名探偵財田成香のヒント(上)
今にもスキップをしそうな足取りで歩んでいく成香さんの後ろを私は追いていかれないように速足でついていく。三津首氏はというと、「確かにその謎も気になりますが、あとで解決編を楽しむことにします。それよりなんだかちょっと執筆意欲が湧いてきました」というようなことを言ってノートパソコンに向かってしまい(つまり三津首氏は仕事を始めたということになり、私は正月早々遊びほうけている我が身を少し振り返ってしまう)、『探検』メンバーは再び私と成香さんだけに戻った。
私たちが階段にさしかかった時、階下に人の姿が見えた。デカンタとワイングラスを乗せたトレイを持って階段を昇ってきた辺見氏だ。私たちはなんとなく、階段の上で立ち止まって辺見氏を待つ。特に待つ理由もないのだけれど。
「あ、お疲れス」
辺見氏はそう言って首を振る。おそらく、我々が「会釈」と呼ぶ仕草の簡略版であろう。正当な会釈の作法からは離れているような気がするが、辺見氏がそうするとなんだか美しいダンスの一部、という雰囲気が出てくるから不思議なものだ。
「別に疲れてないわよ。そのお酒は?」
「あー、吉田さんが、なんか飲みてってんで、これ持ってくんすよ」
吉田氏。黒いトレンチコートを着た、刑事のような男だ。寡黙も寡黙、そういえば私はまだ、吉田氏の声を一度も聞いていない。どんな声で、どうやって酒を頼んだのだろう。私と同じ好奇心を成香さんも抱いたようで、成香さんは辺見氏からすっと(それが当然のことであるかのように)トレイを受け取って、
「なるほどね。分かったわ。あたしが届けてあげるから、もういいわよ」
と言った。
辺見氏は、謎めいた美しい微笑みを浮かべて、
「マジっスか。助かるス。あざぁっす。じゃあそれ、飲み終わったらまあ部屋に置いといてもらっていンで、吉田さんによろしくおねしぁっす」
と答え、足取りも軽く階段を降りて行った。
成香さんは受け取ったトレイを右手一本で肩の上まで持ち上げ、左手でスカートの裾をつまんでポーズを作り、ウインクをする。私は久方ぶりに少し、茫然とする。
「えっと、ええ、なんというか……お似合い、というのもおかしいですが。素敵ですよ」
「ふふ。ありがと。さ、運ぶわよ。別に本筋とは関係ないけど、吉田氏の話、ていうか声をちょっと聴いてみましょう」
「うん、それは私も気になっていました」
そういうわけでいそいそと我々は吉田氏の部屋の前まで引き返して、ドアをノックした。しばらく間が空いて、静かにドアが開く。
吉田氏は我々二人の顔を見て、「これは珍しいお客さんもあったものだ」と言わんばかりに片眉をあげる。そして、成香さんからトレイを受け取ろうとするが――成香さんはすっとトレイを引いた。吉田氏は今度は両眉を上げ、少し肩を竦めたあと、ドアを押し開いて黙ったまま部屋の中に戻った。
「どうも、船着き場で自己紹介したけど、あたしは財田成香。探偵よ。こっちは黒星。あなたは吉田さんでいいのよね?」
吉田氏は無言で頷く。成香さんは、トレイをサイド・テーブルに置いて言う。
「ワインをどうぞ。お酌して差し上げましょうか?」
成香さんが言うと、意外にも敏捷な動作で、吉田氏はデカンタからグラスにワインを注いで、それを静かに口を含む。そして、目を閉じて満足げな表情を浮かべる。
「その……お邪魔してすみません。せっかくなので、ご挨拶に伺おうと思ったんですが。お邪魔でしたらすぐに失礼しますけれど、少しお話いたしませんか?」
私が口を挟むと、吉田氏は「別に話すようなこともないんだが――」と言わんばかりに、少しだけ眉根に皺を寄せる。こりゃあ引き下がった方がいいかな、と思い、私が成香さんの顔を窺おうとしたところで、吉田氏は「いや、しかし別に君たちが居て困るというわけではない。どうかな一杯?」と言わんばかりにデカンタを差し出す。少し迷ったが、私は冷蔵庫の上からコップを一つとり、その酌を受ける。
ワインを一口含んで、驚いた。正直言って、ワインより日本酒、日本酒よりも焼酎派の私で、ワインの良しあしというのは全然わからないのだが、それでも舌の上で色々な味と香りが踊りまわるような味は分かった。「うまい」とか「まずい」とか、そういう次元ではなくて、「いろいろな何かが存在する」ということがダイレクトに味蕾に伝わってくるかのようだ。
「こりゃあなんていうか……すごいですね」
と私が思わずつぶやくと、吉田氏は、「そう。こういう酒の前で言葉はいらない」と言わんばかりに静かに微笑む。その様子を見ていた成香さんが興味深げに私の手からコップを取って、ためつすがめつした後、舐めるように一口ワインを口に含んで、神妙な顔をする。
