残像

月島

第1話 出会い


 駅前の本屋から出てきて、店の前の駐輪所に止めた自転車に乗ろうとした志保は、細く溜息をついた。

 籠の中に投げ込まれた飲み残しのコーヒーが、独特の甘く香ばしい香りを漂わせながら滴り落ちている。顔を顰めたまま、既に軽くなったそれを拾い上げた。匂いの元を取り除いても尚、その匂いは辺り一面に染みついている。

 茶色い匂いの染み・・


 バッグから出したウェットティッシュでキレイに拭いながら、こういう行為をするのがいい年の大人であることに、沈痛の思いで、もう一度溜息を付いた。


「橋本!」

 いつにも増して不機嫌そうな署長に名前を呼ばれ、書類に目を走らせていた平刑事の橋本は顔を上げた。彼は人差し指を何度も動かし、こっちに来いと呼んでいる。

 別に、怒られるような不始末も、誉められるような手柄を立てた覚えはない。肩を竦めて、橋本は立ち上がった。

「何でしょう?」

 慎重に問いかけると、署長は黙って橋本の前に空き缶を置いた。

「?」

「私の自転車の籠に入っていた」

「は?」

 橋本はぽかんとした顔で署長を見返した。

「何者かが私の自転車の籠をごみ箱代わりにしたのだ!」

 署長は憤慨している。

「署長が・・自転車に?」

 橋本は、別のことに驚いていた。そのことに気が付いた署長は、ゴホン!と咳払いをした。

「休日には、健康のために自転車に乗って居るんだ!」

「籠付の?」

 尚も驚きの顔で橋本が聞き返すと、署長の顔は益々顰めっ面になった。

「良いか?お前はまだ新婚だから分からないだろうが、女は何十年も連れ添っていると図太くなる。私だってスポーツサイクルで颯爽と走りたい。だが、女房は必ず言うんだ。帰りに牛乳を買ってきて、だのティッシュペーパーが切れそうだ、だの」

 そう一気に言い切ると、大きく溜息を付いた。

「お前も、最初が肝心だぞ?」

 署長は、厳つい顔にちょっと哀愁を漂わせてそう言った。

「はぁ・・そう言う物ですか」

 こみ上げる苦笑を必死で押さえながら、橋本は答えた。スポーツサイクルにしろ、膨れたお腹の署長に似合うとは思えない。

「兎に角!」

 俄に本題を思いだしたらしく、声を上げた。

「これが、何度捨てても、私の自転車の籠に入っている。本当に腹立たしい。最初は単なる偶然かと思ったが、こう度重なると、私に対する嫌がらせとしか思えん。そこで、犯人探しを内々でやって貰いたい」

「内々で・・ですか?」

「うむ。私に恨みを持つ物が外部の人間とは限らないからな。こういう立場だと、色んな者から逆恨みを買う。その点、君はそう言う感情とは程遠いタイプだ。信用してるぞ!」

 署長の誉め言葉とは思えない言葉と共に肩が抜けるかと思うくらいに叩かれ、橋本は曖昧に頷いた。


 履き慣れたスポーツブランドのスニーカーで、いつもの道を颯爽と歩いていた志保は、反対側から歩いてくる若い男にふと目を留めた。

 くたびれた濃いグレーのスーツ。けれど足下は履き込んだ白いスニーカー。シャツもネクタイもくたくた。普通の会社員では無さそうだ。そして、手には見慣れたコーヒーの空き缶。

 志保の口許に笑みが浮かんだ。この青年が誰の使いであれ、こちらの働きかけに相手が気が付いた証拠だ。かなり鈍い相手のようで、時間は掛かったけど。

 けれど志保の気を引いたのは、その事だけではなかった。この男の全身に流れる雰囲気というか、オーラのような物。それは相手に警戒心を湧き起こさせない、独特の物だ。

 志保は、正面を見つめる振りをしながら彼を盗み見た。身なりに気を使っているとは言えないが、整った顔をしている。ハンサムと言うより、人の良さそうな、憎めない顔だ。円らな目がそう言う印象を与えるのかも知れない。

 身長は、170㎝ちょっと・・と言うところか?155㎝弱の志保から見たら長身だ。体つきは痩せ気味で、けれども健康そうな印象。髪はとかしてありそうだけれど、散髪にはご無沙汰・・と言う感じ。

 スーツは量産店の物だろう。志保は速度を緩めず歩き続けた。胸の鼓動が早くなるのが分かった。この男の何かが、自分と深く関わる運命を示している。どうしよう・・今なのだろうか?

 すれ違う瞬間、志保は彼の表情に困窮を見た。


 どうした物か・・署長の家の周りをウロウロしながら、橋本は困り切っていた。あまり考え込みすぎて、さっきから失敗ばかりだ。3回転びそうになったし、バスから降りるときには階段を踏み外した。何をどう考えて良いのか分からないのだ。

 取りあえず、この缶について調べてみた。一般的に流通しているコーヒー飲料。微糖。

 缶に付いて居た指紋は数種類で、その中で、繰り返し缶に触っていることが確認された指紋は2種。署長本人の物ともう1種類。署員、前科リストに該当する指紋の者は居なかった。念のため、署長の家族にも協力を願ったが、やはり一致しなかった。(一致したらしたで、報告にまた頭を悩ましただろうが)と言うわけで、後出来る事と言ったら何だ?聞き込み?張り込み?空き缶が自転車の籠に捨てられていたと言うだけで?管轄地区の平和さを喜ぶと共に溜息が出た。

