にして四人は時空を超え、人間界から魔法界へと移動した。

 光の柱から出るとそこは別世界。町のはずれにある丘の上に渡羽たちは立っていた。

 そこから見える景色は渡羽の知っているものとは全然違う。まず、空が黄色い。そしてその空を鳥が飛んでいる。

 しかし、鳥は鳥でも、かなり大きい。象くらいありそうだ。それに、鳥以外にちらほら飛んでいるのは…………人だ。

 人がほうきやじゅうたん、もしくはそれ以外の物、果ては身一つで空を滑空している。まさに魔法使いの典型的な姿だ。

 ぽかんとしている渡羽の後ろで、アスカが伸びをした。

「んーっ、久し振りの空気~。やっぱり故郷はいいわね」

「はい。とても懐かしい香りを感じます」

 ティアラもうれしそうに、空中を飛び回る。

「それにしてもっ、暑いわね!!」

 顔をしかめてアスカは言った。何せアスカたちは人間界の気候に合わせて冬服を着ているのだ。それも真冬だったので厚手のコートなども着ている。

「えーと、こっちを出たのがバラネッサの月で、あっちで半年過ぎたからこっちじゃ三ヶ月で……ということは、今はフェアーの月なのね」

 バラネッサは四月、フェアーは七月だ。暦は人間界と一緒なので、現在魔法界は夏。コートなど着ていたら蒸し焼きになってしまう。アスカは素早く呪文を唱えた。

「ラサバ=ロアジェルエルク」

 ポン、とアスカと渡羽の服が変わる。

 アスカは人間界に来た頃に着ていた、黒いハーフトップの上着に水色のパフスリーブワンピース。

「うん、やっぱりこれが一番ね」

「ア、アスカ。これは?」

 渡羽の服も変わっている。白い半袖シャツに黒い長ズボン。両肩から垂れ下がっているのは胸と背中を覆う空色のマントで、ダークブラウンのサンダルと涼しげな格好だ。

「わあっ、渡羽、結構似合ってるかも! それはね、マジカリアの基本的な服装なの。

 服はなんでもいいんだけど、そのマントをつけるのがマジカリア国民の証って言うか規則なのよ」

 渡羽は着慣れない服に少し戸惑い気味だ。アスカはにっこり笑うと、くるっと回って町を背に両手を広げた。

「ようこそ! 魔法界・テュレーゼへ!」

「は、はぁ……」

 本当に違う世界に来てしまったんだなぁと呆然としている渡羽。

「そして、ここが我が祖国、マジカリア。テュレーゼ一の最大国であり首国よ。

 あ、そうだ!」

 アスカはふと思い出して、ほうきを出す呪文を唱えた。

「リ=アフィ=レストエルク」

 ポン、とアスカの手の中に一本のほうきが現れる。「ここなら大丈夫よね」とアスカはほうきの柄を上にして立てたまま、ぱっと手放した。

 そのまま倒れるかと思いきや、ほうきの穂の部分が二股に分かれ、ぴょこんと動いた。

「うわあっ! ほ、ほうきが動い……っ」

「ブロッサム!」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねているほうきに、アスカがぎゅっと抱きつく。

