名探偵財田成香の不在
それから私は、自分でも驚くほど「日常」の中に戻った。
使い込みの額はそれなりに甚大な被害と言えたが、しかし我々が事件の発生まで気づかなかった程度と言えばそんな程度で、従業員の給与とビルのテナント料金を払うくらいはきちんと残っていた。私はこれでも取締役社長ということになっているので多少減俸という形にしたが、お陰様でそんなに困ることもない。
青丸と私で経理部分を担い、さすがに売り物にできなくなった「星のカケラ」は店内にディスプレイして、何日かしたらもうそれら全てが当たり前になった。
何人かの客が来て、いくつかの宝石を注文していった。
そして静かな日々が戻って来た。
そんな中、私は知人から、ある実業家氏(いや私だって虚業家というわけではないのだが、なんというか、「わかりやすい実業家」という風貌の男だった)が、北海道に大きなレストラン・チェーンを開くという話を聞いた。うちの会社は主には宝飾品を扱っているが、(成香さんにも見せたように、あるいは緑川が『凶器』に壺を選んだことからもわかるとおり)レストランの装飾に使うようなものも取り扱っているのである。そういうわけで、私は実業家氏に営業がてら挨拶をしに行った。
実業家氏が開こうとしているレストラン・チェーンはチェーンと言ってもかなり高級志向のものであるとのことで、内装や装飾品にもかなり凝ったものを用いるという話だった。なんのかんのと話をしているうちに、宝飾品の方を多く発注する代わりに、壺だの絨毯だの絵だの額縁だの、そういう諸々は私が責任を持ってなるべく安く、統一感を持って揃えるという話になり、結構大きな商談を結ぶことになった。黄十字はオリジナルのシャンデリアやキャンドル・スタンドのデザインを求められ、四苦八苦しながらも楽しそうに働いており、また、実業家氏もそのデザインを気に入ってくれた。
というわけで非常に良い商売が出来、良い年を迎えられそうだと思ったのであるが――問題が一つ発生した。というほど勿体ぶって言うことではなく、ようするに扱うモノとカネが増えると、経理の手間が非常にかかるという至極まっとうかつ当たり前の問題であった。
私は岐路に立たされた。新たに経理を雇うか、無理して私と青丸で経理業務を続けるか、である。これまた当然のことだが、社員は皆新たに経理を、それも早急に雇うように私をせっついた。まあそれはそうで、緑川が『復帰』するのはいつのことになるかわからないし、しかも緑川は使い込みまでやらかしている。経理が確実に必要な状況で、そんな不確かな状況の人間のために新しい経理を雇わずに待つような義理はこちらにはない、ということである。
二度同じことを言うが、まあそれはそうだ。ただ、それはそう、ということだけでこの世がすべて進行していくのであるならば、我々はきっともっと住みよい世の中に暮らしているだろう。成香さんに聞かれたら、お人好しにもほどがあると馬鹿にされそうだが、なんとなく、ここで経理を雇ってしまうと永遠に緑川が目覚めないようなそんな気がしたし、せっかく目覚めた緑川にもう君の席がないと言わなければいけないことを想像すると、なんとなく胃のあたりがしくしくするような気持ちになった。
困った困った、とつぶやきながらネットで「短期 経理 雇うには」「少しの間だけ 会計 依頼」などと益体もないことを検索していると、不思議な偶然というべきか、一風変わった男から営業の電話が入った。
そんな職業で飯が食えるのか、と正直驚いたものであるが、その男は「なんでも屋」というあやふやな職業をしているという。簿記の資格なんかは持っていないというが、やる気と熱意はあり(というのをまるでやる気と熱意のない口調で男は語った)、雇用期間も何も定める必要がなく、いつでも来てほしいときに二万円だけ用意すれば一日カバン持ちから事務作業でもなんでもする、という。
正直、凄まじく怪しい、と思った。ただ、男は「まあ、必要な時に、必要な場所に行く、みたいなことですよ」と言った。私の脳裏になんとなく成香さんの気の強そうな顔が浮かんで、とにかく一度来てみてくれ、と頼むことにした。
男は、(「なんでも屋の助手」という、この世にそんな職業で飯を食っている人間が本当にいるのだろうか、とさすがに首を捻らざるを得ない職業の)若い女の子を連れてきて、私の話を聞いた。何を考えているか良く分からない男だったが、作業環境を見渡して「まあなんとかなるでしょう」と陰気な口調でそう言い切った。
で実際、なんとかなった。まあ作業自体は私と青丸で他の作業の合間になんとかしていたことだから、平均的な頭脳の大人が二人それにかかりきりになれば、なんとかなるのは当然だったが、相当助かったのは事実である。私は喜んで給料を支払った。ところで「二人」と言うのは、その男と助手の女の子のことで、つまり女の子も男と一緒に働いていた。私は女の子の給料のことを尋ねたが、男は口の中でもごもごと、「まあ見習いなので」というようなことを呟き、結局二万円から変わりはなかった。
