名探偵財田成香の陰謀

「これから、どうするの?」

 財田さんは、なんだかとても優しい声色で私に尋ねた。だから、というわけではないが、私は素直に答えた。

「そうですねえ。とりあえず緑川の見舞いにでも行きますか。さっきの話、いやお人好しとは言われましたが、緑川に一応きちんと話しておかないと何か気持ち悪いですし。それにひょっとすると」「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさい」

 盛大に噛みながら財田さんは私の話を遮った。

「どうかしましたか?」

 私は素直に尋ねてみた。


 財田さんは、はあああああああああああああああ、と表現するしかない長くてわざとらしいため息を吐き、右手を開いて親指と小指でこめかみを抑えた。そして、さっきの優しい声色が嘘だったかのように、地獄の淵から蘇った冥王のような、暗くて低い声を出した。


「何。緑川、生きてんの?」

「え? あ、はあ、まあ。生きてはいます」

「馬鹿じゃないの」

「え?」

「生きてんなら本人に聞けばいいじゃあない」

「いや、意識が戻ってなくて。ただその、別に脳組織に異常があるわけではないらしくて、何か『目を覚ましたくない』事情があるみたいな、気がかりなことがあったとか、そういう精神的なことで意識を取り戻さないんじゃあないかってお医者さんも言ってましてですね。だからその、犯人の話っていうかとりあえず全部バレたけど、まあ会社的にはお咎めなしで、必要な分量刑を受けたらこっちに戻ってきてもいい、とは言ったんですが、やっぱりそれでは意識回復しなくて。でもさっきお話伺ったら、私のことを恐れているみたいなこともあるのかなあ、って思ったんで、これから病院行って、別にお前の奥さんのこととか気にしてないぞって言ってみたらなんか目を覚まさないかなあみたいな、そういう感じですね」

「あのねえ……」


 ぎゅ、とひときわ強くこめかみを抑えつけたあと、財田さんは叫んだ。


「そういうことは早く言えッ! この馬鹿黒星!」

「あ、えっと、はあ、すみません。でも別に本質的なところは変わらなくないですか?」

「全然変わるわよバッカじゃないの!? 『殺そうと思って殴った』のか、『死ぬかどうかは別としてただ殴った』じゃあ全然違うのよ! こんなの常識も常識じゃあない! あんたテレビで裁判とか見たことないの? 『殺意があったかなかったか』って重要じゃあない! あたしだってそれを知ってたらまたちょっと推理も変わったわよ!」

「そうですか? だって、『メッセージ』を遺せたわけですから、その間生きていることは確実でしょう? 殺すまで殴ってたら、口の中にネックレスを『隠す』なんてできないですよね?」

「え? あれ? ……あそっか」

 そう言いながら、なんとなく釈然としないような顔つきで、「確かにそうだけど……なんだろうこの腹立つ感じ……」と呟いていた。


「でも大体黒星はさあ、肝心なことを言わないのよね本当に。あなた犯人だけじゃあなくて、証言者の才能もないわよ。ほんとちょっと次はなんとかしてよね? 今のままなら、被害者くらいしか役ないわよ?」

「いやはや、面目ないです。その――精進します」

 とは言ったものの、被害者にはなりたくないものだ。

「大体名前がねえ。何よ黒星って。縁起悪い」

「確かに私の名字はちょっとねえ。『負け』ってことですからね。これでも宝飾品を扱う店の社長ですから、うん、確かに財田が名字だったらいいですけどねえ」

「……は?」

 それまで私を小馬鹿にするような口調で話していた財田さんが、急に挙動不審になった。なにやら両手をばたばたして、慌てたような口ぶりで言う。

「ちょっと、なに、その、え? だって、それって……いやそれはちょっと、そんなさすがに急に言われても、それは、いや、困るかって言うと、いや困るんだけど、でも、いや、いやって、すごくいやとかでは、え? でももうちょっと時間が、ていうか、そういう問題じゃあなくて」

「あの。財田さん?」

「はいっ!」

 背筋を伸ばして財田さんはものすごく良い返事をした。そしてまっすぐ私を見る。私としては、慌てる財田さんを落ち着かせたいだけだったのだが――つい、年甲斐もなくこんなことを言ってしまった。


