第2話 事件のはじまり

 そして、その日が来た。


 志保も、以前ほどの焦りも無く日々を過ごしていた。

 出来る事をした。

 とても簡単なこと。

 万引きを見かけたら、そっと店主に見たことを告げる。

 満員電車での痴漢を、時間をずらして乗り特定する。

 自分は警察ではないので、罰することは出来ない。

 ただ、誤った相手が罰せられそうになったりした時の手助けは出来る。

 力の使い方として、間違って居ないと思うことが出来るようになっていた。


 橋本と志保の連絡が途絶えてから半年程経っていた。

 恐ろしい事に、日本で一般人を巻き込む爆発テロが起きた。


 彼らの住む街からそう遠く無い大規模な公園の観覧車で起きた爆発だった。

 乗っていた人々は勿論、その周囲で休日を楽しんでいた家族連れをはじめとする多くが死傷した痛ましい事件だった。


 何度か、受話器を手に取り、置いた。

 橋本も、志保も。


 橋本は、志保の家の前まで行き、躊躇した。

 運び出される人々を見ても、痛ましさに目を背けたくなる現場で、志保は、何を見る?

 その直前までの幸せそうな人々。

 そしてその瞬間。

 そして、その後の嘆きも目撃するのだ。

 その残酷な仕事を、しろと言う勇気が橋本には無かった。


 けれども、その夜、志保から橋本に電話が入った。


「家まで来ましたね」

 志保にそう言われ、橋本は失態に気が付いた。

「そっか・・俺はあほだな」

 そういって自虐的に笑う橋本に、志保も笑い返した。

「行けますよ。いつでも」

 その声の強さに、橋本は唇を噛んだ。

「覚悟が居るよ・・」

「私は、橋本さんが思う以上に、日常の中で色々な物を見て来ています」

 受話器の向こうで、志保がちょっと笑ったような気がした。

「宜しくお願いします」

 橋本は。見えないのを承知で頭を下げた。


 志保は既に覚悟を決めて居り、直ぐに行動を起こした。


 現場の間近まで来て、躊躇したのは橋本の方だった。

 見事なイルミネーションが花火のようだった観覧車は、見る影も無い。

 ゴンドラは半分くらい吹き飛び、残りも変形したり元の華やかな色はまるで悪意に塗りつぶされたかのように消え去っている。

 今は関係者の数台しか車がないが、嘗て休日には満車になった壮大な敷地の駐車場に車を止めた。

 そこから、庭園、芝生広場を抜け遠くからも大きく見えていた、観覧車の残骸の根元に立つ。

 その姿を凝視し、志保は黙っていた。

 音や声までは蘇らないのは、幸いなのかもしれない・・と橋本は思った。


 数人の捜査員達が行き来する中、志保は巨大な現場の前に立つ。

 志保自身、声が聞こえない事を幸運に思った。

 運び出される人々を、早送りにして見送った。

 あまりにその時の衝撃が大きすぎて、思わず後ずさりしそうになる。

 被害が大きかった付近を、見失わないように、視線で追いかけて行く。

 何周も、何周も、そして・・


 志保の数歩隣に立ち、彼女の変化を心痛の思いで見守っていた橋本は、明らかに彼女の表情に変化が現れた事に気がついた。

 真剣に凝視し、覗き込む。視線が目まぐるしく動く。

 そして、後ずさり、蒼白な表情で、硬直したように動かなくなった。

 震えている。


 志保の目は、何かを仕掛け、振り向きこちらに向かってくる陰鬱な男を追っていた。

 その男は、暗い目をして無表情だが、瞬間口元に、にやりと陰湿な笑みを浮かべ、真っ直ぐ志保の方に向かって来ていた。

 向こうから見えないことが分かっていても、後ずさりしたくなるほどその表情は醜悪だった。


 次の瞬間、志保の腕を掴み、強引に引き寄せた。

 何だか解らないが、恐怖の場面に直面しているように思えたから。

 蒼白な志保の額に冷や汗が流れ、息を詰まらせたようなため息をついた。

「ありがとう・・」

 辛そうにそう声を絞り出し、ほっとしたように、肩で息をする。

「犯人を見た?」

 橋本の問いに、志保はこくりと頷く。


「後を追いましょう」

 志保はそう言ったが、橋本は躊躇した。

 志保がかなり動揺し疲れているように見えたから。

「いや、先に、モンタージュを作ろう」

 橋本はそう判断を下した。

 志保は意外そうな顔をしたが、主導権を奪おうとはしなかった。


 志保を伴い署に戻り作成したモンタージュを、重要参考人として方々に配った。

 志保の事は、当日付近で不審な男を見た目撃者と言う事にしてあった。

 署長と対面した時の複雑な表情に、橋本は苦笑いを浮かべたが、志保は何も言わなかった。


 モンタージュに該当する前科者は見つからず、捜査は行き詰っている中、橋本は久し振りに家に帰った。

 別のニュースが飛び込んできたからだ。

 こちらは嬉しいニュース。