「よかったぁ、やっぱり魔法界だと動けるのね」

 わけが分からずうろたえている渡羽に、ティアラがすいっと近づいてきて説明する。

「魔法使いのほうきには生命が宿っていて、本来はああして動くことができるんですよ。

 ですが、持ち主の魔法力を供給してもらって初めて、ほうきは自由に動くことができるんです。

 人間界では姫様の魔法力が弱いために、ほうきに力を送れなかったので動かなかったんですよー」

 ブロッサムというのはあのほうきの名前です。にっこり笑うティアラ。

 つまりは電池式のロボットのようなものか。渡羽は「そうだったんですか……」と納得して、もう一度周りを見渡した。

 町の中心に見える大きな城。あれがきっとアスカの住んでいた城だろう。不思議だ。ここには当然初めて来たのに、なぜだろう。

「懐かしい感じがします」

「渡羽さん?」

「魔法界には来たことがないのに、まったく知らないはずなのに、来たことがあるような…いえ、ここにいたような気がするんですよ。

 懐かしい…故郷に戻ってきたような、そんな心地よさを感じるんです」

 ティアラがゆっくりと瞠目する。シンが何かに気づいたように、渡羽を注視した。

 アスカもブロッサムを腕に抱えたまま、不思議そうに渡羽を見た。

「え? ホントに?」

「はい」

 困惑する渡羽。あごに手を当てて渡羽を見つめていたシンは、おもむろに渡羽に近づくと、さっと渡羽の眼鏡を取り上げた。

「わっ」

 突然のことに、渡羽は目をぱちくりさせた。シンは眼鏡を宙に浮かせて、渡羽のあごを指先で持ち上げると、矯めつ眇めつする。

 なんなのだろう、この状況。渡羽は全く状況が理解できず、固まった。

 アスカやティアラも、シンの真剣な表情に口を出せずにいる。

「……やはりそうか」

 まっすぐに渡羽の目を覗き込み、シンは得心がいって、ようやく渡羽のあごから手を放した。

 渡羽は詰めていた息を思い切り吐き出す。緊張した。今のでかなり疲れた。

「……ちょ、ちょっとなんのよ、シン! いきなり渡羽の眼鏡取ったりして!」

「アスカ姫、落ち着いて魔法力感知をしてみて下さい」

 詰め寄ろうとするアスカに、シンは静かな声で言った。

 アスカは怪訝な顔をしたが、神妙に魔法力感知をしてみる。目を閉じ、心を研ぎ澄ませる。

 魔法力感知は、自分の魔法力の宿ったもの――たとえばほうきなど――や、もしくは自分以外の魔法力を持つものを探す時に行う。

 それはどこからか漂ってくるにおいを嗅ぎ取る行為と同じ。

 アスカはこれが苦手だったが、シンは無駄にやれと言っているわけではないようなので、いつもより集中する。そして、気づいた。

「! これって……」

「以前にも同じものを感じてまさかとは思っていましたが、今のではっきりしました。

 渡羽には魔法力がある」

 確かに感じた。自分たちとは違う魔法力を。

 魔法力の波動はひとりひとり違う。魔法力を持つ者はここには三人。常ならば感じ取るのは自分を除いた二人分の魔法力だが、今アスカが感じたのは三人分。

 つまり、シンとティアラと…渡羽。

 今まで気づかなかった。今でさえシンに言われなければ気づかなかったかもしれない。それほど弱い波動。

 シンが気づいたのは彼が魔導師クレシアスだからだろう。たぶんほとんどのヒトは気づかない。

 当の本人である渡羽は魔法力があると言われて、ハトが豆鉄砲を食ったような顔をしている。

