名探偵財田成香の幕間劇

名探偵財田成香のその後の検定

 ふと気づくと成香さんが両手をクロスさせ、私をじぃっと見つめている。

 私はようやく我に返り、成香さんの大きな瞳を見つめ返す。

「え、っと」

「聞いてた? 話」

「えっと、正直あまり」

「もう。とにかく机を拭きなさいよ。招待状、見せられないじゃあない」

 そういえばそうだった。私は自分が茶を零したことすら忘れ、よりにもよって腕章のことなんかを考えていたのだった。


 年甲斐もなく。


 そんな言葉が脳裏をよぎるが、気にしないことにする。

 私は給湯室に走って行って、濡れたズボンを軽くふき取り、布巾を持って部屋に戻る。成香さんは私のデスクの濡れていない隅に腰かけ、私がなみなみ注いだ茶を啜っている。


 それ、二杯目なんですけど。

 そう声を掛けるのもなんとなく、それこそ年甲斐もなく変なことを考えていると思われそうなので、私は静かに濡れた机と、それから床を拭き取る。


 ようやく落ち着いた私は、改めて『招待状』を見せてもらう。



招待状

                               財田成香 様

拝啓

 貴殿におかれましてはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

 この度、私の長年の夢であった、嵐の惨劇荘が無事完成致しましたので、ご招待申し上げます。私は古今東西のミステリを愛好しており、絶海の孤島に位置する館に憧れを持っておりました。嵐の惨劇館は、まさにそのような絶海の孤島にあり、いつ殺人事件が起こってもおかしくないような、そのような雰囲気を目指して作成された建物です。いくつかの仕掛けや、隠し通路も作成されており、貴殿におかれましても楽しんでいただけると思います。

 もちろん、殺人事件が起こってしまっては困ります。ただ、孤島の館にはどうしても殺人事件がかかわるのが常。そこで名探偵と名高い財田様のお話を、どうかこの惨劇館の完成に添えてはいただけませんでしょうか。別紙にて、詳しい日程と地図を同封致しましたのでご確認ください。僭越ながら、こちらまでの旅費と滞在に関わる費用は、私どもでご負担させていただきますので、どうぞご参加いただければと思います。

 色良いお返事を期待しております。

敬具


中村誠司 拝


 なんというか、正直言って、何考えてるんだこの人、という文面だった。

 少なくとも今まで私が生きてきた道とは絶対に交差しない文章だ。

 これは成香さんの力だろうか? 強烈な引力のようなものが私の人生を捻じ曲げている。なぜだかそんな気がした。でも嫌な気分では全然なかった。ただ、それがとてもおこがましい考えのような気がして、それが少しだけさみしかった。


「はあ。いやはや。感服です。こんな人間がこの世に存在するんですねえ。というかこれ、本名なんですかね?」

「どうでしょうねえ。名前が先にあって趣味に走ったか、趣味が先でペンネームみたいに名乗っているか。難しいところね。それ、何か重要?」

「あ、いや、とくには。と言うか、これ私が行っても大丈夫なんでしょうか?」

「だいじょぶよ。『嵐の惨劇荘』を作るようなお金持ちよ? 一人や二人増えたって、文句を言うわけないでしょう」

「ま、ま、そうかもしれませんけども。えっと、確認していただくわけには……」

「別にしてもいいけど、中村氏は住所しか教えてくれてないのよ。今が26日で、出発は元旦でしょう? となると、返事が届くかは微妙なところね。大体ダメって言われたらどうするわけ? ついてこないの?」

 成香さんは無垢と言っていい瞳で、私を見つめる。「そんなわけないよね?」みたいな顔で。その顔を見ていると、「ダメって言われたら流石に行けないです」というような、年相応の言葉がどうしても口から出てこない。


 私が何かを言おうと口をぱくぱくさせていると、成香さんは言う。

「ま、たぶん大丈夫よ。どーしてもって言うなら、飛行機代くらいなら持つわよ?」

「いやいやいやいや。そういうことでは。ま、それならええ、一応お手紙だけ送らせていただいて、ですね。お伺いじゃあなくて、行きます、と伝えさせてもらいます」

「それがいいわね」

 成香さんはにひ、と笑って、スカートを翻してバレエ・ダンサーのようにくるりと回る。

 私はしばし、茫然とする。


「ところで、その――先ほど、『絶対何か事件が起こる』と仰ってましたが、どうなんでしょう。まあ、隠し通路だなんだと用意してくださってるようですから、何かしら企画的なものはあるんでしょうが――」

