10th 新年
食堂に入ってきたアスカを見て、美鳥が心配そうに近づいてきた。ティアラも一緒にいるが、美鳥には見えていない。
「アスカちゃん、もう大丈夫なの?」
「うん。心配かけてごめんね、美鳥母様」
「私の方こそごめんなさいね。飛鳥から聞いたわ。アスカちゃん、こっちのお酒弱いんですってね。それなのにたくさん勧めちゃって……」
「あたしも知らなかったんだし、気にしないで。それより『おせち』食べよう! 『おせち』!」
すっかりいつもの調子を取り戻しているアスカに、美鳥は「そうね」と笑った。
さっそく、渡羽がおせち料理の詰められた重箱をこたつへ運ぶ。美鳥がお雑煮を人数分、お椀によそい、アスカがそれを運ぶ。
全員がこたつに入ると、美鳥は丁寧に頭を下げた。
「それでは改めまして、明けましておめでとうございます。今年も一年、よろしくお願いします」
「「よろしくお願いします」」
渡羽とアスカも一礼する。そしてお待ちかね、重箱のふたが開けられた。
カズノコ、海老、黒豆、伊達巻き卵などなどが、重箱の中に所狭しと詰め込まれている。
アスカは初めて見るおせち料理に、歓声を上げる。
「すっごーい! なんか豪華~」
「ふふふ。なんと言っても新年のお祝い料理ですもの。それじゃあ食べましょうか。いただきま~す」
「いっただきまーす!」
「いただきます」
アスカはまず伊達巻き卵に手を伸ばした。形がロールケーキに似ている。はむっと口に入れると、甘さが口に広がる。
「ん~、おいしーっ」
「飛鳥お手製だものね、アスカちゃんへの愛情たっぷりよ」
「か、母さん!」
「あら、違うの?」
「いえ、そんなことは……じゃなくて、どうしてすぐそういう言い方するんですか!」
「んもう、照れちゃって。かわいいわねぇ、我が息子!」
「わっ、もう子供じゃないんですから頭撫でないで下さいよっ」
「いくつになってもあなたは子供よ。私にとってはね。そうそう、子供と言えば、
「翔子?」
お雑煮のモチをぐいーんと伸ばしながら、アスカが小首を傾げる。渡羽も同じくお雑煮をすすりながら、
「俺の姉ですよ。結婚して家を出てるんですけど、毎年正月には帰ってくるんです」
「そっかぁ、あたしの兄様と一緒なのね。兄様も結婚して他の国に行っちゃったから」
「あらぁ、それは初耳ねぇ。アスカちゃんってお兄さんがいたの?」
「あと妹さんもいるんですよね?」
伸びるモチに四苦八苦しながら、アスカは「うん! 生意気盛りなのが一人ね」と返した。
「まあ、そうなの。ふふっ、賑やかそうねぇ」
「それで姉さんはいつ頃来るんですか?」
美鳥はちらっと、食器戸棚の中の置き時計を見やった。既に九時を回っている。
「そうねぇ、お昼は食べてから来るって言ってたから、二時過ぎじゃないかしらねぇ」
「そうですか」
「じゃあそろそろ、お年玉を渡そうかしら」
美鳥はスカートのポケットから二つのぽち袋を出し、アスカと渡羽それぞれに手渡した。
「はい、これが飛鳥の分。こっちがアスカちゃんの分よ」
「ありがとうございます」
「? なぁに、これ?」
手渡されたぽち袋を見てきょとんとするアスカ。
「それはねぇ、お年玉よ。新年のお祝いに子供とかに贈るの。まあ、多めのお小遣いって感じかしら」
アスカはぽち袋を開けて中を見てみた。お札が一枚入っている。
「それで何か好きな物を買うもよし、貯金するもよし。でも大切に使うのよ? 無駄遣いは厳禁です」
にっこり笑う美鳥に、渡羽は「はい」と答え、アスカは「ありがとう、美鳥母様!」と満面の笑みを浮かべた。
そうして雑談を交えながら、正月の朝のひと時を過ごした。
おせちを食べ終え、食後のデザートにみかんをむきながら、アスカは渡羽に問いかけた。
「ねね、翔子姉様ってどんな人?」
「うーん、そうですねぇ……格好よくて立派な人ですよ、いろんな意味で。姉さんは俺の憧れなんです」
渡羽は懐かしむように目を伏せる。アスカはその横顔に、ほんの少しだけ淋しさを感じた。
