名探偵財田成香の因子の回転
「それはなかなか良い問題ね。黒星にしては気が利いているじゃあない」
「え、あ、はあ。そうですか」
そうか? 子供だましだ、名探偵を舐めるなくらい言われて怒られることも覚悟の上で私は出題したのだが、成香さんはなんだかとても楽しそうにしている。
一応言い訳をしておくが、別に私は黄十字が胸倉を掴まれ吊り上げられたことを内心どこかで羨んでいるとか、だから成香さんを怒らせてそういうシチュエーションを経験したいとか、そうした気持ちは(加えて言えば、そういう趣味・性癖と言ったものも)まったくない。このあたり誤解を招きそうなのであえて説明をしたわけであるが、しかし説明をすると余計に誤解が招かれそうになるのは(つまり、まったくそんなことも考えもしなかった清い心のみなさんの心に疑惑の影を植え付けてしまうという意味で)、この世の不条理の一端を示しているような気がしてならない。
私が内心でそういう不毛な葛藤をしているのを尻目に、成香さんは言う。
「『あいたりひらいたりしてるのは何故か』を答えれば良いわけね?」
「えっと、まあ、はい。そうです」
「ふふ。『まあ、はい』ね。黒星のその相槌にはもう騙されないわよ。つまり、この問いは一見そこに謎が集約されていそうに見えるけれど、本質は別のところにある――そうね?」
本質。
いや本質って言われても。
こんなこと説明するまでもないことだし、当然成香さんも(そうしてみなさんも)今までの人生で何千回となくこの手の出題を受けていただろうから、つまり私は「何も知らないですよ」ということをアピールするためにこの問題を出題したのだった。本質も何もあったものではない。私は予想外の事態に、少々困惑する。
困惑する私に、成香さんは言った。
「『誰もいない森で木が倒れたとき、音はするか?』」
「は?」
成香さんがどこかで聞いたことがあるようなフレーズを言った。
「ジョージ・バークリの思考実験よ。さあ、黒星はどう思う?」
どう思う、と言われても。
木が倒れたとき、それはもちろん倒れ方にもよるが、いわゆるめりめりばきばきといった形で木が倒れた場合、当然その倒壊は周辺の空気を振動させる。音とはつまり空気の振動であって、だから音はすると言って良いのではないか?
「そうかしら? だったら黒星、今音は聞こえている?」
成香さんは、慈母のようにと言っても良いくらいに、優しく、そしてどこか満足げな微笑みを浮かべて私に尋ねる。
「え? は? その、成香さんの声以外に、ですか?」
「そうよ」
「いや、その……はっきりした音は聞こえてないです」
私がそう言うと、成香さんはどこからともなくスマートホンを取り出し、私に画面を見せる。その画面にはなにがしかの音声が再生されていることが示されている。
「『モスキート音』って聞いたことあるかしら? ヒトの可聴域は20 Hzから20000 Hzだって言われているけれど、加齢に伴ってだんだん高周波数帯域に対する感度は低下していくのよね。うふふ。今再生しているこれは17000 Hzの周波数なんだけど――あたしにはわりと耳障りな音が聞こえるんだけど、黒星はその音は聞こえないのよね」
「た――しかに」
成香さんの言うとおりだった。
成香さんのスマートホンは(なぜ成香さんが都合よくその様な音声ファイルを持っているか、はあえて問わないことにして)確かに1秒間に1万数千回という非常に高い頻度で空気を振動させている。
にもかかわらず、私にはその音が聞こえない。
つまり。
「聞く人がいないときには、『音』はしない――と、そういうことですかね」
「そう。とすれば、黒星の出した問題のポイントは、『あいたりひらいたり』というところではないことが分かるわ。つまりこの問題の本当の争点は――『誰もいない無人島』、つまり誰も観測していないはずの門が、なぜあいたりひらいたりしていることが分かるか、というところに他ならない、ということね」
なるほど。
いや、なるほどじゃあない。これはどう考えても、そんな壮大な問題ではない。しかし、熱を持った瞳で語り続ける成香さんから、私は目を離せない。
「さて、そうすると『あと猫も。とにかく目立って大きい動物はいないです』なんてのはミスリードだということが分かるわね。小さい動物はいます、たとえばたくさんのネズミとかと言った答えは否定される。だってそれも」
「観測されて――いないから」
私の頭の中で何かが爆ぜる。
名探偵の、条件は。
「ふふ。観念したかしら? 同じように、門の方に何かしらの欠陥があって、予想外に『あいたりひらいたり』しているわけではない、ということも分かるわね。つまり、誰もそれを観測していなくても、明らかに『あいたりひらいたり』しているというのは、どのような条件であればあり得るか?
