第六日:01【御堂小夜子】

第六日:01【御堂小夜子】


『十月三十日金曜日、朝のニュースをお届けいたします』


 ニュース原稿を読み上げるテレビアナウンサーの声が響く、御堂家のキッチン。そんな中で絶望的な表情を浮かべつつ、小夜子はコーンフレークを口へと運んでいた。

 スプーンを口に入れようとするが、唇が上手く動かない。豆乳が顎からだらしなく垂れ、テーブルを濡らす。


(えりちゃんが、人を殺した)


 昨晩対戦成績を見た時の衝撃が、抜けきらない。


 あの恵梨香が。

 あの優しい恵梨香が。

 自分のために誰かを犠牲にするくらいなら自身の死を選ぶであろう、あの恵梨香が。

 対戦相手を、殺したのである。


(何かの間違いであって欲しい)


 無論、【グラスホッパー】戦のように相手の事故死という可能性も皆無ではない。

 だが同時に、それは無いだろうとも小夜子は理解していた。


 昨晩は五回戦。もう既に四回も、死線をくぐって来た人物が相手なのだ。そうそうそんな幸運が期待できるとは思えなかった。やはり、恵梨香が殺したのだろう。


 ぽたり。


 豆乳とは違う透明な液体が、テーブルを濡らす。


 どれほど恵梨香は、追いつめられたのだろう。

 いかに恵梨香は、その判断を下すのに迷ったのだろう。

 手を下した後に、恵梨香はどれだけ苦しんだのだろう。


 彼女が相手を殺さざるを得なくなった経緯を様々に想像するだけで、小夜子の目からは涙の粒が次々と零れ出た。顔を伏して叫びたい衝動が、少女の身体を内側から揺さぶる。


(駄目よ小夜子、駄目。あなたがえりちゃんを支えなくて、どうするの)


 唇を噛み締め、折れそうな自らの心を叱咤する。


「そうよ。私がしっかりしなくてどうするの」


 がんっ! がんっ! がんっ!


 拳をテーブルへ激しく叩きつける小夜子。その痛みで目に力を取り戻した彼女は、今度は貪るようにコーンフレークを流しこむのであった。



 時計の表示は「七時三十分」。約束時間の七時四十分までは、まだ余裕がある。だがそれでも小夜子はじっとしていられず、戸締まりをして早々に家の外へと出た。

 向かうのは勿論、待ち合わせの場所である御堂家と長野家の境目。そしてそこには既に、長野恵梨香が立っていたのである。


 青白い顔、目の下にはうっすらとクマ。たった一日、いや一晩だけで随分とやつれたような印象だ。彼女は何処を見るでもなく口を半開きにしたまま、ぼんやりと空に視線を投げていた。


(あぁ)


 そんな幼馴染みの姿を見ただけで、小夜子の眼球の裏が熱くなる。溢れそうになるものを、顔を上げて抑えこみ……血が滲むほどに拳を握りしめ、少女は懸命に耐えた。


「……あ」


 ようやく彼女の存在に気付いた恵梨香が、小夜子へと向き合う。


「……おはよう、さっちゃん」


 弱々しい声で挨拶すると、儚げに微笑んだ。

 そして、いつも会うなり抱きついてくる小夜子の体当たりに備えたのだろう。鞄を置き、手を肩幅程まで広げて、迎える体勢をとったのである。


「おはよう、えりちゃん」


 駆け出すと、熱いものが零れそうだ。目を細めて必死に涙のダムを造りながら、小夜子はゆっくりと歩み寄り……眼鏡を外してポケットに入れると、押し込むように恵梨香の胸へ顔を埋めた。


 ぽすん。ぎゅっ。


 恵梨香が小夜子の肩に手を回し、きつく抱きしめてくる。


(ああ。やっぱり辛いんだわ、えりちゃん)


 小夜子の堤防が決壊した。涙が頬を伝い、恵梨香の胸を濡らす。少女は肩の震えを隠すためさらに顔を埋めて、ぐりぐりと頭を振った。痙攣の如き呼吸を気取られぬよう、両手で恵梨香の胸を揉みしだき、必死に誤魔化す。