 私はそう尋ねると、成香さんはひらり、と私のデスクに飛び乗って、私の目の前で足を組んで挑発的な視線を向ける。


「ねえ黒星?」

「はい」

「黒星は、名探偵の条件を知ってる?」

「はあ。名探偵。やっぱり事件を解決することなんじゃあないですか」

「んふふ。外れ。別に名探偵じゃあなくったって、犯人と一対一になるまで生き残っていれば解決は可能じゃあない。そりゃあ早いに越したことはないけど、名探偵になるってのは、それ以前の問題なのよ」

「では、変装が得意」

「それはホームズ? あのね、変装しない名探偵なんて山ほどいるでしょう。違うわよ。もっと大事なことがあるの」

 

 もっと大事なこと。

 変装はともかく、探偵にとって事件を解決するより大事なことがあるんだろうか? まあ、成香さんがそう言うなら間違いないのだろうけれど。「間違いない」というフレーズから連想して、推理を間違わないこと――なんて意地悪を言いそうになるが、ぐっとこらえてほかの答えを考える。けれど、私の錆ついた脳は、これ以上働いてくれそうにない。


「ううん。えっと、何かヒントはありませんか?」

「そうねえ。――名探偵コナンとか、金田一少年の事件簿とか、そういう漫画は知っているでしょう。あの人たち、おかしいところはない?」

 

 おかしいところ? いや、おかしいと言えば何もかもおかしいような気もするが。私は頭を働かせる。

「どっちも高校生なのに死体に怯えないところとかですか」

「ふふ。そうね。四十点。彼らはなぜ死体に怯えないと思う?」

 いちいち怯えてたら週刊漫画では話が進まないから、ではなさそうだ。少し考えて、私は言う。


「死体を見慣れているから」

 私がそう言うと、成香さんは少し上機嫌になる。

「そう! その通りよ。じゃあなぜ彼らは死体を見慣れているのかしら? 黒星は死体を慣れるくらいに見たことがある?」

 この年になると、葬式で棺の中に納まっているご遺体なら何度かは見たことがある。けれど。

「そういうことを言っているんじゃあないわよ」

「そうですよね。まあ、確かに頻繁にはないですね。で、なるほど、確かに彼らは日常生活でばんばん死体に出会いまくり、もっと言えば殺人事件に巻き込まれまくりで、それはおかしいところと言えますね。そういうことですね? 名探偵の条件は、事件に出会うことだと。しかしええっと、その条件だとかんなぎ弓彦は名探偵じゃあなくなってしまいますが」

 私は昔読んだ推理小説を思い出して言う。巫はなんて言っていたんだったか。名探偵の資格は、名探偵の自覚を持っていること、だったか? 


「そう? 巫だって結局のところ、事件には出会っているじゃあない。いい? 名探偵はね、事件に出会わないと、その存在と意志を証明できないの。逆に言えば、事件に出会える人間こそが名探偵の資質を持つと言えるわけよ。つーまーり! このあたしがこんな怪しい屋敷に出向くからには、必ず事件が発生するに違いないわ! 絶対に間違いないわよ」

「そう――ですかねえ」

 確かに、――なんて言葉をどこかで聞いたことがある気がする。とはいえ。それは本当に正しいのか? なぜかどこかが、私の胸にひっかかる。さっきの成香さんの【名探偵の条件】は、果たして十全なものと言えるんだろうか?


「だからさっき、孤島で起こりうる謎の対策について話してたのに、黒星ったら全然聞いてないんだもの。あたしは黒星が被害者になったらイヤ――その、なんていうの? えっと、もう! 聞いてばっかりじゃあなくって、黒星も何か謎を提供しなさいよ! なんかないの? 孤島に関する謎とかさあ」

 あるわけがない。私は平々凡々たる人生を歩いてきた人間で(いや結婚前に婚約者に逃げられる人生を平々凡々と呼んで良いならば、だが)、実際のところ「島」と呼ばれるところに足を踏み入れたことさえない(これも、島国日本をノー・カウントとするならば、だが)。それでも成香さんの瞳と、それからぴったり止まった黒いシャツのボタンを見ていると、なんとなく「ありません」とは言いたくないような気持ちになる。仕方なく私はこう言う。


「え……っと、じゃあ。ある無人島に門があります。無人島なので人はいません。あと猫も。とにかく目立って大きい動物はいないです。もちろん、と言っていいか分かりませんが、風も吹いていません。ところが、その門はあいたりひらいたりしています。それは何故でしょうか?」

我ながらなんというか、くだらない謎々だった。怒られるかな。恐る恐る私は、成香さんを見上げる。


ところが。


 それを聞いた成香さんは――なぜだか瞳を怪しく輝かせた。

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