置いていかれるような、わずかな距離感。目の前に渡羽はいるのに、心はまるで別のところにあるようで。
「ちょっと、イヤだな」
「え?」
アスカはハッと我に返った。慌てて「なんでもない」と顔の前で手を振って、みかんの最後の一粒を口に入れた。
時計の針がもうすぐ午後の二時半を指そうという頃、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
キッチンでお菓子の用意をしていた美鳥が「きっと翔子たちよ」と小走りで玄関に向かう。
アスカと一緒に、こたつで正月のテレビ特番を見ていた渡羽も立ち上がった。
やにわに騒がしくなった玄関から、ぱたぱたと誰かが駆けてくる音。次いでドアが開くと、小さな男の子が飛び込んできた。
「あすかにいちゃん!」
まだ三、四歳くらいだろうか。エンジ色のダッフルコートを着た茶髪の男の子は、まっすぐに渡羽に向かっていき、抱きついた。
渡羽は男の子の頭を優しく撫でてやる。
「いらっしゃい、
「うんっ!」
顔を上げ、男の子は満面の笑みを見せた。そこへ美鳥と、年の頃二十代後半の男女が居間に入ってきた。
黒髪ショートカットの女性が、凛々しい表情で微笑む。
「あけましておめでとう、飛鳥。久し振りだね」
「おめでとう~、飛鳥君」
女性の隣に立っている茶髪セミロングの男性がへらっと笑う。
「はい。あけましておめでとうございます。姉さん、義兄さん」
渡羽が新年の挨拶を返すと、渡羽の姉・翔子は呆れ気味に、弟に抱きついている我が子を見た。
「こら、トシ。ちゃんと挨拶はしたのか?」
「?」
「来る前に教えただろう? 飛鳥兄ちゃんたちに会ったら『あけましておめでとうございます』って言うんだって」
母親にそう
「あけましておめでとうございます?」
「はい、よくできましたね。あけましておめでとうございます」
渡羽がにっこり笑うと、寿一はうれしそうに再度、渡羽の腰に抱きついた。
そこで初めて、面くらったように立ち尽くしているアスカに気づき、狼狽して母親の後ろに隠れた。
「ん? おや、見慣れない顔だね」
珍しげに翔子がアスカを見ると、隣にいた男性が「わお!」と頬を紅潮させて、ばひゅっとアスカの前に素早く移動した。
目にも留まらぬ速さに、渡羽は目を白黒させた。男性はアスカの手を握りしめ、興奮気味に歓喜の声を上げた。
「かわいい~!! 蒼い髪と碧の目がチャーミングだね!! このカチューシャがよく似合ってる! 何よりこの服」
ばしっ。
男性の後頭部にスリッパが振り下ろされた。はたいたのは翔子だ。
「初対面の女の子にいきなり食いつくな。まったく」
肩をすくめ、翔子は男性――旦那の
「すまない、お嬢さん。夫が失礼した。こいつはかわいいものに目がなくてね。困ったものだよ。
申し遅れたが、私は羽柴翔子。飛鳥の姉で、今はこのバカの妻だよ」
そう言って、翔子は握手を求めてきた。アスカは翔子の顔に見とれていて、反応が少し遅れた。
「あっ、初めまして! ああ、あたしはアスフェリカ・グランジェです! みんなからはアスカって呼ばれてますっ」
「へえ、弟と同じ名前か。それでは少し呼びにくいな。私はアスフェリカと呼ばせてもらうよ」
アスカは差し出された手を握り、ぽーっと翔子の顔を見つめた。
顔立ちはあまり似ていないが、笑い方が眼鏡を外した時の渡羽とよく似ている。さすがは姉弟と言えよう。
それに、なんと言っても翔子はかっこいい。口調も顔つきも物腰も、どこか男らしい。
渡羽が翔子を『格好よくて立派な人』だと評した理由がよく分かった。確かに翔子はかっこいい。女の人なのに、ちょっとときめいてしまった。
「翔ちゃ~ん、頭はやめてよ、頭は。パーになったらどうするの」
雅英がよろよろと翔子にしがみつく。翔子はうっとうしそうに、片手で雅英の顔を押しのけながら、
「今さら頭をどついたところで何も変わらないだろう? 元々パーなんだから」