 橋本の新妻咲子の懐妊。

 捜査と、前科ファイルの検証と署での泊り込みとで、ボロボロの橋本が家に戻ると、玄関先でドアを開けるなり妻の咲子はぽろぽろと泣き出した。

「心細かったんだから」

 そう言う妻に、橋本は、久し振りの安息を覚えた。

「ごめん・・」

 それから

「ありがとう」

 そういって咲子の顔を覗き込むと、咲子の表情は照れ臭そうな泣き笑いに変わった。

 とりあえずシャワーを浴びる橋本に、ドア越しにずっと話し続ける。

 母親に付き添ってもらい病院に言った事。

「後でお礼の電話を入れるよ」

 橋本は約束した。

 今は3ヶ月で、予定日は12/24クリスマスイヴであることを告げた時は何だか誇らしげだった。

「処女受胎?」

 そう言う橋本に、

「やだぁ」

 と楽しそうに笑った。

 咲子は、無邪気だ。

 彼女の無邪気さが、橋本は好きだ。

 現実は悲惨な事だらけで、目を背けたくなる。

 でも目を背けられない職業柄、家に自分を待っているのが咲子のような無邪気な女である事が救いだ。

 家を空ける事が多いのが心配の種だが、幸い咲子の両親が駅二つ離れた沿線の街に済んで居るので、お互い良く行き来しているようなので、その点も助かっている。


 話しながらも、橋本がシャワーを浴び、身支度を整えている間に簡単な食事を用意してくれていた。

 おっとりしていながら、手際が良いのは、甘やかしているようで、しっかりと手を掛けて育て上げた両親のお陰だろう。

 時間の無い橋本には助かる。

 野菜がたっぷり入った中華丼だった。

 以前、ヤングコーンが好きだと言ったことから、必ず大量のヤングコーンが入って居る。

 中華料理というにはあまりに日本人になじんだメニューだが、咲子は立派な中華鍋と北京鍋を嫁入り道具に持ってきていて、結婚したての頃「中華料理も任せて」と笑った。

 食事をしながら、今後の予定・・次はいつ病院に行き、ママと赤ちゃん用品の下見に銀座に出かける・・等の話をしている時、橋本の電話が鳴った。

 署からだった。

「折角の逢瀬の所申し訳ないですけど、直ぐ署にもどって下さい」

 ジョークを交えていながら、電話の向こうの中丸の声は緊迫している。周囲のざわつきも聞こえる。

「何か進展が?」

「犯行声明が届きました!」

 その返事に橋本は無言で立ち上がった。

 こう言う時、咲子は四の五の言わない。つくづく刑事の妻向きの女だと思うが、急いで一緒に立ち上がり、橋本の上着に手を伸ばす。


「残してごめん。久し振りの美味しい食事だった。身体を大事にして。お母さんに宜しく」

 支度をしながら、言葉を並べる橋本の動きに合わせて身支度を手伝いながら、咲子はうんうんと頷く。

「気をつけてね」

 最後にそういって抱きついてから、笑顔で送り出した。

 それを受けながらドアを出ると直ぐに志保に連絡を入れた。

 捜査に巻き込んだ以上、報告する義務がある。

 詳しい事が分からない状況なので、聞いた事実のみ伝え、追って連絡を入れると言うと、

「私・・あの男を追って良いですか・・」

 志保は質問と言うより、報告のようにそう言った。

「・・またあの場面に出くわすのでは?」

「もう大丈夫です。少しでも早く犯人に行きつかないと」

 志保の覚悟の強さは、橋本にも良く分かっていた。言っている事も事実だ。

 でも・・

「危険だと感じたら、無理しないで。近づき過ぎないで、連絡してください」

 それしか言えなかった。彼女が頼みの綱なのは事実だから。

「わかってます」

 そう言って、志保から電話を切った。

 どちらにしても、そうするつもりだったのだ。


 クローゼットの前に立つと、淡い水色に白い小花が散ったTシャツに、白いカーディガンを羽織った。

 男がどう動くか解らないので、自転車で行く。勿論今回も動きやすさ重視だ。


 観覧車は、相変わらず事件後のままの場違いな遺跡のような姿で、そこに存在していた。

 一度深呼吸してから、今回は犯人の動線上では無く横から見られる位置に立った。

 どこかですれ違っても見逃さないように、男の顔を眺めながら後を追う。

 顔の長い頬のこけた男。

 髪はストレートで、ぼさぼさに伸びている。服装は、とても地味だ。どこかの作業服のようで、色はベージュ。でも、会社名のような物は入って居ない。


 そして男は、何と、バスに乗った。町を南北に横切るバス。

 車ならナンバーから何かが解る・・と思っていたのに、意外だった。

 勿論車の残像を自転車で追うのはきつかっただろうが、その覚悟で居たのだ。

 躊躇し、自転車は置いて同じ行き先のバスを待った。


 志保からメールが届いた。

 犯人の足取りの第一歩。犯行後、バスに乗って移動している。

 コレはどうしてだ・・?