――これはそういう問いなのよね」
「え、ええっと」
部屋の窓は閉め切っている。ここはただのやや古いビルディングだ。そのはずだ。
だけれど、私はなぜか風が吹き抜けるのを感じる。
荒野に胸を張って立つ、成香さんを吹き抜ける風を。
私の背筋はなぜか、ぞくりとする。
「だったら答えは簡単よ。いい? その島には、昔住人がいた。小さい島だったのかしらね。雨が降ったりすると、すぐに川があふれて洪水が起こる。そこで住人は、貯水池か何かを掘って、川の水位が上がった時にはそこに水を流すために――水位に応じて自動的に開閉する水門を作ったのよ」
「水――門」
「そ。でしょ? 電動や手動管理じゃあない水門ってのもあるわよね。水位変動に応じて、自動的に開門するやつ。旭川にもそういう水門作ってる会社があるから、ないとは言わせないわよ。
さて、時が流れて、その島に住む人間はいなくなった。でも――水門は残っている。もちろんあまりにも長い時間が流れれば動作の保証はできないけれど、無人島になってすぐという時間に限って言えば――観測者が誰もいなくても、動物も住んでいなくても、『あいたりひらいたり』していることが確実な門、というのは想定できるわけよね。
付け加えれば、『あいたりしまったり』じゃあなく、『あいたりひらいたり』なのは、ぎりぎりの水位変動の時に、門が締まり切らずに開く動作を繰り返すことを示しているのよね?」
成香さんはふふふ、と誇らしげに微笑み、私の目の前で(お忘れかもしれないが、成香さんは私の目の前のデスクに腰かけている)挑発的に足を組み替える。
「え――っと、はい。そうですね。それ以外、考えられないですね」
「やったあ」
成香さんは机から飛び降りて、無邪気に飛び跳ねる。
私はしばし茫然としたのち、さっき頭の中を爆ぜた考えをほとんど無意識に呟く。
「あのですね、成香さん」
「なあに?」
成香さんは、無邪気な声で問い返す。
「私、思ったんですが――さっき、名探偵の条件は『事件に出会うこと』とおっしゃいましたよね」
「言ったわよ? 何か間違ってる?」
「いえ、それも正しいと思います。ただですね。『それを知覚、あるいは観測されていない』のならば――名探偵の存在証明はできないのではないですか」
成香さんは少しだけ首をかしげ、一瞬考えたのち、不敵に笑う。
「なるほど?」
成香さんのなるほど、のどが歌うようにハイ・トーンになる。まるで「続きを言いなさい」と催促するかのように。
「だから――だからその、えっと」
「黒星が?」
「はい。えっと、私が」
「あたしの?」
「そうです。あの、分かってらっしゃるなら、もう」
「あたしの、何?」
「えっと――成香さんの、観測と――記述をしてみたい――と思うんですけど」
成香さんは笑顔を浮かべて(私はそれを見て、なんだかとても気恥ずかしくなる)、短く言う。そこにわずかに威厳さえ漂わせて。
「やりなさい。書いたら、必ず見せるのよ」
「はい、ええ、もちろん」
成香さんは楽しそうに再び『招待状』を取り出し、また孤島の館の謎について思いを馳せているようだ。とても機嫌が良さそうで、私の気分まで浮き立ってくる。正月早々仕事を休む算段を立てることも忘れ、私は完全に弛緩して(あるいは油断して)言う。
言ってしまう。
「しかし、さすがは成香さんですね。こんなありふれた問題に新しい答えを出せるなん」「ちょっと待ちなさい」
上機嫌で鼻歌まで歌っていた成香さんが、ぴたりと表情を凍らせる。
おっと。これはしまった。藪蛇とはまさに、このことだ。
急に私は緊張し、身を縮こまらせる。口笛でも吹いてごまかしたいところだが――もちろんそれが成香さんに通用するとは、とてもではないが思えない。
凍り付いた表情で成香さんは言う。
「ありふれた問題って、どういうこと?」
「え。いやだから、そのう――わりに有名なひっかけなぞなぞですよね、これ。ご存じなかったですか?」