「微弱なものですがね。魔法界は魔法力にあふれている。そのため、渡羽の中に秘められていた魔法力が一時的に増幅されたのでしょう」

「って、渡羽に魔法力があったってのは分かったけど、それがなんだって言うのよ。渡羽が魔法界を懐かしく感じた理由にはなってないんじゃないの?」

「いいえ、大いに関係あります。魔法力があるということは、渡羽の祖先もしくは前世が、我々と同じ血筋だったかもしれません」

「「ええっ!?」」

 シン以外の三人が声を上げる。シンは落ち着き払った様子で、渡羽の眼鏡を空中でくるくるとゆっくり回した。

「祖先もしくは前世の魂が、故郷である魔法界の空気を感じ、魔法力を通じて渡羽に影響を与えているのでしょう」

「渡羽の祖先が…あたしたちと同じ……」

 それはもしかして……。アスカは硬い表情で、わずかに俯いた。

 もしも渡羽が同じ祖先をもつなら、それは十貴士じゅっきしと関係があるかもしれない。テュレーゼに伝わる伝説の貴士たちと。

 アスカの表情から考えを読み取り、シンは瞑目した。同じ考えをシンも抱いていた。

 だが、それは魔法界の歴史と人間界の歴史に大きく関わることなので、ここで口に出すことははばかられる。

「渡羽。もしや君は、人外のモノが視えたりしていないか?」

 渡羽の顔色が変わる。シンは目を細めた。

「視えているんだな」

「……ああ」

「いつからだ?」

「……物心ついた頃……いや、もしかしたらその前から視えていたかもしれない。意識し始めたのが物心ついた頃だったから」

 いつもより沈んだ声で話す渡羽。あまり知られたくなかった。普通の人間とは違う自分。アスカには知られたくなかった。

 子供の頃は眼鏡をかけていなかった。そのため、よく常人では見えない人外のモノが視えた。

「眼鏡をかけると見えなくなるんだな? その眼鏡はいつからかけている?」

「小学生の時……かな。あまりにもたくさん視えて嫌になったんだ。

 そのことを田舎のばあちゃんに話したら……眼鏡をくれたんだよ。その時にばあちゃんはまじないをかけてくれた」

 優しい祖母。ふくよかでいつもにこにこ笑っていて、とてもかわいがってくれた。

 変なものが視えると言っても、バカにしたり邪険にしたりせず、ちゃんと話を聞いてくれた。そして「怖い」と泣く自分を慰めてくれた。



『飛鳥。今もそれは視えるかい?』

 老婆のひざに顔をうずめている少年に、祖母が優しく問いかける。

 幼い渡羽はちらりと庭の隅を見、こくりと頷いた。しわだらけの手で、老婆はそっと孫の頭を撫でた。

『そうかい。飛鳥、これをごらん』

 祖母は傍らに置いておいたプラスチックケースを開けた。渡羽はその中を見て、小首を傾げた。

『……メガネ?』

『よーく見ておいで』

 祖母はケースから眼鏡を取り出して、何やらぶつぶつと小声で言った。言葉の意味はまったく分からなかったが、祖母はにっこり笑うと眼鏡を渡羽に手渡した。

『今おまじないをかけたよ。飛鳥がもう怖いものが視えなくなるようにってね』

 おそるおそる渡羽は眼鏡をかけてみた。そして祖母が無言で示す先を見る。さっき見た場所。軍服姿の男性が立っていた場所。

 しかし、そこには誰もいなかった。

 渡羽は大きな目を丸くすると、ゆっくりと眼鏡をずらしてみた。するとその分だけ男性の姿が見えてくる。渡羽はひっと息を呑むと眼鏡をかけ直した。

『それをあげよう。その眼鏡をかければ、もう怖いものは視えない。もう泣かなくていいんだよ』 


 