 単独犯だから・・・?土地勘が無いから・・?

 橋本には志保に賭けて見守るしか出来ない。

 署内は大変な騒ぎになっていた。

 本庁の人間が沢山流れてきて対策本部を作っている。


 犯人からの犯行声明は、とてもシンプルな物だった。

 どこかの商品なのだろう、都内観光マップが大判のハンカチにプリントされた物。

 そこに、例の観覧車の場所に1の数字と爆破した日付がマジックのようなもので書き込まれ、都内有数の人気スポット、ホテルとショッピング施設とTV局も含むオフィスが一緒になった駅に2の数字が入れられている。

 それから、今建設中の新スポット、東京のシンボルとなる予定の巨大な塔が有るべき空欄に3の数字が。


 対策本部を設けながらも、意見は真っ二つに別れていた。

 連続爆破テロ事件と悪戯と。

 ただ、悠長にその議論をしている暇は無い。

 もし都心にあの規模の爆弾が仕掛けられたら被害は前回の比じゃない。

 何より、犯行日時が記されていないのが厄介だ。全て無人にしてしまうのは不可能な程度に、あの街は東京という文化の核の一つなのだ。


 不確かながら志保の証言で作ったモンタージュが配られ、捜査員たちは街に散らばった。

 もっぱらの捜査は本庁に任され、橋本たちは観覧車の調査の案内などがあてがわれた。


 勿論、主導権が奪われたのは面白くは無いが、何かとんでもない大きな事件になりつつある予感で、特に署長など、言われるがままだった。


「面白くないですよね・・」

 中丸は膨大な資料を眺めながら愚痴る。

「事件が面白い訳無いだろうに・・」

 橋本はそう思ったが口には出さない。言いたい事がそう言うことでは無いことは解っていたので、控えたのだ。

「こうなったら、橋本、隠し玉しかない!」

 そう鴨居に言われ、中丸も力強く頷いた。

 そう言って二人で視線を向けてくる意図が解らず、橋本はただきょとんと2人を見返した。

「しらばっくれるなよ!お前の隠し玉だ!」

 鴨居にどんと肩をたたかれたが、それでも何と反応して良いか解らずに居ると、

「最近捜査の影に必ず居る女性が居るだろ?別に良いですよ、どんな情報屋使っても、結果が出ているんだから。で、誰なんだ?」

 鴨居の言葉に頷きながら中丸がずいと乗り出してきた。

「いや・・彼女は・・」

 言いかけると、

「やっぱり女なんだ!」

 と2人はやたら嬉しそうに声を合わせた。


 その時携帯が鳴ったのを救いに橋本は二人から離れた。

「ごめんなさい・・見失いました」

 志保だった。

「見失う?君が?」

 志保の能力を知った今となっては、信じられない言葉だった。

「バスに乗って、あの男が降りたバス停で降りたけど・・それが新川沿いの土手で、土手から川側に降りられて、そこに、ボートが泊めて有って・・」

 志保はそこで声を震わせた。

「そうか・・ボートじゃ追えないか・・直ぐに行くからそこで待っていてくれ」

「いいけど・・」

 そう応えた志保の声は、あまり良さそうではなかったのだが、橋本は気が付かなかった。

 廊下の向こうから顔を出した署長に指で呼ばれたので、気持ちが逸れたまま電話を切ったのだ。

「手段は選ばん。お前とお前の情報屋だけが頼りだ。何とか、本庁が見つける前に観覧車爆破の犯人をあげろ」

 最後の方は聞き流しながら橋本は署を後にした。

 とりあえず、志保に聞いたバス停に車で向かう。


 バス停で、志保はポツンと立っていた。いつもより、何だかぼんやりした印象だった。


 車を止めて橋本が近づくと、気が付いて、手を土手の方に向けた。

 橋本は駆け上がり、周囲を見渡す。

 土手を下ると、川原に小さなスペースが有り、犬を散歩させる人や遊んでいる子供達が居た。

 そのスペースを区切るように、川沿いに大きな石が積まれて壁になっている。勿論大人が乗り越えるのは容易だが。

「ボートはどの辺に?」

 何故か後ろの方で座り込んでいる志保に、少々大きな声で呼びかけた。

 志保は黙って子供達が遊んでいるほうを指差す。

 コレといった形跡は無い。

「おじさん、ここに有ったボートを探しているの?」

 子供達が聞いてきた。

 小学生4、5年だろうか。5人の男の子がサッカーボールを蹴るのを止め近づいてくる。

 さっきの志保への呼びかけが聞こえていたのだろう。

「ボート、見たのか?」

 聞き返すと、5人は「やっぱり」と言う風にお互いの顔を見合わせ、大きく頷いた。