「し、しどいっ。うわ~、飛鳥君! 翔ちゃんがいじめるよぉぉぉっ」
雅英は泣きながら渡羽にしがみついた。
「うわあっ」
「飛鳥に抱きつくな!」
翔子は、すぱんすぱん、とスリッパで雅英の背中をはたきまくる。
美鳥はそんな子供たちのやり取りを楽しそうに見守っている。アスカも、賑やかな家族だなぁ、と笑った。
せっかくの家族水入らずの時間を邪魔しては悪いから、とアスカは散歩に出かけることにした。
雅英は「いろいろ話してみたかったのに」と残念そうにしていたが、アスカは以前、美鳥に買ってもらった白いコートを着て、ティアラと一緒に家を出た。
誰も見ていないことを確認してほうきに乗り、アスカは空を散歩していた。特に目的も、行く場所も決めていない気ままな空の旅だ。
コートが冬の凍えるような風ではためいている。アスカはぶるっと身震いした。
「う~、やっぱり外は寒いわね。保温魔法使えれば、この程度の寒さどうってことないんだけど。ティアラは寒くない?」
アスカはコートのポケットを見下ろした。ティアラがそこからひょこっと顔を出す。
「はいっ。ポケットの中はぽかぽかで快適です」
「うらやましい限りだわ。あたしもポケットに入りたい……っ」
「ですから、魔法修業をして魔法のレベルを上げればよかったのです。修業をサボっているから、いざという時に困るんですよ」
「もうお説教は聞き飽きたわよ。でも、今だけはティアラの言う通りかもって思うわ。はぁ、ちょっとくらいは修業した方がいいかしら」
ぽつりと言った言葉に、ティアラがすぐさま反応した。目をうるっと潤ませて感動する。
「やっとやる気になられたのですね!? そうです、その方がよろしいですよ! 修業してレベルが上がれば、高度な魔法が使えるようになりますし、とても便利です。
元々、姫様は
そのためにはまず魔法力を練る力の加減と、発動した魔法を持続させる集中力をですね……」
うんたらかんたら。ティアラがいろいろと講義をしているが、アスカははぁ―と長く白い息を吐いて、鉛色の空を見上げた。
「家族かぁ。そういえば、母様たち元気にしてるかな」
人間界に来てから半年。一度もマジカリアに帰っていないし、連絡もしていないので、マジカリアや家族の今の様子を知らない。
父親はしょっちゅう周りをうろちょろしているので、まったく懐かしくもなんともないが、母や国民たちは懐かしく思う。
翔子たちと話す渡羽を見ていて、なんだか自分も家族に会いたくなってきた。
「たまにはマジカリアに里帰りしてみようかな」
少しずつでき始めた雲の切れ間から日が射している。アスカは空を滑空しながら、遠い故郷に思いを馳せた。
家に帰ると、渡羽が出迎えてくれた。翔子たちもアスカの帰りを待ちわびていたらしく、居間に入ってきたアスカを座らせ、談笑し始めた。
夕食も楽しく過ごし、アスカはますます家族に会いたくなった。その頃には寿一もアスカと打ち解けるようになっていた。
別れを惜しむ翔子たちを見送り、渡羽たちは夕食の後片づけに居間へと向かう。
「さてと、そろそろ私は仕事を始めようかしら。お正月休みは終わりね」
「じゃあ後片づけはやっておきますよ。後で夜食を持っていきましょうか?」
「悪いわねぇ。頼むわ。夜食は十時頃持ってきてもらえる?」
「分かりました」
自分の部屋へと向かう美鳥。渡羽とアスカは居間に入り、食器などを片づける。
そこへティアラが飛んできて、ポン、と人間の子供大の大きさになった。
見た目は十二、三歳といったところか。背中の二枚の羽は消え、パッと見は人間の子供とさほど変わらない。
渡羽が初めてこの姿を見た時は驚いたが、今ではもう見慣れた。いつも通り、それぞれ分担された仕事に手をつける。
ティアラが食器を台所に運び、その後テーブルの上を拭いておく。渡羽が食器を洗って、アスカはその食器を拭く。
いつもは談笑しながらやっているのだが、今日は静かだった。たいていアスカが話を切り出すので、アスカがしゃべらなければ誰もしゃべらない。