 少なくとも、ここに缶がある限り、張り込みは無意味だ。自転車の籠に入れられているのは、何時も同じ、この缶なのだ。同種の物ではなく、この個体の物。缶を見つめながら、橋本は、はっとして足を止めた。

 署長の家の前の植え込みに半分はみ出すように缶を置き、その後に隠れた。署長は見つける度にあちこちに捨てたと言っていたが、この缶は必ず戻って来ている。まさか自分で歩いて戻るわけはないから、誰かが見つけだして戻すのだろう。どうやって見つけ出すのかは謎だが、それも犯人を捕まえてしまえば解明されるだろう。要は、この缶を取りに来たところを捕まえればいいのだ。

 署長の家と道路を挟んで建っているマンションの植え込みは、橋本が隠れるには丁度良い高さがあった。1メートル程に、キレイに四角く刈り込まれた長く連なる生け垣。署長の家の玄関のはす向かいが、出入りのために3メートル程空いている。

 植え込みは、冬になると濃い、むしろ赤に近いピンク色の椿に良く似た花を咲かせる。最初、橋本にはどう見ても椿にしか見えなかったのだが、散った花びらを妻に見せられはっとしたのだ。椿が縁起の悪い花と言われるのは、花びらではなく、花自体が落ちるから。首を落とされるかのように。

 似た花でありながら、彼等の運命はこうも違うのだろう。


 今は花のない山茶花の植え込みの影で、橋本は息をひそめた。誰かが歩いてくる。隙間からブルーグレーのスニーカーが見えた。その上はユースドブルーのジーンズ。人影はそのまま近づいて来る。橋本は視線を上げて止めた。淡い綺麗な紫色のタンクトップの上に、真っ白のシャツを羽織って着ている。タンクトップの胸のロゴプリントが明らかに大きく盛り上がっている。光の加減で黒く輝く髪が肩より下まであった。

(女だ)

 意外な気がした。もし犯人だとしたら、無職の若い男じゃないかと想像していたからだ。けれど彼女は違う。

(外れか)

 犯人ではなかった・・と気を抜き掛けたとき、橋本は目を見張った。彼女は、署長の玄関を見つめ、それから、視線を植え込みの方に走らせ、空き缶の場所で一度止まり、そのまま橋本の方に延びてきたのだ。まるで、今、目の前で橋本の行動を追っているように。

 橋本は動けなかった。明らかに見付かっているのに、往生際悪く見付かっていない振りをし通そうとする、かくれんぼ中の子供みたいに。

 彼女は暫く植え込みの中(の橋本)を見つめた。それから視線を空き缶に移すと、それを抜き取り、何と、ガレージの入り口脇に止めてあった署長の自転車の籠に入れたのだった。

 それから彼女はもう一度、呆気にとられている橋本(が隠れている植え込み)の方を見ると、黙って歩き出した。


 志保は悩んだ。明らかに罠だと分かっている。

 今朝、例の男が空き缶を持って出掛けるのを見た。時間はたっぷりある。彼をつけていつものように回収し、それを持って帰るつもりだった。けれどその途中で、缶を持った青年に会った。悩んだ上その家の前に戻ってみると、案の定、わざわざ空き缶を見つかりやすいところに置いて隠れている。

 黙って素通りしても良かった。

 恐らく目的はほぼ達成されただろうから。けれども、すれ違ったときの、困窮した彼の視線が気になった。探偵か、例の男の部下だろうか。こんな妙な依頼を受けて困り切っているのだろう。ちょっと気の毒な気がした。それに、彼は気になる。どう自分と関わるべき人間なのか、知りたい。

(困窮しているのはこっちだわ)

 志保は受け入れる覚悟を決め、彼の目の前で一連の動作をして見せたのだ。事を終え、歩き出しながら志保は、祈るような気持ちで居た。

「ち、ちょっと!」

 植え込みの中から、橋本は飛び出した。志保はゆっくり振り返った。動じていない志保の表情に、橋本は違和感を覚えた。

 30歳前後の主婦だろうか。未婚の職業婦人に良く見られる、力んだ感じや、ぎすぎすした感じがないから。柔らかい雰囲気。殆どメークをしてないけれど、白くきめの細かい肌はキレイだ。肩から提げたバックは必要な物だけ全て入っているという感じだ。彼女に余分な物はない。目を引くほど美人というわけではないけれど、不美人という訳でもない。サッパリと、整っている感じ。名前を呼ばれ、指示を待つ忠犬のような目で橋本を見つめている。


「空き缶」

 橋本はやっとそう切り出した。

「はい」

 志保は即座に答えた。反発心も偽証心も含まれていないように感じた。

「どうして入れたんですか?」

 橋本は取りあえず志保を促し、並んで歩きながら聞く事にした。

 志保は軽く目を閉じ考えた。何と答えたらいいのだろう。真実を答えて分かってくれるのだろうか?自分がこの人に感じている感覚を、信じてみようか・・

(私が自分を信じなくて、人に信じて貰えるはずがないわ)

