第3話 母親

 一刻も争う・・と志保が言うので、橋本は署と、家に連絡を入れた。

 志保と一緒だというと、署長は喜んで「とことん付き合って来い」と言う。

 捜査に役立つと考えて居るのだろう。

 咲子には、志保が言った通りに伝えた。

 暫く黙った後、

「もしかしたら・・」

 思慮しながら話している。

「彼女の力の原点に関係が有る事なのかも知れないわね・・」

 そう言ってから

「力になってあげて」

 そう言った。


 一旦帰った志保を自宅に迎えに行くと、車の音を聞いて、志保と父親が先を争うように出てきた。

「あんたは、先に俺が言った事を聞いてなかったのか!」

 いつにもまして不機嫌そう・・と言うよりもあからさまに怒りながら父親が車に向かってくる。

「私が頼んだの!そう言っているでしょ!」

 その父を止めるように志保が叫んだ。

「行き先も、橋本さんは知らないのよ」

 そう言えば、聞かされて無かった・・と橋本は思う。

「行ってどうする?」

 父親は情け無さそうに言う。

「弱点を克服したいのよ」

 志保は構わずドアを開けて車の後方に乗り込み。

「出してください」

 そう言って、父親の鼻先でドアを閉めた。

 ロックされたので、慌てて父親は反対側に廻るとドアを開け乗り込んだ。

「お父さん?」

 志保が呆れると

「どうしても行くなら、俺も行く」

 そう言い切った。

「どうしてよ」

 志保が不満を述べると

「必要になるかもしれない」

 彼は、少し声のトーンを落として言った。

 暫し車内に静寂が訪れたので、

「行き先はどこでしょう?」

 そう橋本は言ってみた。


 乗り込む前の喧騒とは裏腹に、車内で父娘は終始無言だった。

 それぞれの思いにふけっている感じ。

 時々後ろを気にしながら、橋本は高速道路をひた走った。

「時間がない」

 のは事実だ。

 例の映画のイベントは二日後だ。

 もし狙うなら最高潮の時・・それがいつか解らないが、恐らく、壇上に大使が立ち、子供達が歌っている時ではないだろうか?集まったファンや、マスコミが注目している中で起きる爆発。

 その衝撃はかなりの物だろう。

 だが、そこにばかり注目し、他の事を疎かには出来ない。

 イベントは常に何かしら行われ、日常的に人に溢れている場所なのだから。


 行き先は、新潟だと告げられた。市内ではない。日本海沿いの、ある海岸。

 そこが目的地だ。

 覚悟を決めたようにその地を告げる志保と、恨みがましい目で見ながら無言の父親。

 両方を見比べるように

「良いんですね?」

 そう言って橋本は車を走らせた。

 その地に何が有るのか・・はまだ聞いていない。


 地方都市をいくつか越え、やがて山あいに入る。

 延々と続くトンネル。

 冬ならば、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」・・となるのだろう・・そんな事を考えながら走る。

 橋本にはスキーの趣味は無いので、こう言う地に来た事も無い。

 咲子は学生時代にはまった事も有ったようで彼方此方行ったと聞いているので、もしかしたら、有名なこの辺のスキー場にも来たのかも・・そんな事も考える。

 シーズン中のスキー場に爆弾を仕掛けられたら、雪崩を起して大惨事だろうな・・と不謹慎な事も考えた。

 そうやって気を紛らわせないとやっていられないくらい、後ろの空気が重いのだ。


 流れていたラジオの音楽が途切れ、喧騒と共に、聞き覚えのある歌が流れた。

「先程、成田に映画『子供の歌』の一行が到着しました」

 そんな声が流れ、ハッとする。

「監督兼主演のチャーリー・モートンと、世界中に旋風を起している小さな歌手たちを一目見ようと沢山のファンが押しかけています!」

 そう言葉は続き、ファンインタビューが流れる。

「凄く可愛い!」と叫ぶ女性や、「チャーリーと握手しました!」と涙声の女性。

 サインを貰ったと言う男性も居る。

 映画の題材と、彼らの歌に反して何と平和で明るい事か・・と皮肉に感じる。

「彼らはこの後一旦ホテルに向かい、明日は朝から取材に応じた後都内のホテルで記者会見を行い、明後日はいよいよ、当番組でも募集したジャパンプレミアが行われます!当たった人は是非レポートお願いします!そして、その後都内観光を楽しむ予定となって居ます。何処に行くのでしょうね。見かけた人はラッキーですよ~下町とか会えるかも知れませんね」