私がそう問うと、久方ぶりに聞く低いくぐもった声で成香さんは言う。
「知らないわよ。ええそうよ、どうせあたしは友達もひとりもいないからなぞなぞの出し合いっこなんてやったことないわよ! そういうので盛り上がったことも生まれてこのかた一回もないわよ。別にうらやましくなんてないんだからね。ん? なんか文句あんの?」
ええっとぉ……。
突然悲しい過去をカミングアウトされてしまった。戸惑う私に、成香さんは言う。
「そのありふれた正解とやらを言いなさい。早く。今すぐ。速やかに」
ううん。
少しだけ迷うが、しかし問われてしまえば答えるしかない。私はなるべくなんでもない風に言った。
「いや、えっと、その、『
「はあ? だったら『たり』ってつけるのおかしいじゃあない、どういうことよ?」
「私に言われましても。えっとその、昔からそういうので有名っていうか」
「ええ?」
成香さんは再びスマートホンを取り出して、何やら検索を始める。
「はあ? 何よこれ……え、本当だ……有名なんだ……。は? エレベータが故障していて、って、開きっぱなしだったら故障でもなんでもないじゃあない……アンフェア……」
ぶつぶつと成香さんは呪詛のようにつぶやきながら、スマートホンを繰っている。
見るに見かねて私は言った。
「だからそのぅ、成香さんの解釈で正解でいいのでは……」
「ダメよ! 探偵ってのはね、どんなくだらないことでも知識を持ってないといけないの。こんな『ありふれた』問題で間違っているようじゃあ、あたしもまだまだね。黒星、次!」
「次、とは」
「こういう問題、詳しいんでしょう? 『嵐の惨劇荘』に行く前に、マスターしておきたいわ」
「マスター、とは」
私はごくわずかに抵抗をするが、しかし考えてみると抵抗するようなことではない。結局、この後私はさんざんなぞなぞを出題させられた。
ここから先の話は、大した話ではまったくない(これまでもそうだって? 確かにそうかもしれない。でも私にとっては、それなりに大した話なのだ)。
しかしまあ、私は成香さんの『語り部』だ。
せっかくなのでハイライトを紹介しておこう。
「トラが主役のドラマって何?」
「山月記!」
「確かに。でも違います。大河ドラマです」
「犬とコアラがボートで競争しました。負けたのはどっち?」
「コアラは一定の握力があるから、オールが持てる。ということは犬ね?」
「いや、まあ犬なんですが。「こ」がない、つまり漕がないので、犬です」
なぞなぞを聞くたびに、唇に手をあてて考え込む成香さんの真剣な表情を見ながら、ふと私は考える。
私は(言うまでもなく)世の中のことは何も知らない。知らないことばかりだ。
でも成香さんにも知らないことはある。
それがなぜだか私には少し嬉しかった。
願わくば――願わくば、成香さんにもそう思っていて欲しいと思う。
私は成香さんの過去を良く知らない。ひょっとしたら悲しい少女時代(成香さんは今でも十分『少女』で通用するのだが)を過ごしていたのかもしれないが、そういう過去がきっと今の成香さんを作っている。
そうであったことが、悲しい過去があったことが、今の成香さんにとって、何かしらの価値を持ってくれればいい。
今私とこうして話していることが、今まさにこの時に『ありふれた』なぞなぞなんかについて語り合うことが、成香さんにとって楽しいことであればいい。私にとって、そうであるように。
そんなことを考えながらまたぞろぼんやりとしていると、成香さんは頬を上気させて「次!」と声を上げる。
私は笑いを堪えきれなくなって、くすくす声を上げながら、それでも脳内を総ざらいして新しいなぞなぞを成香さんに言う。
そのようにして、私たちの年は暮れていく。
(私にとっては)大きな事件があったけれど、総括すると良い一年だったなと――私は素直にそう思う。
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