 志保は覚悟を決めた。


「3週間前の木曜日に」

 唐突に志保が語りだしたので、橋本は面食らった。謝罪か言い訳が出てくる物とばかり思っていた。

「私の自転車に入っていたんです。あの缶」

 志保はそう言いながら、橋本の目を覗き込んだ。橋本は、曖昧に頷いた。今の時点では何も分からない。

「自分の自転車に、覚えのないゴミが入っているのって不快じゃないですか?」

「そりゃあ」

 橋本は素直に頷いた。

「でも、それが分からない人が居るから、そう言うことをするんですよね?」

「人が困るのを楽しむってヤツもいるからな~」

 相槌を打ちながら、何でこんな話をして居るんだろう・・と思った。

「だから、返してあげたんです」

「は?」

 橋本は足を止めて、志保を見た。

「あの缶を、私の自転車に入れた人の自転車に」

 彼女は大まじめに橋本を見返して言った。

 橋本は、考えながら

「入れる所を見ていた?」

 そう聞いてみた。志保は首を横に振った。

 困惑する橋本の目に、志保に対する疑念を感じ、志保は悲しくなった。どう説明したらいいのだろう。これはチャンスなのに・・

「じゃあどうして、彼が入れたと?」

「・・・」

 志保は言葉を探した。

「彼が誰だか知って居る?」

 志保は驚いた目でまた首を横に振った。それが何か関係有るのだろうか。

(チョット頭が弱いのだろうか・・)

 そう橋本は思い始めていた。一見はそうでもないけれど、何だか浮世離れした感じだ。

(どうしよう)

 これ以上先送りにしても、いい結果は得られない。志保は悩んだ。駄目は承知で言ってみようか・・

「見えるんです」

 志保は橋本を見つめた。この人は、どんな反応を示すだろうか。

「私には、残像が見えるんです」


『残像』


 橋本はその言葉を頭の中で繰り返してみた。それから志保を見た。真っ直ぐにこっちを見ている志保の頭の中を考えた。

(やっぱりちょっと病気なのだろうか・・)

 その視線の意味を感じ、志保は焦った。何とかしなくては・・彼に信じて貰うために。志保が歩き始めると、慌てて橋本が追ってきた。

「君さ・・」

 バス通りに出て、志保は足を止めた。

「バスから降りるときに、転んだ?」

 志保は振り向いて言った。

「え?ああ。何で知って・・」

 言いかけて橋本は首を振った。

「見ていたんだね?」

 そう言われ、志保は悲しい気分になった。

「残像が見えるんです」

 もう一度言ってみたが、声から気弱さが伝わってきた。

(頭がおかしいか・・それとも策士で俺を騙そうとしている?)

 橋本は考えを巡らせた。悪戯して、咎められないように、頭が弱い振りを装っているのか?バスから降りた人達が駅に向かうのに押されるように歩きながら、志保はふと何かを蹴飛ばし、足下に目を向けた。

「携帯電話だ」

 橋本は舌打ちをして、追い抜いて行った一団を見た。志保はそれを手に取り、バスが止まっていた方を振り返り、それからゆっくり一団の経路に視線を向けて行った。

「すみません!赤いバックの方!白いスーツの!」

 志保はそう叫んで駆けだした。橋本が慌てて追うと、1人の女性がはっとしたように立ち止まった。

「ああ、あなた。携帯落としましたよ」

 追い付いた志保は、白いスーツのその女性に拾った携帯電話を渡した。

「ありがとうございます」

 彼女は深々と頭を下げて礼を言うと、忙しそうに去って行った。その後ろ姿からは、彼女が、白いスーツを着ているとは解らない。羽織るように薄手のコートを着ているからだ。志保は伺うように橋本の表情を見た。

「コートを着るときに落としたみたい」

「ああ・・」

 志保の言葉に、橋本は曖昧に頷いた。そう言うこともあるだろう。

 だが、想像以上に橋本は困惑していた。この善良そうな女性は、何のために、こんな手の込んだ悪戯をしているのか?しかも到底、騙してほくそ笑んでいるとは思えない表情で・・

「分かったから・・」

 橋本は言ってみた。

「もう、いいから、目的は何?」

 橋本の言葉に、志保の表情には失望の色がありありと現れた。

「兎に角、君が嫌がらせをした相手は警察官だ。勿論僕も。(下っ端だけど)悪戯にも程が有る」

 彼女の頭の中が正常でない場合の人権も考えて、橋本はそこで終わらせたった。彼女が驚いて、詫びてくれさえすれば、大事にしたくも無かった。

 けれど彼女は、確かに驚きの表情もしたが、基本的に何かを求めるようにこちらを見上げる表情に変わりは無かった。

「兎に角」

 橋本はその視線に耐えられず、できるだけ事務的に切り出した。

「こんな悪戯はもうやめて、そしたらこれ以上追求しないから・・一応、名前と連絡先だけ書いてくれる?今後何も起こらなければ破棄するから」

 橋本が話す間、彼女は何も話さない。そして黙ってペンを取ると、すらすらと自分の名前と家の電話番号を書き記した。


「川村志保」


 志保の書いた華奢なその字は、橋本の目には決して病的なものには見えなかった。けれども彼は無言でそれをしまうと、最後まで、彼の内面にまで視線を送ろうとするかのように見詰めて居る志保の視界から逃げるように急ぎ、去った。