 そう言い終ると、既に耳になじんだ彼らの歌が流れた。

 けれども、橋本の耳には入ってこなかった。

「下町・・」

 志保も同じようで、そう呟いた。

「まさかそっちも彼らを狙って・・?」

 失敗した時の2段構えって事か?観光するのは子供たちだと言うのに、そこまで狙うのか・・?

「その子供たち・・」

 志保が急に思いついたように乗り出した。

「誰か、要人の子息という事は!?」

 そう言う映画が確か有った・・と志保は言った。

「調べる」

 橋本は鴨居に来日している子ども達の素性を調べるように連絡を入れた。


  

 出発してから3時間。休憩に寄ったドライブスルーで、鴨居からの答えを受けた。

「ビンゴ!だよ。橋本」

 鴨居は興奮し、周囲に沢山の気配がする。

「元々映画の子供たちはランダムに選ばれた。あの内戦の生き残りで、精神的ダメージが少なくて、ある程度歌える子供たちの中から。そう多くは無かったけど、家族親族や後見人の了承も必要だった。そう言う条件の中で選ばれた子供たちで、その中の一人、カヤ・マサラ君の父親は、抗争した民族の片方のリーダーと言われているザウロの息子だ。ザウロの家族は、本人を含め、敵対していた民族に皆殺しにされた。カヤは余所の女が産んだ子供で、母方の祖父母の所に預けられていたので、何とか生き延びられた・・と言う経緯だ」

「わぉ・・良く短時間でそこまで解ったな」

 リアルな返答に,相応しい反応がわからず、とりあえずそちらに感心してみる。

「それが、チャーリー・モートン氏が凄く協力的で。子供たちのことを教えて欲しいと連絡したら、彼らを守るためなら・・と、教えてくれた。製作が随分進んでから発覚したので、その時点で詳しく確認したようで。マスコミの調査力って侮れないよなぇ。ただ、彼の安全の為にも、話題性の為にその事を公にして彼を世間にさらそうとは思っていない。警察側もそこを心得て、慎重に行動して欲しい・・と言っている。」

「なるほど・・」

 とても好感の持てる配慮だと思う。

 協力を仰いでいる以上、そのことも志保には話した。

 志保は、そう大きくは無い目を見開いて驚きながら聞いていた。

「ザウロは・・敵対する二つの民族の内の一つのリーダーで、長い歴史の中で何度も争い、ザウロたちの民族が、もう一方の民族を支配する・・と言う歴史が繰り返されていたようです。

 近年は比較的友好的だったのですが、もう一方のリーダーが交代した為に事態が変わり、共存を望むザウロたちに永く押し込められてきた民族の恨みをぶつけてきた・・と言うことらしいです」

 志保は、詳しく語ってくれた。チャーリー氏は赤十字スタッフとして、語り部のような形で出演している。

「随分、国際的な事件なんだなぁ」

 志保の父は横で聞きかじりながらぽつりと言った。

 余り心情の読み難い彼だが、大きな事に関わっている娘に圧倒されているのか・・どういう形の心配をしたらいいのか戸惑って居るのかも知れない。


 道はささやかな地方都市を幾つか越えながら、海岸線に出た。海面から所々に飛び出したごつごつと荒々しい岩に、あたって割れた波しぶきが飛び散る。とても寒々しい景色だ。


 崖沿いの細い道を進んだかと思うと、小さな漁村らしき集落に出る。少し道が広くなり、そこにはどこかしらで見覚えが有るようなコンビニやファミリーレストランやパチンコ屋が並ぶ。一瞬海辺の町にいることを忘れそうになるが、風が強い。べたついた潮風だ。