「この1ヶ月くらい、時々泊まっていたんだよね」

 1人が言い、全員が頷く。

「俺たち、大抵毎日ここでサッカーの練習しているけど、前はそんな事無かったから、最初、捨てられて居るのかと思ったんだ」

「でも、有る時と無い時が有るから、使っているんだな~って」

「どこかの釣りオヤジが、違法にここに泊めて居るんじゃないかって言っていたんだよね」

「最後に見たのはいつ?」

「多分、日曜日」

「二週間前の」

「朝、サッカーの練習試合に行く途中に稔と陽二がここ通ったら有ったんだよね?」

 爆破事件のあった当日だ。

「何時くらい?」

「朝6:20位」

「早いんだね」

「集合が駅に6:40だったから」

「その前の日は?」

「夕方練習している時には無かった」

「18:00くらい。いつもより早く終わったんだよね。試合前だから」

 18:00から翌6:20の間に、犯人はボートでここに来たと言う事になる。

「ボートのエンジン音を誰か聞いているかな・・」

 つぶやくと、

「この辺さ、あっちに釣り船屋さんが有るからいつもボートの音しているんだよ」

「武流(たける)の家だけどね」

「家のはこんな所泊めないし、あの型のは使ってないよ」

「武流君は、ボートに詳しい?」

「フィッシングボートはね。あれはY○―21だったと思う」

 慌ててメモに書き加えた。

「でね」

「ここは泊めちゃいけない場所でしょ?」

 少年たちは確認するように言ってから

「だから、「駐車禁止」のシール、貼り付けてやった!」

 そう言って得意そうに笑った。

 櫨本もつられて苦笑いしながら、もう一度ボートが有ったらしき場所を見、志保の居た方に振り返った。


「気分でも悪い?」

 そう言いながら橋本が戻って来たのは、20分位してからだった。

 志保は既にバス停の道に戻ってきていた。

「ここを、過去に何度も往復しているのが見えたわ・・」

 志保はそう応えた。

「そうらしい。子供たちから色々聞けたよ。今度ボートを目撃したら、直ぐに連絡をくれるように頼んだし」

「良かった」

 志保は力なく笑った。

「気分、悪そうだね」

 橋本は、急に気になりだした。

 いつからだろう。志保の調子がおかしいのは。

「寒いんじゃ?」

 橋本は上着を脱ぎ、志保の肩に掛けた。

 否定せず、志保は橋本の上着の中に納まった。

「家まで車で送ろう」

「観覧車の所に、自転車が・・」

「良いよ。自転車拾って家まで送る」

 橋本は志保を促した。


「水の側は、色々な物が見えるから・・」

 志保がやっとそう理由らしき物を口にしたのは、志保の家の前で自転車を下ろしている時だった。

「ああ・・そっか・・」

 確かに、古いあの川は、昔は良く氾濫したと聞いていた橋本は、その説明で納得した。

 だから、土手に下りるのも辛かったのだ。

「今日はゆっくり休んで。後は、あの辺の聞き込みと、ボートの特定。警察の仕事だ」

 志保は幾分落ち着いたようで、上着を綺麗に整え

「ありがとう」

 と橋本に渡した。


 捜査官たちには、モンタージュに加え、武流少年から教わった全長:6.45mのフィッシングボートの写真も渡された。

 けれども、捜査に進展は無かった。

 あの土手の付近であの時間ボートの音を聞いたかも・・と言う住人は居たが、いつもの事なので気に止めてはいなかった。

 余程慎重に動いていたのか、犯人らしき男のコレといった目撃証言も無かった。


 だが、別の事柄の目撃者が居た。橋本にとっては事件以上に面倒な事になりそうな。

 よくよく考えれば思い当たったのだが、あの土手は咲子の実家からそう離れて居なかった。

 そして、咲子の母親はミニチュアダックスフンドを多頭飼いしていた。

 そう、あの日川原で、橋本の義母は、咲子が嫁いだ後我が子のように可愛がっている愛犬を散歩させていたのだ。

 そして見たままの事を咲子に伝えた。

 勿論、自分の受け取った印象に基づいて。


 そう言うわけで、次に橋本が志保に連絡をしてきたのは、事件とは全く異なる個人的要望で、だった。

「・・そう言うわけで、咲子が君を食事に招待したいと言っているんだ」

「食事・・御自宅で?」

「ああ。手料理で。多分・・義理の両親も同席するかも・・まぁ、彼らはともかく、咲子にはそう言う訳で、君の力のことを話した。信じているかどうかは謎だけど、色々話すのには、家の方が良いだろ?それに咲子は今妊娠中だから家の方が落ち着くし・・」