 志保はそこに立ち尽くしたまま、自虐的な笑みを浮かべ、ため息をついた。


 彼は、確実に他の人には無い柔軟性を持っている。上手く説明できないけれど・・

 それなのに、折角のチャンスを生かせなかった。

 せめてもの救いは、こちらの名前と連絡先を伝える事が出来た事くらいだ。何か・・必要が生じて、彼が連絡をして来てくれれば、望みが生まれる。しかも彼は警官だって・・

 そう思うとふっと肩が軽くなった。

 何処まで本当かは分からないけれど、海外では特殊能力者に捜査を手伝ってもらう事が有ると言う。そういう映画を好んでみていた時期がある。

 日本でも可能かどうかは分からないけれど、もしそこに彼が思い当たってくれれば、自分のこの鬱積した思いを軽減する事が出来るかもしれない。


 志保はそう前向きに考える事に決め、通常の10倍くらい混沌とした周囲の残像を振り払うかのように元気よく歩き出した。


「結論から言いますと」

 橋本は署長の机に報告書を置くと、間髪入れずに話し出した。

「○月○日、駅前の○○本屋の駐輪所で自転車に空き缶を入れられた人物がその仕返しに、と署長の自転車に入れていたようです。お心当たりは?」

 馬鹿らしい・・と思いながらまくし立てた言葉に、署長は目を白黒させた。

「や・・うん・・そんなことが?」

 この狸おやじ・・そう思いながら言葉を続ける。

「ごみを入れられる事の不快感に相手が気づけば目的は達せられると言うことなので、これ以上は続かないと思われます。・・が犯人はどうしますか?前科も有りませんし危険人物でも有りませんが、連行する必要が?」

「いや良い・・お手柄だ。もう良いから、通常業務に戻ってくれたまえ」

 橋本の言葉をさえぎるように署長は追い払うように手をひらひらさせた。


 それで終わったかと思われた事態が動き出したのは、その数時間後だった。


 怪しい人物が居るとの垂れ込みで出掛け、戻った橋本の元に血相変えて署長がやって来た。

「橋本!あの調査、間違いは無いんだろうな!」

 その凄味のある表情に橋本はたじろいだ。

「は?あの・・と言いますと・・?」

「コーヒーの空き缶の件だよ!」

「間違いと言いますと・・?」

「私に個人的恨みが有る危険人物の犯行ではなかったのか!?」

「どうしてですか?」

 そこまで聞いて、始めて橋本は尋常では無い雰囲気に気が付いた。

「署長、中丸達がご自宅に到着しました!すぐ機械の設置に入ります」

 同僚の刑事達の物々しい声が飛び交う。

「何が・・?」

「良いか!犯人の資料をすぐ用意しろ!」

 署長はそう言い残し、他の刑事達に連れて行かれた。

「署長のお孫さんが行方不明らしい」

 そう教えてくれたのは同僚の鴨居だった。独身28歳。合コンの鬼。

「幼稚園の帰りに通園バスから降りた所までは解かっているのだが、母親が他の母親達と話している間に姿を消したらしい」

「他の子は?」

「無事だ」

「何時頃?」

「午後3:45~4:10の間位」


 なんて間が悪いんだ・・橋本は血相を変えて動き回る署長を見つめながら、そう感じていた。



「志保。電話だ」

 午後7:20。そう父が声を潜めていったので、志保は訝しげに子機を持ち上げた。

「先日お会いした、橋本です。警察の・・」

 なんと切り出そうか悩んだ挙句、取り合えず個人名で認識して貰えたら・・そう橋本は思った。

 彼の中の危険信号が、彼女とは係わり合いを持ちたくないと告げている。

 無関係です。はいそうですか。で話を終わらせたい・・そう刑事らしからぬ事を考えていた。

「覚えて居ます」

 志保は即座にそう答えた。

「本当に悪戯だったんだよね?」

「え?」

「署長に個人的恨みは無い?」

「え?」

 思いがけない問いに、志保は言葉を詰まらせた。予想外の電話だった。自分の力に興味を持ってくれたのではないのだろうか・・?期待に膨らんだ胸が、虚しくしぼんでいきそうだった。

「今日の午後何を?」

 取り合えず、アリバイを探る。有ってくれればこちらも助かる。そんな気持ちだ。

「午後・・?区の図書館に行きましたけど。その辺のショップをぶらぶらしたり・・」

 困惑した彼女の返答は、練習したものとは考えにくい。

「何時頃?」

 これで時間が合えばアリバイ成立。深追いする気は無い。と言うかしたくない。

「ちょっと待ってください。貸し出しカードに確か・・あ。有りました。えっとですね・・3:16です。それが何か?」

 う~ん・・微妙だ・・・図書館から署長のお嬢さんの家までは・・橋本は頭で計算する。どう考えても歩きは兎も角、自転車や車なら20~30分で行ける。

「その後は?」

「後・・?雑誌コーナーをぱらぱら見た後、パン屋さんに寄って帰宅しましたけど?」

「それは何時ごろ?誰かと一緒だったの?」

「一人です。家に帰りついたのは4時前だったと思いますけど・・」

 うう~~橋本は頭を抱えた。こんな答えでは署長も捜査本部も納得しないだろう。

「あの・・アリバイが必要なんですか?」

 志保は不安げに聞いてきた。

 何故、自分にアリバイが必要なのか分からない。あれきりコーヒーの缶はいじって無い。

「あんな悪戯するから・・自業自得だよ」

 橋本はやけっぱち気味でそう言った。関わりたくない。そう心の声が告げている。

「署長さんに何か?」

 ただ事では無い雰囲気が漂っている。

 どうする?彼女は重要参考人か?誘拐だとして、犯人からの接触が有ったと言う連絡は未だ入らない。嫌がらせにしろ営利目的にしろ、犯人からの接触が無ければ捜査は進まない。後は現場の目撃情報・・