女の子はどう見ても高校生、ギリギリで大学生といった風情だったのに朝から晩までオフィスにいる。はじめ私たちはなんだか気まずいような、もっと言うと「これは違法な何事かに巻き込まれているのでは?」という印象を持ったが、女の子はいつもにこにこしているし、宝飾品は目を輝かせて眺めるし、昼休憩にお菓子などを食べていると発光しているのではというレベルで輝く笑顔が見られるので、なんだか娘が職場に来ているような(と言っても実際に娘がいるのは赤枡だけなのだが)気持ちになってきて、最終的には全体の士気は向上したのでだんだんどうでも良くなってきた、というよりむしろ今日も来るかな、と少し楽しみになるくらいのことだった。私は改めて女の子の分の給料を出そう、と提案したが、男は「見習いなので」というようなことを繰り返すばかりだった。
男は(私たちが良く分かっていなくて使っていなかった)会計用のソフトウェアを見つけ、使用許可を得た後はそのソフトウェアで処理を始めてくれた。書類の整理も行ってくれ、私と青丸は男に言われるがまま、お金を左に右に持っていき、数日で会計業務は相当落ち着いた。その隙に男はうちの会社に使うすべての操作を網羅したソフトウェアの独自のマニュアルを作成してくれ、「これ見ながらやれば、まあなんとかなるでしょう」と私に告げた。
私はかなり満足した。礼を言い、男には実業家氏の業務が終わるまで、念のため出勤してもらうことにした。「マニュアルを作った意味がないんですが」「金の無駄ですよ」と男は言ったが、では、ということで通帳の管理も任せ(男は「信用しすぎでは?」と訝ったが、「これが必要なことなんだ」で押し切った)、実際の出納も一手に担ってもらうことにした。
あるとき男は言った。
「ここまで全般的な会計業務を求めているなら、さっさと本職の経理を雇うべきだと思うんですが。探してきましょうか? 信用できそうな人間を」
私は少し考えて――私の事情を話した。
緑川のこと。
『彼女』のこと。
そして、成香さんのことも。
正直別にそこまで言わなくても、「経理が入院中なので」くらいで良かったのかもしれないが、やはり大事なことは言った方がいいと思ったからでもある。とはいえ実際のところは、誰かに成香さんの話をしたかっただけなのかもしれない。
男は眉根を寄せて深刻そうな顔をしながら、唇のあたりが面白がっているように緩むという器用な表情をして言った。
「はあ、まあ、分かりませんが、分かるような気もします。黒星さん。年長者にこういうことを言うのもどうかと思いますが、俺の経験から言うとですね――そういうのは、続きますよ」
「続く?」
「はい。続きます」
何を言っているのかは良く分からなかったが、男はそれ以上説明せず、黙々とパソコンを弄り始めた(後で分かったところによると、どうもこの男は『マニュアルを作成することが趣味』らしく、他のソフトウェアについても業務に必要そうな部分を見つけ、マニュアルをせっせと作っていたという。無害でありがたい趣味であるが、どうも変わった人間だな、と私は思った)。
だから、そうか、とだけ答えて、私はあいまいに頷いた。
殺人事件が続く、ということではないといいなと思った。
12月に入ったころ、実業家氏の仕事は終わった。なんとなく名残り惜しかったが、「なんでも屋」の二人ともお別れだ。簡単な食事会をして、解散した。
翌日男がうっそりと訪ねて来て、ターコイズを使った、少し変わったデザインのバングルをクリスマスまでに作れるかと尋ねた。もちろん私たちはそれを快く引き受け、私は男が残したマニュアルを見ながら会計処理を済ませた。なんだか少しだけ奇妙な気持ちだった。「あの子に贈るんですか?」と黄十字が尋ね、男は照れたのか、「まあ、その、サンタクロースとの約束があるんです」と訳の分からないことを答えた。
クリスマス前は、宝飾品店にとって稼ぎ時である。一年の中でもトップクラスに、この時期の売り上げは大きい。とは言え私の店は固定客が多いのであるが、それでもふらりとカップルたちが立ち寄って、宝飾品を眺めていく。私もなるべく店に出て、応対に勤しむことになる。会計業務はやや忙しく、またあの男を呼ぼうかと思ったあたりで――『彼女』から連絡が来た。緑川が、ついに目を覚ました、という。
しばらくリハビリを含めて療養が必要らしいが、私はほっとした(そういえば、説明をしてはいなかったが、横領というのは刑事罰があるが、初犯で示談が成立し、反省の色がある場合は『起訴猶予』ということができるらしい。で、私はそれで良いとは伝えた)。元気になったら戻ってきてくれと伝えるようお願いをした。
ところが、彼女は固い声で、「緑川は、私の実家で働いてもらいます。お金は必ず返します」と言った。