「・・橋本さん、私の力知っているでしょ?」

「ああ?」

「人の家には極力行かない事にしています。リラックスして、人には見せたくない姿がそこには有るでしょ?」

 志保の言葉に、橋本の脳裏にあれやこれやと映像が浮かんだ。

「や、やめよう!どこかの店にしよう。悪いけど・・詳しく決まったら連絡するから」

 橋本はまた、志保の力を理解しきっていない自分を思い知った。

 彼女は努力してシャットアウトしない限り様々な情景が見えてしまうのだ。何て危険なんだ。リビングにすら通せやしない。

 橋本は、そのままを咲子に伝えた。

 咲子は目をまん丸にして、暫く考えた末、

「それは確かに・・外が良いわねぇ」

 半信半疑ながら、そう応えた。ちょっと頬が赤らんでいた。


 結局、個室が有ると言うことで、都心のこじんまりした和食のお店を咲子の両親が取ってくれた。

 彼女たちのお気に入りのお店らしい。


 一見は普通の古い和食屋だが、奥に通路が伸び、その先の中庭をぐるりと囲むように個室が備えられていて、知る人ぞ知る老舗だった。

 丸い縁側なので、余所見をしていたら自分の部屋が解らなくなってしまいそうだ。

 その一室で橋本は、咲子とその両親と針の筵のような時間を過ごしていた。

「兎に角、咲子が納得できるようにしてくださいね。とりあえず、私たちは一旦席を外しますから」

 問題を大きくしている当の本人の咲子の母親は、厳しい顔で橋本を睨みつけ、約束の時間の30分ほど前に退室して行った。

 佳境に参戦しに戻ってくる腹積もりらしい。

 勿論、簡単に受け入れられる話ではないことは理解していたが、橋本の説明は、彼らの怒りに油を注いだようだった。

 橋本を信じたい気持ちの咲子にも悪影響を与えている事は確かだった。

「気分が悪かったら言って」

「大丈夫です」

 にべも無い返事だった。


 それから20分後、店員の案内も必要ない足取りで志保はやってきた。

「失礼します」

 そう言って障子戸を開けたのも志保だ。

 今日は珍しくメイクをし、ベージュのワンピースにジャケットを羽織っている。年相応の落ち着いた装いだった。

「はじめまして。川村志保と言います」

 志保はそう言って微笑んだ。

 咲子は、ぺこりと軽く頭を下げた。

「素敵なお店ですね」

 そう言いながら、先程咲子の両親が座っていた所に目を向け、橋本に疑問系の視線を投げかけた。

「席を外している。後で合流するって」

「ああ・・2軒隣のカフェに入るところを見かけました」

 納得したように志保は応えた。

「それって、何なんですか?」

 咲子は思い切って訪ねた。

「どう聞いていますか?」

「残像が見える?」

 女二人の牽制し合った会話は、橋本には恐ろしく思えた。口を挟んじゃいけない。

「そのままなんです。他に説明のしようが無くて」

「でも、どんな風に?」

「常に、目の前で現実の映像と、1秒前、2秒前・・と一緒に見えているの。でも、今の映像が一番はっきりしている。古ければ古いほど薄れているけど、無いわけじゃない。気が遠くなるほど沢山の物が見えるの。特にこんな古いお店は・・このお店は・・御両親のお気に入りのお店じゃない?特にこの部屋。何度も来ているでしょ?2日前にも御夫婦でお食事されているみたい。とても美味しそうね」

 そこに、最初の料理が運ばれてきた。

「両親は二日前にもここで食事を?」

 咲子が聞くと、仲居は、頷いた。

「今日の御予約にいらして、このお部屋でお食事されました」

 咲子は無表情になった。いつも明るい咲子のそんな表情は初めてだった。

「残像よりもおいしそう♪」

 場を盛り上げるかのように今日の志保は明るい。

「お母様はコレが好き?お父様の分も食べている」

 何かの貝の佃煮の様なものを口に運びながら志保が言う。

「父は貝が苦手なの」

 咲子が応えると、

「どうりで」

 と志保は笑った.。

「そんなものが常に見えていたら、どうやって生活出来るのですか」

 咲子の声に棘がある。

「凄く集中すれば、映像を見ないで居る事はできる。疲れるから常には無理だけど。古い映像でも意識を集中すれば鮮明に見ることも出来る。慣れだけど」

「おかしくなってしまいそう」

「咲子!」

 咲子の言葉に橋本は思わず叫んだが、志保が止めた。

「おかしくなるほうが、簡単よ。でも私はならない。なるわけにはいかないから」

 志保は冷静にそう答えた。

 自分の発言が恥ずかしくなったのか、咲子は頬を赤らめてうつむいた。

「咲子さんは、もし生まれてきた我が子がそうだったら・・どうしますか?もし自分がそうだったら、お母様はどうしたと思いますか?」

 咲子は自分のまだ小さなおなかを静かにさすった。怯えだったのかも知れない。

 暫く部屋は静まりかえり、その隙を見てか、次の料理が運ばれてきた。

「本当に、素敵なお店・・」

 志保がつぶやいた。

「咲子さん、どんな子供でも、親は受け入れてくれるものだと思います。受け入れ、一緒に悩んだり、道を探したり・・それが親でしょ?おかしくなるとしたら・・受け入れられない親の方・・」

 志保は、箸をおいて静かに笑った。

「橋本さんは、咲子さんにとって大切な旦那様、それは解って居ます。でも、私にとっても必要な人なの。変な意味じゃなくて、この力と共に生きて行く為に、世界を広げてくれた、かけがいの無い人なの。咲子さんには面白く無いかも知れませんけど、あなた以上に私は彼の存在を必要としている」

