第2話 召喚 ~ 錬の場合

 鷹坂市立病院の入院室の窓からは地元の大きな公園が見渡せる。

 生え並ぶの桜の木が風になびいて、芝生でボール遊びをする子供連れの家族やカップルが気持ちよさそうに花見をしている光景が見え隠れする。

 周りを囲む高層マンションの影響なのか、公園はいつも強い風に見舞われていた。

 けれども病院の5階にあるれんの個室に届く頃には、心地よい程度にまで風は弱められる。

 今日のような天気のよい4月の昼下がりにはとても爽やかな空気を運んできてくれる。

 錬の体調がよいのも、この空気のおかげだと本人は信じていた。

 ――この空気には何か特別な力がある。

 入院して3ヶ月ほど経った頃から錬は確信をもってそう思うようになっていた。


 しかし、最近は日が沈むと決まって体調が悪くなった。

 その日も、誰かに呼ばれている気がして悪夢にうなされていた。

 その誰かは外からしきりに窓を叩き、錬を呼びかけているように思えた。

 うなされながら目を開けた。

 昼間は無邪気に窓を叩いていた風が、今は敵意をむき出しにして錬に詰め寄ってくる。

 必死に呼吸をするが、喉で詰まって空気が肺に入り込んでいかない。

 ヒューヒューとなる音が風の音なのか、自分の呼吸音なのかがも判別がつかない。


 時計を見ると午前2時をまわっていた。

 風を吸い込みたいという衝動にかられ、錬はのそのそとベッドから起きあがると部屋を出た。

 スリッパ履きで暗い廊下を引きずるように進み、廊下の終点にある階段を下った。

 一階にでると無人の受付を横切り、裏口の鍵を開け、病院の外へ出た。冷たくはないが、激しい風が錬の体に吹きつけた。

 錬は思い切り空気を吸い込んだ。

 胸のつかえはまだ完全にはとれないが、それでも随分と体が楽になったような気がした。


 ふと前方を見ると、木が鬱そうと茂る公園の入り口が見える。

 真っ暗で奥はほとんど見えないが、なぜかその先に懐かしい何かが待っているのではないかという思いに駆られた。

 パジャマ姿の錬はスリッパ履きのまま、公園に向かって歩き始めた。

 あの公園には昼間散歩がてら行ったことはあるが、夜中に入ったことなど一度もない。


 舗装された歩道から芝生に入ると、スリッパの底を通じて地面の冷たさが伝わってくる。

 木々を抜けると、気持ちこんもりと盛り上がった小さな芝生の広場となっていた。

 この小さな広場は小さな子供連れが遊ぶ場所として人気があった。

 錬は芝生にこすれる自分の足音を確かめながら歩いていった。


 真ん中へ到達すると当たりを見回した。

 広場は半径20メートルぐらいの円状の形をしており、周りを取り囲むように木々が生い茂っている。

 木々のてっぺんに目を向けると公園を取り囲んでいる古いマンションがいくつか見えた。

 明かりのついている部屋は一つとして見当たらない。

 古いマンションなので空部屋が多いのだろうか。


 そんなことを考えながら、ぐるりと見渡すと今いた鷹坂市立病院が見えた。

 錬の5階の部屋は木々に囲まれてほとんど見えない。

 見えているのは4フロアぐらいまでである。

 入院棟は12階まであるから見えているのは8階ぐらいからということか。

 そういえば、錬の母が入院していた時の部屋は8階だった。

 何度かお見舞いに来たときに、窓からこの広場が見えたのかもしれないが、記憶にはなかった。


   ◆   ◇   ◆


 錬の母が鷹坂市立病院から失踪したのは入院後2ヶ月経ったときのことだった。

 奇妙な事件としてニュースでも取り上げられた。

 看護婦に連れられて、隣接する公園に行き、ほんの30秒ほど目を離した隙に、車いすを残して忽然と姿を消したのである。

 その当時、彼女は歩ける状態になく、看護婦が目を離した30秒でどこかに歩いていくということは考えられない。

 誘拐された可能性も否定できないが、朝食前の朝7時頃だったので公園はジョギングをする人以外に見かける人はいなかった。

 病院のスタッフ総出で公園中を隈無く捜したが、ついに見つけることはできなかった。

 その後、警察も痕跡を追ったが、有力な手がかりは見つからなかった。


 それから2年が経ち、錬は母と同じ病気で同じ病院に入院をすることになった。

 遺伝性の病気だということは錬にも想像がついており、いつかは母と同じ道を歩むのかもしれないと感じていたが、まさかこんなにも早く後を追うことになるとは思っていなかった。


 母について思いを巡らせながら進んでいくと、大広場の方向の木々の向こうに黒い影が動いたような気がした。

 錬はフラフラとその方向に足を運んでいく。

 当たりを見渡すとちょうど錬の目線ぐらいの高さに黒い斑点のようなものが浮かんでいるのを見つけた。

 最初は自分の目がおかしいのかと思った。

 まぶしい光をみたあとに視界に残る残像に似ているように思ったからだ。

 だが、視線を動かしてもその斑点は動かない。

 黒いボールのようなものが宙に浮いているように見えた。風がだんだん強くなり、そのうちパジャマがバタバタとなびくほどの強さとなった。

 黒いボールに風が吸い込まれていくようだ。

 錬は呼吸困難になり、夢中で空気を吸い込もうとした。

 空気が錬の口の中に自らどんどん入り込んでいくように感じた。

 黒いボールと錬の口があたかも周りの空気を取り合っているかのようだ。

 そのうちに、自分が空気を吸い込んでいけばいくほど、自分自身が黒いボールに吸い込まれていくような感覚に襲われた。

 必死で踏ん張るが、背後からも風が押し出すように吹いてくる。


 その時、錬の目の前を何かが掠めた。


 残像として目に焼きついたそのシルエットは信じがたいものだった。


 錬の時間が止まった。


 手のひらに乗りそうなほど小さいその何かは、錬に向かって笑いかけていた。


 再び、時間の流れが回復したときに、錬に抗う間は残されていなかった。

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