第3話 事務所にて

『おはよう』

昨晩の事もあり、気まずくなる前に先手を取った。

『…はよ…』

挨拶もまともにできないのかこいつは。

リクは大きく息を吸うと、また大きく嘆息を吐き出した。

彼はリオに対する苛立ちを隠さなくなっていた。

その代わり−−−

『もっとしっかり挨拶しなさい。おはようございます、だろ?』

積極的に関わると決めていた。

『…おはよーございます』

つまらなそうにリオは応えた。それからまた部屋に戻ろうと振り返った。

リオはまだ制服を着ている。

服、やっぱりこれしかないのか…。昨晩買っておいてよかった。

−チッ−

今、舌打ちが聞こえた気がしなくもないような。

『おい、リオ。今舌打ちしたか?…まあいいや。部屋に戻る前に風呂に入りなさい』

『なんで?』

『昨日君は風呂に入ってないだろ。それに今日は俺と一緒に事務所に来るんだ。まだ夏休みだし、予定もないだろ?』

『めんどくさいよ…風呂なんて毎日入ることなんてなかったし』

リオはしかめっ面で振り返った。

『毎日入るもんなんだよ。いいから入れ。家を出る出ない関係なく臭いんだよ。家に臭いが移るだろ?』

我ながら酷いことを言ってるものだと思う。それも年頃の女の子に。

でも仕方ない。この先、数日だけならともかく、ずっと気を使って話すのは疲れる。

『…はいはい、わかったよ』

それに傷つかないこいつもどうかと思うが。

『あるものはなんでも使っていい。ちゃんとリンスもしろよ?』

リオは、んーとめんどくさそうに返事をした。

『あがったらしっかり髪を乾かして梳かすんだ。服は用意してあるからそれを着なさい。サイズはMで良かっただろ?』

たぶんねーと生返事をする。

『今度君の服を買いに行かないとな。あと、これからその態度は改めてもらうからな』

『…』

今度は返事をしなかった。

『返事はわかりました、だ。それくらいは分かるだろ』

リオは何も言わずバスルームに入っていった。

愛想もへったくれもあったもんじゃない。

ただその後小さく、わかりました、が聞こえた気がしなくもなかったが。



今日からリオには職場に来てバイトをしてもらう。

リオが起きて、準備が終わるのを待っていたら事務所に着いたのが昼頃になっていた。

『これからは最低でも7時には起きてもらうからな』

リオはぶつくさと文句を垂れている。

幸い今日は仕事の予定はない。

どうするか…。

まあ、迷ったら−−−

『掃除をするから、君は床を拭け。俺は机を拭く』

『…嫌な方を押し付けないでよ』

バレたか。

リクは無視して水の入ったバケツをリオの前に突き出す。

『バイトが文句言うな。人ん家に住むんだからそれなりの仕事はしてもらうぞ。タダ飯喰らいはダメだ』

『…だる』

リオはバケツと雑巾を受け取り、床にしゃがみ込んだ。

『おい、膝をつけるな。汚すなよ◯ニクロの服』

白シャツとジーパンのシンプルな格好だが、きちんと着せれば様になっている。

腐っても黒坂家だ。

『…この服高いんだ?たしかに生地がしっかりしてるかも』

…心が痛い。


しばらくして大掃除も終わりにさしかかった頃、玄関のチャイムが鳴った。

お客さんかな?飛び込みとは珍しい。

リクの客は紹介がほとんどで、それ以外は滅多にない。

『お客さんだ。リオ、君は愛想が悪いからそこに突っ立ってなさい。笑顔は無理でも、不機嫌そうな顔をしなければ上出来だ』

『…いちいち酷いな』

リクは不満を漏らすリオを無視して玄関のドアに駆ける。

一見さんの接客はほぼしたことはない。苦手なものの中でも5本の指に、知らない人との会話がランクインしているリクにとっては、苦行以外のなんでもない。

…リオの手前、恥ずかしいことはできないな。今日は朝からでかい態度を取ってきただけに、リオのリクに対する社会的スキルのハードルは高い。

恐る恐るドアを開ける。

60歳くらい −いやそれ以上お年を召しているかもしれない− の女性が立っていた。

リクは内心でガッツポーズをかます。

良かった…おばあちゃんなら話しやすい。

『こんにちは。行政書士の黒坂です。』

『ご相談があって参ったのですが、お話、聞いていただけますか?』

上品な喋り方、声質だ。

身につけているものはシンプルだが、それが逆に高貴さを醸し出している。

リクはこういった雰囲気の人は見慣れている。

端的に言って、金持ちだ。

『もちろんです。うちは相談料はいただきません。暑かったでしょう。どうぞ中へ。冷たいお飲み物、お出ししますよ』

今、自分のとびっきりの笑顔を鏡で見たら気持ち悪くて吐いてしまうことだろう。

リクは最大限の愛想を老婆に注いだ。

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