 咲子だけじゃなく、橋本も顔が引き攣るのを感じた。

「でも、恋愛感情や、セクシャルな関係は一切ありません」

 再び部屋に静寂が訪れ、それと共に入って来たのは、仲居を押しのけた咲子の両親だった。

 彼らは黙って先程の席に着いた。

 志保がぺこりと頭を下げると、黙ってそれ応じた。


「一升餅って言うのでしょ?大きなお餅を背負った咲子さん」

 不意に志保が床の間の方を見詰めながら話し出した。

「皆に囃され、重くて泣きながらそこまで這って行って、ちょこんと座ってこっち側の大人たちを涙目で見つめているの」

 両親の目に驚きの色が走った。

「床の間に座る人は少ないから、この部屋に入った時から、ずっと見えていたわ。とても可愛らしい・・美しい子供。それがこのお店を利用した最初ですよね?」

「そうだ」

 父親が答えた。

「きっとこの子に似た可愛い子供が生まれるでしょうね・・」

 志保はそう言って微笑んだ。


 結局、この会合が何だったのか解らない。

「浮気より厄介だわ・・」

 咲子はそう呟いて、お腹をさすった。

「咲子、痛いの?」

 母親が心配して訪ねると、咲子は横に首を振った。

「相談しているの。この子と。」

 そう答えた。

「彼女の御両親は?」

 母親が咲子のお腹に手を重ねながら聞いた。

「母親は知りません。父親は、目立たず静かに生きて行けと・・」

「そう・・」

「俺でもそう言うかもな・・」

 父親が言った。

「咲子はイヤかも知れないけれど」

 母親は手を当てたままだ。

「あの人と友だちになるのが、一番良いと思うわ、母さんは」

「そうだな、知ってしまった以上・・と言うか、認めてしまった以上、拒否するより受け入れた方が良い・・橋本君の仕事の上でも」

 父親に目を向けられ、曖昧に笑った。

「彼女のお母さんの事が気に掛かるの」

 咲子にそう言われ、それがこの問題の最終試験のように思えた。


 実際の事件の方は、相変わらず進展が無く、唯一の成果は、予告現場NO.2に比較的近い運河の中の小島に、4日前写真に似たボートが有った・・と言う目撃証言が有った事だ。

 現場に急行したが、既にボートの姿は無く、勿論、同種の物か解らない。

 暫くその周辺の警備は厚くなりそうだったが、その後何の成果も現れていなかった。

 そして、やはり志保に頼ることになった。

 本当に、そこにボートが有ったのか、同種の物なのか見て貰う事にする。

 遠方なので、車で迎えに行った。

 が、出てきたのは、無愛想な父親の方だった。

「あの子を、海に連れて行くのか」

 父親の表情はいつも読み取りにくいが、少なくとも今日も不機嫌なのは解った。

「海ではなくて、運河で・・」

「同じ事だ!」

 父親はぴしゃりと言った。

 確かに、水の側はいろいろな物が見えるから辛いと志保は言っていたっけ。

「あの子は気分が悪い」

「来られないのですか?」

「いや、行くだろう、乗りかかった船だ。・・コレは言葉のあやだが・・あの子は、海が怖いんだ。四角いプール位なら大丈夫だが、海や、大きな川や、波の有るプールなんかも・・」