 ここで暮らすのは、楽では無いだろうな・・と思う。


 それをくり返して進んでいく。


「志保」

 と、父親が口を開いた。ミラー越しに見ると、緊張した表情の父親に負けず劣らず深刻な表情で、志保が頷く。

「止めてください」

 橋本が心構えをしていた通りに志保が言ったので、海岸にせり出すように広くなった路肩に車を滑り込ませた。


「ここで待っていて」

 暫しの時間黙って俯いて、顔を上げると同時にそう言うと、志保はゆっくりとドアを開けた。

 途端に潮の香りの強い湿った空気が車内に流れ込んでくる。

 BGMのように聞こえていた波の音も急にボリュームが上がり、生々しくなった。


 志保は、迷わず歩いて行く。追う残像があるのか、それとも、常人と同じ記憶に従ってなのかは、橋本には解らない。

 少し先に、海側に下る細い道が有り景色を楽しむ為だろう、せり出した崖の先端まで行けるようになっている。

 海面からは10メートル位・・3階建ての建物位の高さだろうか。

 どうやら志保はそこに向かっているらしい。

 ここは、そこに行く為のささやかな駐車場だったのだ。


 空は、グレーに近い青。雲は無い。

 海の色は、一言で言い表せない。印象に残るのは、砕けた波の先端の、白だ。

 その白を際立たせる色。青なんて、言葉じゃ言い表せない。濃い、深い色だ。それでいて、淡く、透き通っている。

 こんな途方も無いものを、良く絵に描こうと思う人間が居ると感心する。

 そう思うのは、絵心が無いせいなのか・・?


「あそこまで行くのは、初めてだ」

 海を凝視していた橋本を見ていたのかいないのか、志保の父親がぼそっと呟いた。

「ここまでは来たのですか?」

 橋本は聞き返した。先ほどの父娘の様子からそうではないかとは思ったが。


「アレの母親が、死んだ場所だから」

 父親の答えは、橋本の想像が及ばない程重いものだった。

 思わず顔を上げ、バックミラー越しに目を合わせた。

 志保の母親と言う事は、父親であるこの川村氏の奥さんと言う事ではないのか・・?

 そう思った橋本は、言葉が出てこなかったのだ。

「風に当たろう」

 そう言って川村氏が車を降りたので、橋本も慌ててそれに習った。

「親に自殺された子供は、親に捨てられたも同然だ・・そうだろう?」

 ポツリと呟いた川村氏は、柵に両手を乗せ海の方を見ている。

 そこから、せり出した崖の先端が見えた。志保はもう間もなくそこに到達しようとしていた。

「志保は、家の中ではとても扱いやすい子だった。機嫌良く一人遊びが出来る子で、手が掛からないと私たちも思って居たんだ。ところが、家から出掛けるとなると、一転して癇癪を起こした」

 そう言って、「解るだろう?」と言う様に、橋本の顔を見た。

 今の志保の力を知っている橋本には、容易に納得が出来た。

「幼い頃から・・?」

 頷きながら、聞き返した。

「あの子が、きちんと文章らしい言葉で話しが出来るようになって初めて知ったが、そうだ。生まれた時から、そうだったんだ」

 深く深く、息を吐き出すように、川村氏は自分自身でその事実を認めるように、応えた。

「何の事は無い、あの子は、家の中で、私たち夫婦の残像と遊んで居たのさ」

「そして外の残像は、幼い子供には強烈過ぎた?」

 川村氏の言葉を、橋本は引き継いだ。

 口に出した言葉の奥に含まれる様々な事を含めて、川村氏は頷いた。

「成長するにしたがって、本人も違和感を覚え始めた。半信半疑だった私たちも、納得せざる得なかった」

 そうだろう・・と橋本は思う。

「そして、言ったんだ。見てはいけない・・と。」

 川村氏は、もう一度橋本を見た。

「現実以外の物を見ちゃいけない。仮に見ても、それは嘘だから、人に話しちゃいけない。周囲の人が変に思うから・・と」

 当然の想いだろう・・と橋本は思う。親として。

「何より・・そんな娘を家で一人育てていた母親の為に」

 川村氏は、そう付け足した。

「ただでさえ、2歳位の子供の質問攻撃はげんなりするものだ。それを、志保は、周囲の人間に見えないことでも質問してくる。志保を宥め、周囲に誤魔化し、母親は、心底疲れてしまったんだ」