「……ブラが邪魔だぁ!」

「やだもー、さっちゃんのエロすけ」


 くすぐったげに身を捩るも、恵梨香は小夜子を振り払おうとはしない。


「ぐへへ、今日も変わらずええ乳してまんな」


 小夜子はわざと中年親父のような声を出して、喉の震えを隠蔽する。


「ああ、御堂はん! 堪忍して」


 恵梨香もそれにのって、ふざけていた。あるいは彼女も、同じだったのかもしれない。


 ……二人はしばらくそのままの姿勢を続けていたが、やがて恵梨香の制服で涙を拭き取った小夜子が、俯きながら頭を離す。


「やっべ。興奮しすぎて鼻水が出たわ」


 顔を下に向けたままポケットからティッシュを取り出し、ちーん、と大きな音を立てて鼻をかむ。そして鼻周りを拭く振りをして、残る涙とその跡を拭い取っていた。


「やだもう、私の制服で鼻拭かないでよ?」


 ちっとも嫌そうな顔をせずに、微笑む恵梨香。


「じゃ、そろそろ行こうか、さっちゃん」

「うん」


 恵梨香が手を差し出す。小夜子がそれを掴む。白魚のような指が小夜子の手を這い、指の間に絡み、結び方を変え、しっかりと握りしめる。

 明日も迎えられるかどうかは分からない、「至福の十五分」の始まりだ。



 会話は、今日も無かった。ただ恵梨香の掌の感触だけが暖かく、切ない。

 恵梨香を見上げる小夜子。彼女は目を合わせず、前を向いたまま足を進めている。

 引っ張られるように、引き寄せられるように、小夜子も並んで歩き続けた。


(ごめんね)


 小夜子は心の中で呟く。


 ごめんね。何もしてあげられなくて。

 でもあなたは、悪くないわ。悪いのは、あの未来人どもよ。

 そして、何もできなかった私。


 私が最初から覚悟を決めていれば。

 もっと早く、他の対戦者を殺し始めておけば。

 あなたは昨日「その相手」に出会わずに済んで……手を汚さなくて、済んだかもしれないのに。


 ごめんなさいね。えりちゃん。本当に、ごめんね。

 私が悪いの。だから、あなたは気に病まなくていいのよ。

 あなたの罪は、私のせい。あなたの罪は、私の罪。


 だからね、もう、泣かないで?

 もう少しだけだから。もう少しだけだから、ね?

 その間に私が、頑張って皆を殺しておくから。



 そろそろ「至福の十五分」が終わろうとしていた。他の生徒と通学路が重なる辺りまで、二人は歩いてきていたのだ。

 それを察した小夜子がゆっくりと恵梨香の指を解き、手を離す……いや、離そうとした。


 しかし恵梨香が離さない。力の込もった彼女の指が、二人の掌をきつく重ねたまま離さないのである。


「え?」


 手を振り、引き剥がそうとする小夜子。その掌を恵梨香はさらに強く……痛いほどに、握りしめる。


「えりちゃん、手、離さないと。その、もう、みんなが、来ちゃう」


 恵梨香は小夜子の方を見ない。ただ前方に視線を向けたまま、


「いいじゃない」


 そう、一言だけ口にした。


「え、だって。だって」


 小夜子が慌てるが、もう恵梨香はそれには答えない。手を結んだまま……いや、引っ張りながら。ひたすらに、歩き続けていた。

 そのうちに、


「よう、長野」

「恵梨香さん、おはよう」

「オーッス、エリチン」


 などと、学友たちが集まり始める。

 だが小夜子を引っ張って歩く恵梨香の姿を見て、彼女らは戸惑った表情を浮かべていた。


「……何やってんの? 長野」


 その内の一人、ベリーショートの体育会系女子が躊躇いつつ、尋ねてくる。


「何が?」

「いや、そいつ一組の奴だろ? 手なんか繋いで、どうしたんだよ」

「手ぐらい繋ぐよ~、私たち親友だもの。知らなかった?」

「お、おう、そうか……」


 怪訝な表情で小柄な少女を見る、ベリーショート。小夜子は赤面しながらずっと下を向いて、恵梨香に引かれるまま歩いていた。

 だがやがて体育会系女子は「まあいいや」と肩をすくめると、恵梨香と談笑を開始する。


「長野、宿題やった?」

「当たり前でしょ、直美ちゃんは、やってないの?」

「さっき佐伯に言われて思い出してさ。朝の会が始まる前に、写させてよ」

「やだ」

「頼むよー」


 間もなく他の学友らも恵梨香といつものようにお喋りを始め……小夜子はその輪の中央で、ひたすら俯いたまま手を引かれ続けていた。


 結局恵梨香が小夜子の手を離したのは、下駄箱まで辿り着いてからのことである。

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