 父親は忌々しそうに早口で言った。

「あの子を利用するつもりなら、その辺の事を心得て置け」

 そう言い捨てられた所に、志保は現れた。

「あら、父さん、仕事はまだいいの?」

 今日の志保はやはりいつもと同じ、動きやすさ重視のTシャツにカーディガン、ジーンズにスニーカーだった。

「行ける?」

 橋本が聞くと、

「勿論」

 志保は当然と言う感じで答えた。


 それでも、小島に渡る手漕ぎボートに乗る時、志保の足はすくんだ。

 背中に冷たい汗が流れる。

 船に酔うとかじゃない。この絶望的な気持ち・・でも、ちゃんとした目的が有る。

 志保はその小島を凝視した。

 そして見つけた。

「寄って」

 志保に指差された方に船を寄せる。こぎ手として同乗した中丸が期待に胸を膨らませているのが解る。

「Y○21・・」

 続けて数字を読み上げた。

 船にその文字を見たのだ。

 橋本が素早くメモを取る。中丸は目を見張っている。

「他に特徴は?」

 志保は注意深く周囲を見る。

 反対側にも廻って。そして目を留めた。

「・・駐車禁止?」

「え」

「駐車禁止のステッカーが・・」

 困惑したように志保は言ったが、橋本は確信していた。

「あの土手に泊まって居たボートに間違いない。子供達が、船体に貼ったと言っていた。中丸、署に連絡」

「は、はい」

 中丸はキツネにつままれたようだ。


 報告を受け、対策本部には緊張が走った。

 これで、犯行予告の真実味が増したからだ。

 前回は犯行までの準備期間が1ヶ月弱と思われている。

 同じくらいの期間を想定していつがXデーかの論議も行われた。

 前回休日で賑わう公園を狙った以上、今回も人が集まる日を狙うとも考えられた。

 兎に角、ショールーム、美術館、映画館、各種イベントがひっきりなしに行われている場所なのだ。


 プリントアウトされた膨大な数のイベントの一覧表を眺めながら、志保が目を留めた。

「これ・・」

 そこには『子供の歌』ジャパンプレミアと書かれている。

「私も参加するの」

 志保はそう言った。

「何コレ?」

「映画の試写会よ。数年前に有った某国の内戦を扱った。宗教観と絡めてあるので、上映をボイコットする国も出たと聞いているわ。このプレミアには、監督兼主演のチャーリー・モートンと、その国の大使の舞台挨拶が有るのよ」

 橋本も、チャーリー・モートンの名前は知っていた。50代のハンサムな社会派俳優。

「大使も来るのか・・」

 要注意のイベントの一つかも知れない。

「そう言うのに興味が有る?」

 橋本は意外に思ったが、

「映画の中に、残像は無いのよ」

 の答えはひどく納得できるものだった。

「映画館には有るんだけどね。そこが難点」

 志保はそう言って笑った。

「この映画には内戦の被害者の生き残りである子供達が実際出ていて、彼らが実際に歌っているの。このイベントにも来てくれて、ナマで歌ってくれるそうよ」

 志保は、とても楽しみだ・・と笑った。

 そして、サントラを貸してくれた。

 そこに入って居た歌声は、気が滅入るほど素朴で美しく、訳された歌詞は苦しくなるほど真摯で切ないものだった。


 ・・・


 たった今

 助けを求めて居る人のところへ飛んで行こう

 暗闇で 忍び寄る影に怯えている人にも

 怯えさせて居る人の 心の闇にも

 その翼で 光を運ぶ


 迫り来る

 命の終わりに怯える人の所にも飛んで行こう

 抗えぬ 終わりの運命は変えられないけれど

 穏やかな最期を迎えられるよう

 その翼で 命を包む


 本当に 翼を持って居るのは誰かじゃ無くて

 愛する人を守ろうとしている 傍らの貴方


 助けてくれるのは

 天から差し伸べられる手ではなく

 今 すぐ隣に居る その人の手


 きっとその背に 天使の翼


 貴方の背にも 天使の翼


 ・・・


 救いが来ると信じ、祈り、誰にも救われずに殺されて行った沢山の子供たち。

 警察官と言う仕事についている以上、正義感が少なくは無い橋本には、この映画を見る自信が無かった。

 そして、志保が産まれたのが現代の日本で、本当に良かったと思ったのだ。


 ここに来て、警察は施設側に協力を要請し、延ばせるイベントは延ばし、場所を変更出来る物はして貰った。

 だが、殆どの返事はNOだった。

「コレは単なる営業妨害だ」

 と言う意見も頂いた。

 しかし、例のボートが再び目撃され、しかも、今回は停泊せずに、男を降ろすと走り去った為、犯行が複数犯であり、着々と準備は進み、そしてこちらの捜査の裏をかいて居る事が解った。

 戻って来た男を捕らえようと捜査官が待ち構える中、他の場所の監視カメラに男を拾う例のボートが写っていたのだ。

 男は帽子やめがねで変装をしているが確かにモンタージュの男に似ていた。


 橋本と志保は、降りた場所、乗った場所に訪れた。

 志保は凝視する。

 そして何かを真剣に考えていた。

「もしかすると・・」

「何?」

「私は、過去の声は聞こえないのは言いましたよね?」

 橋本は頷く。

「だから、読唇術を勉強しているんです」

「読唇術?」

 頭の中で漢字を当てはめて見て、

「ああ・・」

 と納得した。

「でも、彼らの会話の唇の動きは、何だか違って・・でも見たことが有るように思って・・」

 志保は、橋本に眼を向けた。

〈どうだった?〉

 英語ではない、不思議な言葉を話した。

 どこかで聞いた事が有るような・・

「これ、『子供の歌』の劇場予告編で秘密基地と称している瓦礫に隠れる子供たちが、偵察から戻って来た兄に掛けた言葉。字幕では「どうだった?」だけど、本当は「どうだった?兄弟」と言っているそうです」

