ムー大陸の彼方へ

ずん

エピソード3 新たな6人

第1話 プロローグ

 死を感じた瞬間、人はスローモーションの感覚に襲われるという。

 だが、それはもちろん生き残ったからこそ言えることだ。

 ガードレールを突き破った瞬間のことを緑帆(のりほ)は今でも鮮明に覚えている。

 翔矢(しょうや)はとっさにハンドルから左手を離すと、助手席の緑帆を庇うように腕を水平に伸ばした。

 緑帆の眼前が弟の太い腕によって塞がれる。

 車体がふわりと浮かんだ瞬間、時間は完全に止まったかのように思えた。

 翔矢の腕の狭間から、崖の向こうの風景が見え隠れする。

 暗闇にうっすらと拡がる平野のそこかしこに家々の明かりが浮かび上がる。

 星のようにちらちらと瞬いているのが印象的だった。


   ◆   ◇   ◆


 だが、覚えているのはそこまでだ。

 その先の記憶はない。

 たぶん気絶してしまったのであろう。

 ともあれ、緑帆はこうして助かった。

 助かった理由も理解している。

 到底納得できる理由とは言い難いが。


 今はとにかく翔矢の安否が心配だった。

 我ながらこんなに弟想いだとは思っていなかった。


 緑帆より一つ下の翔矢は小さい頃から何をするにも姉の真似をする弟だった。

 思春期にもなれば、大抵そういった真似事もおさまるものだが、翔矢は違っていた。

 なにしろ、姉と同じ大学に入ると、同じ弓道部に入部してしまったのだ。

 好きなことや得意なことも似通っていた。

 もちろん、翔矢が姉の背中を追い続けた結果なのかもしれない。

 だが、今や「追いかけた」というのがはばかられるほどに翔矢は成長した。

 弓道にしても剣道にしても彼の腕前は姉の到底及ばぬレベルに達していた。

 そんな翔矢ではあったが、姉を慕う態度はちっとも変わっていなかった。


 翔矢が大学受験で仙台から上京してきたときのことである。

 東京に下宿していた緑帆は、受験当日、弟に付き添って会場まで同伴することにした。

 ところがその途中、緑帆が交通事故に出くわした。信号を見落とした車が横断歩道に割り込み、緑帆に接触したのだ。

 軽い接触だったものの、転んだ弾みで足をひどく捻ってしまった。声も出せないほどに痛かったが、命に関わる事故という訳ではなかった。

 とはいえ、歩くのは無理なので、救急車を呼ぶことにした。

 翔矢に一人で受験会場に行くよう告げ、緑帆はひとり病院に搬送された。

 だが、病院に着くとなぜか翔矢が先回りして待ち受けていた。

「何やっているの!?」

 思わず発してしまったが、何とも間抜けな質問である。

「姉ちゃんを一人にしておけないだろ」

 緑帆には全く信じられない行動だった。

 何が大切なのかを全然わかっていない。

 いい加減、姉離れして欲しいものだと思ったものだ。


   ◆   ◇   ◆


 その日は弓道部の合宿からの帰り道だった。

 いつものように翔矢の車で丹沢から横浜の自宅に向かって走らせていた。

 三連休の最後の日という事で、二人は渋滞の真っ只中にはまってしまった。

 2時間程徐行した末、ようやく渋滞が解消したが、峠道に差しかかる頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。

 例年は明るいうちに通る道だったが、暗くなると全く見知らぬ道を走っているように感じられた。

 だが、翔矢の車は軽快で危なげのない走りをしていた。

 彼らしい運転だ。

 夜の冷え込みは激しかったが、路面が凍るほどではなかったように思う。


 そのカーブもさほど急ではなかったはずだ。

 にもかかわらず、車は崖に向かって吸い込まれるように突き進んでいった。

 翔矢のミスではない。

 今思い返してもそれは確信できる。

 事故の原因はもっと別のところにあったのだ。


 車はそのまま暗い山道のカーブから崖下へと転落した。

 崖はおそらく数十メートルの深さはあったろう。

 ただで済むはずがない。

 助かる見込みはおそらくゼロに近かった。

 緑帆は、その時のことを思い出す度に、いてもたってもいられない気持ちになる。

 この異郷の地で帰るあてもなく、緑帆はしばらくの間、途方に暮れていた。

 これほどの無力感を味わった経験はなかった。

 だが、緑帆はいつまでも行動を起こさずに泣き続けるような弱い女ではない。

 武道家の娘として生まれた緑帆は、同世代の友達に比べると、随分と厳しく育てられたように思う。

 父は酒が入って口が滑らかになってくると、決まって緑帆に説教をしたものだ。

 ――どんな困難な局面でも自ら行動を起こし、道を切り開いていかなければならない。それが困難であればあるほど、自ら行動できるか否かが勝負を決するのだ。

 いささか古風な父の教えに、いい加減うんざりする時期もあった。

 この平和な世の中でそんなに困難な局面にどれだけ遭遇する機会があるというのか。

 だが、今となってはそんな風に考えていた頃が懐かしく思える。

 その教えを実践する時が到来したのだ。


 とにかく、彼を助ける道は存在するのである。

 緑帆はその道を自ら切り開いていくことを固く心に誓っていた。

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