そういうことはもっと早く言ってくれないかな、と思ったが、私はなんだか彼女の声が怖くて、そうか、分かったと言って電話を切った。経理を探さなくてはいけないな――と思った。
私は男に連絡を取ってみた。男は何か言いたげだったが、おそらくそれを飲み込んで、「わかりました」とだけ言った。そして、その翌日には、ひょろりとした若者がやってきた。経理については今勉強中で、年度内には資格も取ろうと思っているが、作業内容は男に聞いて知っているのですぐに働く、ということだった。はじめは少し戸惑いがあったが、少なくとも粗忽ではないようだし、気働きがいい若者だったので、私たちは無事にクリスマスの商戦(と言うほど戦ってはいないのだが、相対的に)を乗り切ることができた。
そして12月26日。それまでクリスマス一色だった街が、突然正月ムードに代わるこの日が私は結構好きで、のんびりと茶など啜って過ごしていた。なんとなく、何もかもが、きっちり収まるべきところに収まったと思った。これが短い物語だったら、ここがたぶんエンドマークだ。
そして、黒星六郎太は、いつまでもいつまでも幸せに――は言い過ぎにしても、静かに、平穏に暮らしましたとさ。おしまい。
そんな感じだな、と思いながら、私は二杯目の茶を入れた。
と。
何やらばたん、とか、ばん、とか、ぼん、みたいな音が連続し、最終的に社長室のドアが、ばあん、と押し開かれた。
私は驚きのあまり、茶を注ぎ続けていることを忘れていた。湯呑の許容量を超えた茶が私の膝にかかり、私はその熱さで我に返った。そしてなんとか、言葉を絞り出した。
「な――るかさん」
「そうよ!」
と言って、成香さんはびしっと私を指さした。そして言った。
「待たせたわね! さあ、行くわよ!」
「い――行くって、どこへ」
「ふふふ。聞いて驚きなさい! 『嵐の惨劇荘』、孤島に浮かぶ富豪の別荘よ!」
「え、あ、はあ?」
つかつか、と成香さんは私の(茶で浸された)デスクに歩み寄り、私に一枚の紙を差し出した。
「招――待状」
「そ。なんでも、ミステリマニアの金持ちがね、わざわざご丁寧に『嵐の惨劇荘』って名前の別荘を孤島に建てたんですって。ミステリ界の名士を集めて、この別荘の落成を祝うんですってよ。まったく、こんなの事件が起こってくださいと言わんばかりよね。でもまあ、あたしの名前を知ってるのは大したもんだし、ちゃんと招待するあたり好感は持てるわ! 今度こそあたしの名推理、見せてやるんだから。出発は元旦だから、ちゃあんと準備しておくのよ!」
「あの、えっと、全然飲み込めてないんですけど」
「飲み込むほどの話はないじゃあない。絶対何か事件が起こる館にあたしが招かれた。黒星はそこについてくる。そしてあたしの活躍を見る! オーバー!」
「いやいやいや。その、ですねえ」
私は茫然とした。
そして考えた。
正直に認めよう。とても面白そうだ、とは思った。いや殺人事件が起こって欲しいと願うわけではないが、成香さんと一緒にミステリマニアが建てた館に遊びに行く、というのはいかにも楽しそうだ。
ただ。
ただ、それは――私にふさわしくないような気がする。私は今まで平凡で、退屈な人生を生きてきた。たぶんきっと、これからも。そして、成香さんは退屈ではない、刺激的な人生を歩む人だろう。きっと私たちの道は違う。
そして私には、一応小さいながらも守るべき会社があり、そこの社長ということになっている。正月早々、会社を抜け出して遊びほうけるというわけにもいかない。
そうだろう? 黒星六郎太は、いつまでもいつまでも平穏に、静かに暮らしましたとさ。そういうエンドマークが、私にはお似合いだ。そう思った。
だから私は丁寧に断ろうとして――成香さんが真っ黒なYシャツを着ていることに気が付いた。襟の高い、首元に二つボタンが付いたYシャツで、成香さんは上まできっちりボタンを留めていた。そういうタイプのYシャツは、ひとつふたつボタンを開けた方がいいんじゃあないかと思って――
「えっと、はい。分かりました。行きましょう。楽しそうですね」
気づけば私はそう言っていた。
言ってしまってから、私はこの『旅行(と言っていいものだろうか?)』の間の業務をどうするか、頭を目まぐるしく回転させていた。
成香さんは、当然ね、と言わんばかりの笑みを浮かべて、『嵐の孤島の館対策』について滔々と語っている。あの陰気な男の、「続きますよ」という声が、私の脳裏になぜだかやけに大きな音で響き渡る。
成香さんは何かしゃべりながら右腕を天井に向かって突き出す。『探偵』と書かれた腕章が肩に向かって滑り降りる。
私はその光景に、民衆を導くジャンヌ・ダルクを幻視する。私も導かれていいものだろうか? いやしかし、私はもう答えを出してしまっている。そして、もし私が腕章を作るなら、なんと書くべきかなと――そんなことを考える。
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