「ふうん……なんか、よくわかんないけど複雑ね」
「ワインの銘柄当てとかはできないんですか」
「うん。そんな、お酒飲まないもの。そういうのは山岡士郎にでも任せておけばいいのよ」
「『美味しんぼ』は探偵ものではないですけど、読まれるんですね」
なんとなく締まらない空気だ、と思った。こういうのは、なんていうか、これはボルドーのなんねんものののなんかで、なんかのにおいがする、みたいなことを誰かが言って、おお、みたいな空気を作るべきではないかと思ったが――それができる人物はこの中にはいないようだった。
ただ、悪い空気ではなかった。私と吉田氏は静かにワイングラスを(私はコップだが)傾け、成香さんは冷蔵庫から今度はグレープフルーツ・ジュースを取り出してそれを静かに飲んでいた。穏やかな時間が流れた。
「吉田さんは、何のお仕事をされているんですか?」
なんとなく弛緩した私が尋ねると、吉田氏は黒いブルゾン(そういえば、当たり前だが吉田氏は黒いトレンチコートは脱いでいた)の内側に手を差し入れ、チョコレート色のパスケースの様なもの――ただしそこには金のエムブレムがくすんだ輝きを放っている――つまり、いわゆるところの警察手帳を取り出した。
うわ。本物だ。いや警察手帳が本物かどうかは私には判断できないが、さすがにこの館に招待されているわけだから、偽警官ということはないだろう(とその時は思ったが、良く考えるとルパンなんかのように、警官を装って盗みをはたらく泥棒なんかだったとしても、中村氏のお眼鏡にはかないそうな気もする。実際、偽警官ではなかったわけだが)。本物、というのはようするに、本当に犯罪捜査に携わる人物が来た、ということだ。
別に成香さんが「すごい名探偵」「よく事件に出会う」というのを疑うわけではないが、一人はミステリ作家、一人は医者で、言ってもそれなりに平和な存在であったが、警察は当然――『本物』の犯罪を捜査するわけで、少しばかり私は緊張する。
吉田氏は「別にあなたが悪いことをしているわけではないのだから」と諭すように苦笑して、警察手帳を懐にしまう。そうして、再びワインに向き合いだす。私はなんとなく残ったワインを飲みほして、成香さんの方を見る。
成香さんも頃合いだと思ったのだろう。吉田氏にこう話しかけた。
「お邪魔したわね。あたしたち、これからこの屋敷に隠された謎を解き明かすために『探検』に行くんだけれど――あなたも来る?」
もちろん、吉田氏は首を振った。ただ、再び片眉を挙げて、「謎なんてあるのかな?」という顔をした。
成香さんは再びスマホを取り出し、見取り図を示す。そして窓についての説明をする。吉田氏は少しだけ考え込むような顔をして――スマホの表面をなぞる。何かを指し示そうとしたのだろうか? いや、そうではなさそうだ。何故なら吉田氏は、「申し訳ない、こういう機械の操作には慣れていないもので」というような、バツの悪そうな顔をしたからだ。そして、何事もなかったかのように、ワイングラスにデカンタからワインを継ぎ足した。私と成香さんは一瞬顔を見合わせ、どちらともなく部屋を出ることにした。部屋を出る間際、吉田氏は子供のように無邪気に手を振った。ばいばい。
「と、余計な時間を使っちゃったわね。まあ夕食まではまだしばらくあるから問題ないけれど。それにしてもダメね。せっかくこんな館に招かれたって言うのに、誰も真剣に謎に取り組んでないんだもの」
「そうは言いますけれど、まずそもそも『謎』があるってこと自体、間違っていたりしないですよね?」
間違って、という言葉を聞いた瞬間、成香さんの瞳の端がぴくりと揺れる。
「誰が間違ってばっかりの迷探偵ですって?」
「誰もそんなことは申し上げておりませんよ」
「ふん。後でびっくりさせてやるんだから。……でもとにかく、あたしも『確信』が欲しいわ。早く行きましょ」
「ええ、行くのはいいですが――一体どこへ?」
「決まってんじゃあない! 外よ、外。屋内で『探検』なんてしたってしょうがないでしょう?」
結構屋内を探検してしまったような気がするが――どうやら成香さんが探しているもの、『確信』とやらを得るのに必要なものは、館の外にある――あるいは、館を外から見ることでわかるもの、のようだ。それは一体なんだろう?
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