 確かに、2,3歳児の子供は、可愛さも最高潮だが、その反面、「道の小石にも嫌われる」時期だと母親が言っていたのを、橋本は聞いたことがある。

「私も、疲れて居たんだ・・ノイローゼの母親と、意味不明な話しを続ける幼い娘に。イライラして、幼い娘を叱り飛ばし、時には怯え、後悔し溺愛する・・そんな妻の姿に。療養の為に・・と、2人を妻の実家に帰した」


 川村氏は、辛い記憶を、吐き出そうとしている・・勇気が挫けない様に淡々とした言葉で。こう言う時は、話のこしを折ったりして邪魔をしてはいけない。橋本は、刑事の勘でそう感じた。


「妻の両親は、今はもう居ない・・ここから少し先の山の方に入って行ったところに有る小さな村に住んでいたんだが・・そこに帰ってきた翌日。妻は、幼い志保を抱いて、あの崖から、飛び降りた」


 幼い志保を抱いて・・?


 橋本は驚いて川村氏を見た。

 母親は、自殺した訳じゃない。無理心中を図った・・?

 志保は母親に捨てられたんじゃなく・・殺されそうになった?

 橋本の頭の中でそんな言葉が駆け巡り、はっとして、崖の方に目を向けた。


 志保は、崖の先端に立っていた。立って、何を見ている・・?


「そろそろ、行ってやろうか・・」

 川村氏も、遠い娘を見つめながらそう呟いた。


 男二人、辛い思いとはやる気持ちで、志保の居る崖に向かう。

 志保の前に辛うじてある華奢な柵は、不思議な引力を持った海底と現実社会を遮断する役目を担うにはあまりにもお粗末に思えた。

 特に、並々ならぬ思いを抱える志保においては。

 波の音は、思考回路を麻痺させ、まるで海底に誘っているようだ。

 神話の世界で海の男たちが恐れる、海底に引きずり込む人魚の歌声のように。

 その人魚が母親だったら、どう抵抗できる・・?

 20メートルほど突き出た崖に辿り着き、その先に志保の後姿を認め、とりあえず、2人はほっとした。

 志保はまだそこに居る。柵に乗り出すように。

 静かに、静かに距離を縮める。

 波のBGMは力を増していく。

 人魚の歌声が聞こえる・・


「志保」

 川村氏の呼びかけに、橋本ははっとした。

 聞こえているのは、人魚の歌声じゃない。

 泣き声。

 泣いているのは、志保だった。


 呼びかけると同時に、川村氏は志保の隣に立った。そっと肩に手を回す。

「あそこに・・」

 志保は涙の合間に声を絞り出した。

 指差したのは、海面から突き出した荒々しい岩。

 周囲に点在するものとそれほど変わらず、波の高さで左右するが、最大でも1mほど海面から顔を出し、先端は人魚が腰をかけるには丁度良いかも知れない程度のスペースがある。勿論、座り心地は最悪だろうが。

 そんな変哲も無い岩だ。

「私が・・」


 志保には見えていた。

 特別なことじゃない。いつものように。


 そこに、別の時に人が居た事は滅多に無いので、鮮明に、鮮明に見える。

 今の物とそう変わらないその岩に、幼い自分が居た。先端の小さなスペースに、押し上げられて。

 泣き出し、ずり落ちそうになる度、気を取り直し、しっかりと岩を掴みなおす。それを、支えているのは、海水に半身以上浸かりながら、時には顔まで浸かりながら、片手で岩に掴まり、もう片手で、幼い娘を岩の上に押し上げている女性・・・あれは、記憶も定かでは無い、母親だった。

 挫けそうになる幼い娘を叱り、励まし、支えている。その母の姿は血まみれだった。


 そしてその人は・・崖の上を見上げた。

「志保・・きっとそこにいるわね?今は、幸せですか・・?ごめんなさい・・愛しているわ・・ずっとずっと、愛してるわ・・強くなってね・・幸せになってね・・信じているから・・ごめんね・・生きて・・!!」