「目撃・・」

 思わず口に出してしまい、橋本は慌てて頭を振った。

 電話の向こうで志保の目が急に活気ついた気がした。

「何か有ったんですね?」

 志保の声のトーンが上がっている。橋本の心の危険信号も激しく点滅している。

「お力に成れるかも知れません」

 電話の横で、父が不機嫌な顔をしたが、志保は構わずに言った。

 これはチャンスなのだ。この鬱屈した気持ちから抜け出す・・

「駄目元で。お願い」

 志保は思わず懇願した。彼が自分に関わる予感が当たっているなら、これはまたと無いチャンスだ。

「大人しくしていろよ」

 父が不機嫌な声でそう言ったが、志保は耳を澄まして橋本の返答を待った。

 関わってはいけない・・その心の声は消えない。とんでもない事に関わろうとしている・・

 でも彼女が重要参考人となれば嫌でも係わり合いを持つことになる。

 それを避けるためには早期事件解決。

 彼女はその力に成れるかも知れないと言っている。

 彼女は頭がおかしいのだ。その片棒を担ぐのか?

 犯人では有り得ないと思われる彼女に重要参考人として関わるのと、たわごとに付き合うのと、どっちがマシだろう。

「止めとけ。誰が信じるって言うんだ」

 父親の不機嫌な声がした。

「大人しく生きていくんだ」

 疲れ切った父親のその声は、頭のおかしい娘に辟易していると言うよりも、その得体の知れない力のせいで受けてきた世間の仕打ちに辟易していると言うほうが頷ける声だった。

「あ~」

 橋本は頭を抱え

「今から出られますか?」

 そう言っていた。

「はい。どこへ?」

 志保の弾んだ声が返ってきた。

「あ~じゃあ・・区の図書館では?」

 時計を見たら、7:40。女性を呼び出すには遅い時間だろうか?まあ、お嬢さんと言う年でも無いし、人通りも有る所だから良いか・・

 橋本としては嫌な事はさっさと終わらせたい気持ちだった。


 父親のウンザリした声を聞き流し、志保はクローゼットの前に立っていた。

 初めて、役に立つかもしれないこの得体の知れない力。持て余して来た力。

 思いがけず、刑事さんと関わり、お手伝いが出来るかもしれない・・

 志保は軽快に動けそうなちょっと厚地の長袖Tシャツと、デニムパンツを選んだ。斜め掛けするタイプのワイルドなバックを下げ、自転車にまたがる。

 そんな格好だから嫁に行けない・・と、そうで無い事を知っていながら父が嘆くスタイルだ。

 人に幻想を描けない自分が、どうして結婚できるだろう・・


 志保は渋い顔の父に

「先に休んでて」

 そう言い残し家を出た。


「何をしてるんだ俺は・・」

 運転をしながら、橋本は自分を嗜めた。

「全て彼女の演技だったら?巧妙に仕組まれた罠で、さっきの男が父親じゃなく仲間で、こっちの動きを探っているのだったら・・?

 橋本はすぐ鴨居に電話を入れると、志保から聞いていた自宅の電話番号を告げた。

「この番号の主を調べておいてくれ」

 さっきこの番号にかけて彼らが出た。本当に川村親子の番号なら、たとえ彼らが真犯人だとしても追いようがある。


 閉館した図書館をぐるりと囲う柵の前に高揚した表情をした志保が立っていた。

 白地に、ベビーピンクのロゴ模様が描かれたTシャツに、黒っぽいジーンズを穿き、スニーカーは前に見たのと同じブルーグレーのスポーツブランドの物。若々しい格好をしている。遅い時間に呼び出して悪かったか・・?と思い直した。

 橋本に気が付くと、下唇を軽くかんで神妙な顔つきになった。

 どう見ても悪事をたくらんだりしているようには見えない。勿論頭が弱いようにも。


 橋本は、どう表現して良いのか分からない表情で車から顔を出した。

 微笑みかけるのを躊躇い、無理に無表情を装っているように志保には見えた。勿論そうでは無いかもしれない。

「乗って」

 そういわれ、志保は自転車を指差した。

「トランク、空いてますか?」

 そう聞きながら志保は自転車を小さく畳んで見せた。折りたたみ自転車と言うやつだ。それをトランクに積んでやると、志保は助手席に乗り込んだ。

 どうするのが正しいやり方か分からない。だから悩んだ末、橋本は結論を出した。


「ここは・・?」

 志保は車から降りると辺りを見渡した。何が見えて居るんだろう・・そう思ってから、頭を振って打ち消す。

「あの辺・・」

 橋本は、捜査資料に書いてあった商店街の中にある小さな広場の辺りを指差した。署長のお孫さん、川上るかちゃん達が幼稚園バスを降りる場所だ。

「3:34頃園児達が幼稚園バスから降りる」

 ああ・・と言うように志保は頷いた。周囲を見渡し、それから、その広場を見つめる。

「居ました。3人ね。白地に緑のカラーのマリンルックの制服ね。男の子が一人と、女の子が二人。髪を高い位置で二つに結んで居る子と、ボブの子が居るわ」

 ルカちゃんの髪は、資料の写真では長かった。

「お母さん達が話し込んで居るので、子供達は広場で遊んでる。あれ?」

 志保がそう言ったので、橋本はびくっと彼女のほうを見詰めた。彼女はこれから話そうとしている。犯人しか知りえない事を・・?