「へぇ・・」

「あのボートの男の唇の動きが、似ているんです」

「ボートの男・・顔は見える?」

「良くは・・暗くて・・」

 そう言い掛け、志保は頭を横に振った。

「違う・・暗いんじゃない、黒いんです!」

 志保は川の渕に立ち凝視した。落ちてしまうのではないかと、橋本は、思わず駆け寄った。

 志保は震えている。

「下を見ないようにしているの。でも怖くて・・支えていてくれませんか」

 そう言った。

 橋本は、志保の腰をしっかり支えて踏ん張った。周囲の人が見たら、何とも滑稽だろう。

「解りました」

 志保がそう言って力を抜いたので、橋本は引き戻した。

「モンタージュ、作れます」


「凄すぎますよね。橋本さんの隠し玉」

 中丸はモンタージュを受け取りながらぽそりと言った。

 橋本以外に、唯一志保が視るのを目撃したから。

「隠すの解ります。信じられないですよね。話せない・・でも凄いですよ」

 中丸は、自分の理性と葛藤しているようだった。


 現代の日本には沢山の外国人が居る。

 アジア系が多いが、白人、アフリカ系も勿論。

 そして、犯行予告の地は、その日本に置いても最も外国人が多いのではないかと思われる地だ。

 新たなモンタージュが配られ、警察は一気にテロ事件と言う見方を強めた。


 標的になっている可能性が強い映画の配給会社は、それでも中止の判断を下さなかった。

 この来日イベントの注目度で、映画の興行成績が大きく変わってくるのだろう。しかも今回のイベントは孤児となった子供たちを救う為のチャリティも兼ねている。

 強制的に中止を勧告するほどの証拠が、警察側にも揃っていなかった。


「橋本、何とかならないのか」

 署長がこそっと呟いた。

 対策本部が、第2の犯行予告の署に移り、橋本たちの署は支部となり、それでも本庁の人間が常に居る。

 担当の事件を追った末・・とは言え、次々と手掛かりを見つける所轄刑事の活躍は、本署としても先方の署としても面白くは無い。常に目が光っている状態だ。

「彼女に、船を追って貰っては?」

 中丸もあれこれ愚作を考えて来ては披露する。

 橋本ほど志保の能力の概要を知らないので、相手をスーパーマンか何かと勘違いしているのでは・・?と思うような案もあったが、船を追う・・と言うのは、橋本も考えた事がある。

 ただ、水辺は、志保の鬼門だ。

 どの程度の追跡になるか解らないのに、志保を駆り出すことは憚られた。

 そんな時、目撃情報が寄せられた。

 その場所は、第2の犯行予告の場所とは程遠い下町、第3の犯行予告の場所付近。

 東京の新象徴、新タワーの建築現場付近だった。

 署内に緊張が走った。


 既に爆弾は仕掛けられ、いつでもスイッチを押せる状態なのではないか。

 そうなると、ヘタに犯人を刺激するわけにはいかない。

 爆弾発見をイベント会場中心に進められたが、直ぐには成果は現れなかった。


 橋本は、志保を連れて新タワー付近の目撃現場を訪れた。

「間違いないと思います」

 志保は付近を行き来しながらそう言った。

 そして、そのまま歩き出す。

 後を追っているのだろう。橋本も黙って後に続く。


 第2の犯行予告地が現代文化を発信する現代の東京を象徴する観光地だとすれば、第3の予告地は、古き良き日本文化を守る東京最大の観光地だ。

 外国人が多いことを言えば、ここも負けては居ない。

 日本に根付いた外国人ではなく、観光客としての外国人。


 どこかに潜んで居るのでは・・と最初は目を凝らした橋本だが、すぐに諦めた。

 そんな事をしていては志保にはぐれてしまう。

 こちらには追跡機能は付いていないのだから・・と考え苦笑する。まるでターミネーターだ。

 彼女の力を過信する中丸の事を笑えない。


 人ごみを抜け、彼女が足を止めたのは、大きな橋の手前だった。

 見ると、困惑した訳でも、見失った訳でも無く、彼女は、怯えていた。

 大きな橋の下は、何艘もの観光遊覧船が行き来する大きな運河だった。

「すみません・・ちょっと疲れて・・」

 そう言い訳する志保に、

「うん」

 橋本はそう応えた。無理強いは出来ないのだ。彼女は民間人だし。人ごみで消耗するのは事実だろうし。

 大量の車と人が行き来する橋の手前で、橋に背を向け青ざめる志保と、橋本は暫く黙って立っていた。

「やっぱり、ボートを追うなんて無理だろうな・・」

 思わず呟いた橋本に、

「ボートで追う・・?」

 志保は顔を上げた。

「いや・・中丸が言い出してね。良いんだ、あいつはいま一つ理解していないから・・」

 言い訳する橋本に、志保は頭を横に振り

「私も考えました」

 ぽつりとそう言った。

「もし、今度の実行犯が別の人間に代わったら、私には追えない。だったら、本拠地を突き止めて、そこから出てくる人間を追った方が良いんじゃないかって。・・地上だったら」

 最後に志保が付け足したので、橋本は二度頷いた。

 志保は辛そうに運河に顔を向け、硬く目を閉じた。

「橋本さん」

 そのまま志保が橋本を呼ぶ。

「はい」

「連れて行って欲しい所が有るんですけど・・」

 まるで棒読みの台詞のように、志保は言った。女優にはなれないな・・と場違いな事を感じながら、橋本は頷く。

「事件に関係が有る所?」

 橋本の問いに首を横に振る。

「関係無いですけど・・私に関係の有るところ」

 そう言ってから

「遠いので・・必要であれば奥様の許可を貰ってください」

 そう付け加えた。


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