 志保に過去の残像の言葉は聞こえない。もとより、この距離では波の音で声は届かないだろう。

 けれども、志保には唇が読める。

 確かに彼女の口元は、そう言っている・・

 志保の、記憶の深い所から、呼び覚まさせたように母の声の記憶が蘇ってきた。

 何度も何度も繰り返しているのか、志保自身が無意識にそこばかりくり返して見ているのか、あまりに泣き過ぎて解らなくなっていた。


 傍らの父に、母の姿を見せて上げられたら、どんなに良いだろう・・志保は、生まれて初めてそう思った。


 被さるように、崖の上から志保たち母娘を見つけた人のお陰で、駆けつけた地元の漁協の人たちにボートで救出される姿が見えた。

 父親に抱きかかえられるように、車まで戻った志保は、母の姿を何度も何度も繰り返しながら考えていた。

 後で聞かされた父の話と重ねてみると、母は、岩にしがみ付いたまま既に死んでいたのだろう。道連れにしようとした元凶である娘を助けながら、未来の娘に謝罪しながら・・

「飛び降りた時に・・」

 志保は、コレだけは父に伝えなくては・・と思っていた。

「母は、私を強く抱きしめたの・・岩に当たらないように・・波にさらわれないように・・母は、飛び降りた直後から、私を守ろうとしていたの」

 自らは強く全身を打ち、冷たい海水にさらされ、打ち身と切り傷で血まみれになりながら、それでも、娘を岩の上に掲げ続けた。

 自殺者の娘だけど、母に捨てられたれた訳じゃない。

 母に殺されそうになったけど、命懸けで救ってくれたのも、母だった・・


 水が怖かった・・海は尚更。

 その記憶の元はきっとコレだと思っていた。

 でもそれは恐怖と共に、最期の母との記憶でも有った。

「橋本さん・・」

 二人の会話を邪魔しないように、息を潜めていた橋本はバックミラーを覗いた。

 ミラー越しに橋本の目をしっかり見返した志保が居た。

「戻りましょう。ボートで、追えると思います」

 頷き、すぐにエンジンを回した。


 帰りは、行きにも増して無言だった。

 空気が重いわけでは無い。

 川村父娘はそれぞれの物思いに耽っているし、橋本はそれを壊したくなかった。


 途中のドライブスルーで、橋本はいつでも使えるように、ボートの手配をしておくように連絡を入れた。

「今から戻る、成果はあった」妻には短いメールを打った。

「彼女にとっても良い成果?だったら良かった。気を付けて。いつか差し障りの無い程度で良いので聞かせてね。」そう返信が来た。

「勿論」

 そう返し、何に対して勿論と捕らえるか・・と暫し考えたが、どちらにせよ問題ないだろう・・と判断した。事件が解決した後でなら。


 志保は、滝のように水が流れるオブジェの前に立っていた。

「疲れたろう」

 父親に差し出された甘い香りの漂うココアを手に取ると

「子供じゃないのよ」

 そう言って笑った。

 それは、志保が子供の頃好きだった飲み物だ。

「そうだったか?」

 父も笑い返す。

 同じく流れ落ちる水を見つめながら。


 二人の姿を目に留め、電話が終わった橋本が歩いて来る。

 それに、気がついた川村氏はココアに息を吹きかける娘の姿に目を戻した。

「今日、初めて・・」

 そこまで言って父は言い難そうに言葉を切った。

 志保が目を上げる。

「今日初めて、羨ましいと思った」

 次の言葉はそれだった。

 志保はきょとんと父を見返した。

「過去の姿を見られること。悪い事ばかりじゃなかったな」

 父がそう続けたので、志保はまじまじと父を見つめた。

 彼がどんなに力を封印したがっていたか知っているから。

「私にも見られたら・・と初めて羨ましく思ったよ・・」

 父は、飲みなさい・・とジェスチャーで示しながら、そう締め括った。

「もっと早く、そう言う方法を考え、生かしてやれば良かったのかもしれない」

 そう続けて言ったが、それは独り言のようだった。

 その最後のほうの言葉だけ、橋本の耳に入った。

 ココアのカップを握り締めたまま、志保は何とも言えない複雑な表情で、父を見ていた。

「早く飲みなさい。急いで帰らないと、事件が待っているんだろう?」

 川村氏は最初は娘に、最後の方は橋本を促すように言うと、先に車に向かって歩き始めた。


 

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