しばらく食器が触れ合う音と、時々流れる水の音だけが響いていた。
「あのね、渡羽」
体は正面を向いたまま、アスカが呟くように口を開いた。
「あたし、マジカリアに帰ろうと思うの」
つるっ。パリーン。
洗剤のついたスポンジでコップを洗っていた渡羽は、思いがけない告白にコップを落とした。
「え? ええっ? な、なんですか急に! か、帰るっていつですか!? いやそんなどうして……っ!?」
目に見えて動揺する渡羽に、アスカはぷっと吹き出した。
「あはは、ビックリした? ごめんね、驚かして。なんかね、翔子姉様たち見てたら、母様たちに会いたくなっちゃって。ちょっとした里帰りよ」
「え。……あ、ああ、里帰りですか。そうですか。はい、分かりました」
まだ完全に平静を取り戻したわけではないが、渡羽はずり落ちかけた眼鏡を直し、落としたコップの破片を拾い集める。
それをとりあえずキッチンペーパーの上に置いていく。
「明日帰るつもり。なるべく早い方がいいかなって」
くすくすと笑いながら、アスカは「貸して」と横から、コップの破片の乗ったキッチンペーパーに手を伸ばした。
「危ないですよ」
「平気よ。見ててね」
破片の上に両手をかざし、アスカは精神を集中させる。
「バパジャ=ゴアラ=アイシフィエルク」
簡単な修復魔法を唱えると、一瞬でコップが割れる前の状態に戻った。使用前の状態にも戻っているので、そのまま食器棚に置く。
「本当に便利ですね。魔法というのは」
「えへへ。それでね、話を戻すけど、渡羽も一緒に行かない?」
「え? 俺も、ですか?」
食器洗いを再開し、渡羽は顔だけをアスカに向ける。アスカは渡羽の隣に並び頷いた。
「そう。せっかくだから、渡羽にあたしの故郷を見せてあげたくて。それに、母様にも紹介したいし」
「行ってもいいんですか? というか、魔法使いじゃなくても行けるんですか?」
「んー、まあ人間が魔法界に行ったって話は聞いたことないわね。あたしの知る限りは。でも大丈夫じゃない? 魔法界に連れていっちゃいけないって決まりはなかったと思うし」
「うーん、魔法界ですか……なんだかドキドキしますね」
苦笑する渡羽。アスカはその横顔を見つめ、するっと自分の腕を渡羽の腕にからませた。
「ア、アスカ?」
「ねえ、渡羽。さっき、あたしが帰るって言った時、あたしがいなくなっちゃうって思ったでしょ。もう会えなくなるかもって」
「え、あ、それは……」
「さみしいって思った?」
淡く微笑んで、アスカは渡羽の顔を覗き込む。アスカの瞳に渡羽の顔が、渡羽の瞳にアスカの顔が映り込む。
渡羽は真剣なアスカのまなざしに、正直な気持ちを打ち明けた。
「それはもちろん……さみしいですよ。ずっと一緒に暮らしてきましたし、家族のようなものですから。それに…………」
言葉を切り、ためらいがちに、それでも恥じらいながら、
「アスカは俺にとって大切な人ですから……」
確かにはっきりと言った。渡羽は赤面して顔を逸らした。
アスカは一瞬きょとんとしたが、すぐうれしそうに笑って、渡羽の腕をぎゅっと抱いた。
「大丈夫だよ! 渡羽に黙っていなくなったりなんかしないからね。あたしはずっと渡羽と一緒にいるよ!」
渡羽の腕にすり寄り、アスカは満面の笑みを浮かべる。
――渡羽と一緒にいたい。これからもずっと
そんなアスカを見て、渡羽もはにかみながら微笑んだ。
――いられるといいな。このまま渡羽のそばに
テーブルを拭き終わったティアラが、二人をあたたかい目で見守っていた。
――いられたらいいのに。今のまま、人間界に。ずっと…………
ほんのわずかに、アスカの目に憂いが宿った。今の幸せがずっと続くことを願いながらも、いつか終わってしまうのではないかと、一抹の不安を胸に抱えて。
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