「誰かが手招きして、髪の長い子があっちへ・・」

 志保は商店街の反対側に抜ける広場の逆の入り口を指差した。

「どんな人?」

 急に橋本が熱心になったので、志保はどぎまぎした。信じてくれて居るのだろうか・・?慎重に見なくては・・

「初老のご夫人ですけど・・白のブラウスにカーキっぽいチノパンを穿いて居て・・買物袋を下げて居ます」

 志保は答えの正否を問う生徒のような気持ちで橋本を見た。

 橋本は意外そうな顔をして居る。

「で・・どっちへ?」

 志保は彼女達を追い、歩き始めた。特定の残像を見て居る時は他の残像は薄れる。勿論、見失えばもう一度集中しそれを探し出せば良いのだが、結構疲れる作業なのだ。

 間を開けないように彼女達を追い、そう遠くない一軒の家に入るのを確かめた。集中を解いた時流れ出した映像の中にそこから出てきた少女と、再びそこに入って行く少女が見えた。一人ではなく、先ほどの女性と、他にも小さな子供が二人居た。

 その全てを、志保は橋本に語った。

 表札は「中野信也」。家の中からは、暖かい灯かりがこぼれて居る。時々声や音も聞こえてくる。それを確認し、橋本は署に連絡を入れた。

 一か八か・・で。一応、目撃証言と言う事にして伝えた。

 鴨居からは川村父子の電話番号だと言う返答を得た。嘘では無かった・・


 署からの指示の連絡の前に、駆けつけて来たのは署長の一家だった。

 署長と、お嬢さんとその旦那。

 彼らは、待ちくたびれた橋本と志保の目の前を通り抜け、ガラッと引き戸を開けた。

 呆気に取られて見詰めて居ると、3人はそのまま家に上がり込もうとして居る。

「しょ、署長!?」

 慌てて橋本が声を掛けるのと、

「ママ~」

 と、少女が掛けて来るのとが同時だった。

「あ。おじいちゃんも♪」

 少女は二つに結んだ髪を揺らしながら署長の腕に飛びついた。

「あらあら・・お揃いで」

 その後ろから現れた、人の良さそうな初老の女性は、驚愕するわけでもなく彼らに微笑みかけた。


「お母さん・・」

 初めて旦那が声を上げ、お嬢さんは座り込み、署長は呆然と立ち尽くして居る。


 そして、橋本は呆気に取られてその間の抜けた光景を眺めていた。

「あの方ですよ。連れて来たの」

 志保は極めて冷静に橋本にそう告げた。

 遅れてやって来た同僚達が、同じように呆気に取られて立ち尽くしている。

「ここ、署長のお嬢さんの旦那さんの実家ですよね・・」

 後輩刑事がぽつりと言った。


「事件じゃなくて良かったじゃないですか」

 志保は隣で呑気な事を言ったが、とても両手を挙げて喜べる気分じゃなかった。

 無駄足所じゃない。この忙しいのに無駄な残業だ。

 結局、おしゃべりに夢中になった母の手を離れたるかちゃんは、通り掛った祖母に声を掛けられた。

「おばあちゃんの家に遊びに行っても良い?」と母親に聞いたのだが、「そうね」と曖昧な答えを返され、それを都合よく解釈して、OKが出たと祖母に告げ、従姉妹たちとプールに行って来たと言う事だった。