 そんな祖母は渡羽が中学に入る少し前に亡くなった。今はもういない祖母を思い出して、渡羽は沈痛な面持ちになった。

「そのまじないというのが、不可視の法だったのだろうな。それで眼鏡をかけると人外のモノが視えなくなった」

 シンは腕組みをして、くるくると回っている眼鏡を見た。渡羽たちも同じく眼鏡に視線を向ける。

 傍目にはなんの変哲もない眼鏡。他人にとってはただの眼鏡だが、渡羽にとっては、大好きな祖母からもらった、世界にたった一つの眼鏡だ。

「渡羽の御祖母はたぶん、人間界で言う異能者だったのだろう。渡羽は御祖母の血を強く受け継いでいるのだな。渡羽の異能は遺伝によるものか」

 シンが指を振ると、眼鏡は回転を止め、すうっと渡羽の手元に戻った。

「そのまじないは強力だ。渡羽が眼鏡をかけると性格が変わるのは、たぶんそのまじないの副作用だろう」

 渡羽はじっと眼鏡を見つめてから、眼鏡をかけ直した。アスカが困ったように、シンに向き直る。

「で……ティアラが見えるのは、渡羽に魔法力があるからってこと?」

 話がごちゃごちゃしていて、アスカはよく理解していなかった。確認するようにシンに問う。

「ええ。ティアラたち妖精は普通の人間には見えません。ですが、魔法力があれば妖精は見えますからね。渡羽にティアラが見えてもおかしくはありません」

「えーと、じゃあ…その、人外のモノって言うのは?」

 渡羽が一瞬顔を強張らせたが、アスカは気づいていない。

「魔法界にはいませんが、人間界には“霊”というものがいるらしいのですよ。死後、魂のみとなった者たちのことです」

「ふーん。つまり……」

 アスカは人差し指を立てて、きっぱりと言った。

「渡羽は魔法力があるから、妖精も人外のモノも見えるってことね!」

「厳密に言えば違いますが、そういうことですね」

 シンはいつものように優美に笑った。

「さて、このまま城に空間移動で跳んで行ってもいいのですが、アスカ姫も久々に故郷に帰ってきたことですし、少し町を見て回りたいでしょう?」

「そうねぇ、渡羽にいろいろ紹介したいし」

「ですから、ここから城までは歩いて行って下さい。僕は一足先に城に帰っていますので」

 空間移動の呪文を唱えながら歩き出したシンを、アスカが引き留める。

「え? 一緒に行けばいいじゃない」

「その申し出はうれしいのですが、遠慮させていただきます。

 民の中には僕の正体を知っている人もいますからね。ややこしいことになっては、ゆっくり散策もできないでしょう」

 シンの言うことも一理ある。いちいち「この人は実は国王とうさまで今はちょっと若い頃の姿になってるけどまあ気にしないで」と言ってられない。

「確かにそうね……分かったわ。じゃあ先に帰ってて」

「道中、お気をつけて」

 一礼すると、シンは頭上に現れた空間移動の穴に飛び込んだ。シンが中に入ると、穴は集束して消えた。 

「さて、じゃあ行こっか、渡羽。……渡羽?」

 動かない渡羽に、アスカはそっと近づいた。渡羽は憂いを帯びた横顔で町を見つめていた。

「……渡羽」

「……『普通』の人とは違うと思っていましたが、魔法使いの血を受け継いでいるかもしれないとは、思いませんでした。

 でも、これで俺が人外のモノや、ティアラが見える理由が分かってすっきりしましたよ。眼鏡をかけると性格が変わる理由も」

 ゆっくりと渡羽はアスカを振り向いた。渡羽はまだ少し複雑そうな顔だったが、口元には笑みが浮かんでいた。

「人外のモノが視えることが、アスカに知られてしまったのは少しショックでしたけど、いろんな原因も分かったのでプラスマイナスゼロです」

「渡羽……」

 アスカには渡羽が無理して笑っているような気がした。アスカはブロッサムの柄をきゅっと握りしめた。

 魔法界に連れて来たことで、渡羽に悲しい思いをさせてしまっただろうか。俯くアスカに、渡羽は困ったように笑った。

「アスカまでそんな暗い顔をしないで下さい。俺はもう大丈夫ですから。

 それに、俺にいろいろ紹介してくれるんでしょう? そんな暗い顔のままでは楽しくありませんよ? アスカは笑っている方がいいです」

 アスカは顔を上げた。「笑っている君が好きだ」と、以前渡羽は言ってくれた。あたしも渡羽は笑っている方がいい。

 自分が暗い顔のままでは渡羽を困らせてしまう。そんなのはイヤだ。

「うん!」 

 アスカは破顔した。渡羽の手を握り、町へと走り出す。渡羽は転びそうになりながら、ティアラは苦笑しながら、アスカについていく。

 ブロッサムがぴょこんぴょこんと、うれしそうに三人の周りを飛び跳ねていた。


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