 気の若い祖母もプールに入って居た為、連絡が取れず、誤解が解ける機会が無かった。

 一通り安心した後の責任の擦り合いは凄まじく、部外者は早々に退散して来た・・と言う訳だ。


 それにしても・・

 と橋本は思う。

 出来る事なら、このまま今日の事には触れずに志保を車から降ろして、「じゃ」と別れて二度と会いたくない。

 そうするべきかどうか悩んでいたので、沈黙は息苦しく、本心ではない署長の家族のコミカルさを指摘してみたりした。


 今日の事は前進だったのだろうか・・無関心を装いながら、志保は橋本の態度を伺っていた。

 橋本は「ありがとう。お手柄だ」とは言わずに、「遅くに世話を掛けたね」と言った。

 それをどう受け止めたら良いのだろう・・

 焦っちゃいけない・・そう志保は自分を戒めた。

 今までこの力を持て余してきた。

 何の為に・・と悩んできた。

 無くならないのなら、せめて意味を見出したい。そう思って来た。

 もしかしたら、この力が有って良かった・・と思えるかも知れない。

 その思いが胸を占めていた。

「ここだね」

 橋本は志保の家の前に車を止めると、トランクを開けた。

 橋本が何も言わないので、志保はドアを開けて降りると、トランクから自転車を取り出した。

 まだ橋本は何も言わない。

「それじゃ・・」

 志保はどうするのが相応しいか躊躇し、小さく手を振ってみた。

 友達同士でもないので、変な感じだ。

「うん」

 橋本も妙な表情で、応えた。


 発車しかけた橋本は、ミラーに映る志保を見た。失望と必死で戦っている表情に、思わず窓を開けると、

「また、連絡を入れる事が有るかもしれません」

 そうぶっきらぼうに言っていた。

 その瞬間、劇的に表情を変えた志保に視線を向ける事が出来ずに、応えも聞かずに発車させた。

 良かったのだろうか・・と自問自答しながら。


 そしてその日は、意外と早くやって来た。

 長い間その力を持て余して来た志保にとって、それが早かったのか遅かったのかは解らない。

 誘拐騒ぎの1ヶ月半ほど後。

 発端は死亡交通事故だった。


 6月始めの有る朝5:23頃、犬の散歩中の初老の男が跳ねられた。

 早朝故に周囲に通行人も居らず、目撃証言は無し。

 当初轢き逃げ事件として扱われていたが、この被害者が、有る区議会議員の後援会長だったことから複雑に成って来る。

 区議会議員の細田氏は地元で人気の好人物で、地域を上げて応援して居る。

 そして、そのライバルとして出馬しているのが、彼の実兄。

 昔から陽気な弟と、見栄っ張りな兄で仲が悪く、出馬を先に言い出したのは兄の方なのだが、中々準備が整わず前期は見送る事になったのだが、兄の声明を受けて、それなら弟の方が・・と地元民が弟の方を祭り上げ、引くに引けなくなったノリの良い弟は出馬し、当選してしまった。


 そして事故前夜、地元の酒場で仲間達と飲んでいた被害者は、細田兄と鉢合わせ、険悪なムードになった。

 そこは大人な被害者は、「早朝の犬の散歩が有るから・・」と言って早々に店を出たと言うのだが、その翌朝の事故・・と言うことで、事件性が疑われ始めた。


「見通しの良い道だな」

 鴨居が青信号の横断歩道の真ん中に立ち止まって周囲を見渡した。

 区画整理しつつ作られた新しい道なので、それぞれ2車線。ひたすら真っ直ぐの道だ。中央分離帯には花が植えられているが、低い位置なので、視界をさえぎっては居ない。


「早朝で車通りも人通りも殆どない、こんな道で、人を偶然撥ねるか?」

「人通りが無いからこそ油断していたのかも」

「あれ、橋本は事故派?」

「いや・・でも一応ブレーキ痕も有ったし」


 そんな会話の後、ふと思い浮かんだのが志保の顔だった。

 期待を込めてこちらを見つめる志保の目が脳裏から離れなくなった。それ所か、益々大きくなっていく。

「ええい・・」

 思わず呟いた。

 信じているのかいないのか、自分でも解らなくなってくる。


 結局、橋本が志保に連絡を入れたのは、区議会議員の名前がちらついたせいで上から圧力がかかったせいだった。

 事故ならそれで良い。

 勿論轢かれた本人は良くないだろうが、事故は事故だ。不運と諦めるしかない。

 だけどもし事件だったら・・その可能性がある限り最後の足掻きをしておきたかった。


 橋本は、多くを語らず、「ちょっと出てきて欲しい」そういって志保を連れ出した。

 仕事が休みでたまたま家に居た父は、迷惑そうな、複雑な表情をしながら無言で見送った。


 待ち合わせたのは、大きな道路に面したコンビニの前で、入り口から邪魔にならない場所を選んで立っている橋本の姿に好感が持てた。

 彼の残像が、人が通るたびにそれを避け右往左往した挙句に今の場所に落ち着いたことを告げていた。

 そして志保を見つけると、橋本は安心したような、見たくないものを見たような複雑な表情をした。


「歩きましょう」

 とりあえず橋本がそう言って歩き出すと、志保は黙って頷いた。

 事故現場まで数十メートル。

「先日ここで交通事故が有りました」

 橋本の言葉を受けて、志保は視線を巡らせ、一点に目を留めた。

 そこには花が置かれているので、誰が見ても一目瞭然だ。花だけじゃなく、お酒や食べ物、犬だか猫だかのぬいぐるみの類もある。食べ物は野良猫やカラスを呼んで後から苦情が出そうだ。

「おじいさんね・・」そう呟いて表情を歪める。

 橋本は、何も言わずに待った。余計な情報は与えない。それが真実かどうかを見極める材料になると思うから。

 突然志保は顔を上げ

「あの犬は・・どうなったの?」

 そう言った。

 事故現場から視線が離れた。

「驚いて逃げたのよ・・でも飼い主が救急車に乗せられるところを、離れてずっと見ていたの。その後、どうなったのかしら・・」

 心配そうに呟きながら、歩を進める。ついに事故現場に到達した。

「何を言えば・・?」

 志保は、道路と歩道の境目を見詰めていた。

「任せる」

 ここでも橋本は言葉を控えた。

「私・・車には詳しくないのだけれど・・」

 志保は振り返り、

「免許が無いし・・」

 と付け加えた。

 橋本は黙って頷く。

「形は、今走っていく、あの白い車みたいなの」

 橋本は目で追った。

「色はシルバーよ」

 そこいら中に走っているタイプだ。

 だが、次の瞬間、志保は決定的なことを言った。

「ナンバーは、○○の○○○○・・」

「ち、ちょっと待って!」

 橋本は慌ててメモをとり、数枚の写真を志保に見せた。

「この中にドライバーは?」

 志保はそれを眺め、

「この人は・・」

 そう言いながら、細田兄の写真を指差した。

「ここに・・」

 そういって視線を向けたのは、山ほどの花の方。

 暫く見つめ、見上げた志保の目が赤くなっていた。

「そこを・・」

 花たちに埋もれた植え込みの隅を指差した。

 言われるがままに近くにあった小枝で地面をつついてみると、土ではない何かが引っかかる感触があった。引きずり出してみると、それは古い写真だった。

 坊主頭の小学生が二人、肩を組んで並んでおり、その隅に二人に混ざろうと躍起になっているらしい少し年若い男の子。

「これは・・?」

 橋本の問いに、志保は現在の細田兄の写真を指差した。

「事故の翌日かしら・・人の流れが途絶えた時にここに来て、埋めたの。肩を震わせて泣きながら・・」

 志保はもう一度視線を地面に戻した。

「何と言っている?」

 橋本は2枚の写真を見比べた。と言う事は、少し小さいこの子が弟の区議会議員・・

 早急に答えを聞きたい橋本の意に反し、志保はほろほろと泣き出し、中々それは治まらなかった。

 何が見えているのだろう・・

 何に泣くのだろう・・

 お預けを喰らった気分で、橋本は今有るものしか見えもしないのに、花の山を凝視した。猫にも見える犬のぬいぐるみが悲しそうな目で見返していた。


「少し離れましょう・・」

 嗚咽の中でやっとそう声を搾り出すと、志保はそそくさと現場に背を向け歩き出した。

 コンビニの先にある公園まで行くと、その吹きさらしで痛んだ木製のベンチに腰を下ろし、それから暫く泣き続けた。

 隣に座るのもはばかられ、2,3歩離れたところに立ちながら、取り合えず署に連絡を入れ、先ほど教えられたナンバーの車を確認するよう伝える。

 もうすぐ、事件の全貌が明らかになる・・と言う期待が自分の中で、確信に近いことを感じていた。


 やがて、目を赤く泣き腫らした志保は、顔を上げた。

 流石にその顔を見せたくないらしく、橋本の方に顔を向けることはしなかった。


「老人が、犬の散歩をしていました。コンビニ側の歩道を歩いて。目の前を、猫が走って横切ったの。犬が吠えたので、車道に飛び出した・・そこに車が走って来て・・おじいさん、猫を助けようと車道に飛び出したの」

 後半は、涙に屈しないように早口で言い切った。

「猫に気がつかなかったドライバーは、突然飛び出してきた人間に驚き急ブレーキをかけたわ。でも間に合わなかった」

 しばし沈黙の後、小さなため息を付いた。

「ドライバーは、数分そのままハンドルを握り締め放心し、震えながら走り去った・・見えなくなるまで、震えていたわ・・」

 話し終えた・・と言う風に志保は肩を落とした。


 結果、ひき逃げ犯は逮捕された。

 車は会社名義の車だったが、その日直行の為に車を持ち出していた社員は直ぐ解った。

 柵にぶつけた・・と会社に報告し車は修理に回っていたが、その叱責の為と思われていたが、ここの所無断欠勤をしていた。

 訪れた捜査官に、彼は安堵の表情を見せたという。捜査官に縋り付き、逮捕しても良いから殺して欲しい・・と懇願したと言う。

 室内は、暗く荒れ、アルコールや睡眠薬が散らばっていたという。

 自責の念に耐えられず、何度も自殺を図り、成し遂げられずに居た。

 そんな話を志保に伝えると、沈んだ彼女の瞳に、少しだけ光がさした。

「私のせいで・・彼の人生を変えてしまうかも・・と気になっていました」

 志保は控えめにそう言った。

「被害者よりも加害者の心配?」

 橋本の問いに、志保は顔を上げずに、

「花の中に、猫のぬいぐるみがあったのを覚えていますか?」

「やっぱり猫だったんだ。何で猫?犬?って気になっていたけど」

「それを置いたの、加害者の方です」

 志保はそう言って、悲しそうな顔を橋本に向けた。

「私、言葉は聞こえないんです。でも、行動が色々な感情を流し込んでくる・・

 お兄さん、事故を知って一番に駆けつけて来て泣いていました・・毎日毎日通ってきて長い間傍らで何か語り掛けて行きます」

「周囲からの疑いも晴れて、弟とも仲直りしたみたいだ」

 志保はちょっと微笑んだ。

「被害者の犬を見つけたのはお兄さん。犬から近づいていったから、あの二人、本当は仲が悪くは無かったんじゃないかと思います。その犬を、お兄さんは弟に預けたみたい。彼が毎朝散歩しています」

「そう・・」

 色々見えるのは、便利だけれど、結構辛くも有る・・橋本はそう感じる事に躊躇が無かった。

 それは橋本の中の真実だった。

「お疲れ様・・行こうか」

 橋本は、志保を促し立ち上がった。先日と同じ寂れた木製のベンチから。


 暫く、橋本からの連絡は無かった。

 事件が無かった訳ではない。

 橋本が、捜査の途中で志保を思い出さなかった訳でもない。

 ただ、見ながら涙し、嗚咽した志保を目の当たりにし、彼女に見て貰う事が、自分が思うほど気楽なことではないと言うことに橋本は気が付いてしまった。

 彼女に対して、疑いの気持ちはもう無かった。

 本当に必要な時、すがる気持でまた声を掛ける事になるだろう・・そう思っていた。



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