「どうですかね。今後もたまにお話しできませんか。財田さんの名推理の話も聞きたいですし」

「ふ、ふん。……いいわよ。今度はぎゃふんと言わせてやるんだからね」

「そうですか」


 それを聞いて私は――なんだかおかしくなって腹の底から笑ってしまった。こんなに笑ったのは数年ぶりのような気さえした。


「ふふふ。さて、名残り惜しいですが、私はこれで。寒くなってきたので、財田さんもお体に気を付けて」

「ちょっと待ちなさいよ」

「なんでしょうか?」

「緑川氏の面会時間は何時まで?」

「え? あ、八時くらいまでは大丈夫だったと思いますが」

「じゃあまだ三時間くらいはあるのよね? 病院はどこ?」

「ええと、あの医大ですね」

「なるほどね。じゃあまず札幌駅に行きましょうか」

「はあ?」

「探偵料。払ってもらうわよ」

「え? いや、その」

「さっきのは『お礼』なんでしょ? それはそれ、これはこれよ。ビジネスなんだから、お金は貰わないと。さ、行くわよ」

「え?」


 私はほとんど財田さんに引きずられるようにして札幌駅に連れていかれ、そして、それなりに高級なブランドショップで、白いワンピースとカーディガンを購入させられた。すぐさまそれに着替えた財田さんは、さっき私が贈ったネックレスを首に巻き、それから化粧品のフロアに向かった。私はただただ所在なく突っ立っているだけだった。


 すべてが終わった後、財田さんはすっかり深窓の令嬢といった様子になっていた。


「どう? あたしも、服装を整えればそれなりでしょう?」

「いや、財田さんはもとから素敵ですよ。ただ――そういう格好も良いですね。シンプルに美しいです」

「ふふん。さ、行くわよ黒星」

「行くって、どこへ」

「緑川氏の病院に行くんでしょう? あたしも行くわよ」

「え。あ、はあ」

「それからね、財田さんってのは不自然だから、名前で呼びなさい」

「成香さん?」

「……ま、それでいいわ。さ、行きましょう」

 狐に化かされたような気分になりながら、私は財田さん――いや、成香さんと連れ立って病院に行った。


 緑川の病室に入ると、やつれた顔つきの『彼女』がいた。疲れたような顔で、目を合わせず私に会釈した。これはいつものことだ。特に私の方に強い感情はなかった(つもりだった)が――やはり気まずいものは気まずい。とはいえ挨拶の一つはしなければいけない。それに――それに、緑川に、『彼女』のことをなんとも思っていないと伝えるのに、『彼女』が横にいるのもおかしな話だろう。少し席を外してもらえるよう、私が口を開こうとした時、成香さんが言った。


「はじめまして。黒星がいつもお世話になっています。私は財田と申します。黒星の社員が奇禍に遭われたそうで、急に押しかけるのも失礼かと思ったのですが、何かお力になれれば、と思って同行させていただきました。ごめんなさいね」

「え――あ、はあ」

 『彼女』はそう言って、戸惑ったような視線を私に向ける。

 

 正直私だって戸惑っていた。

「え、と。まあそういうことで、成香さんにも同席してもらった。ええと、彼女は有能なた(ここで成香さんは私の足を踏んづけた)――ああ、えっと、その、まあ、知人でね。三太夫の見舞いに行くと言ったら、良ければついてきたいと」

 ところで皆さんお忘れだろうが、三太夫というのは緑川の名前である。『彼女』は今や緑川夫人なので、緑川と呼ぶわけにもいかない。

「えっと、ええ」

「それでそのう。ちょっと三太夫に話しておきたいことがあるんだ。君に聞かせるのもなんだから、ちょっと」「いいじゃあない。ここで言ってしまいなさい?」

 突然成香さんが割り込んできた。

「え、ああ――」

 私は少しだけ考えた。しかし、すぐに腹は決まった。


「三太夫。それから、そうだな、君も聞いて欲しい。というか、君に言わないといけないのかもしれないね。その――私は君のことを『大事な人だ』とは思っていたけれど――たぶんものすごく、情熱的に、例えば、なんて言うんだろう、大雨の中立ち尽くして傘もささずに君を待つみたいな、そういうような、愛みたいな気持ちは無かった。んだと思う。たぶん。今となってはもう、良く分からないけど」

 『彼女』が少し、戸惑うような顔を見せる。

「いやその。別に恨み言を言いたいわけじゃあないし、それが『良かった』というつもりもないが――だから、えっとだね。私は君が三太夫のところに言ったことを、割と祝福している。本当だ。別に君たちに何か恨みとかはないし。『使い込み』自体はそりゃあ良くないから、刑事罰があるなら償ってもらいたいし、うちの損害分はなんとかしてもらいたいが、まあ経営が傾くほどではないし。後は三太夫が目覚めてから話をしよう。すぐに路頭に迷うようなことはしないから、安心してくれ」

 『彼女』は複雑な顔をしていた。そりゃあそうだろうという気もする。元々結婚の約束をしていた(しかも自分が捨てた)男が、その約束を反故にしたことを『祝福』していると言うのだから。しかしこれは偽らざる気持ちだった。ただ、あまり言うべきではないかなと思ったから今まで言わなかったことだ。


 。それは成香さんが教えてくれたことだ。だから、私はきちんと言うことにした。


「もう一回言うけど、私は別に君たちの関係に対して憎しみとかそういう気持ちは無い。むしろ祝福している。ある意味では君たちのおかげで、成香さんに会えたわけだし」

 そう言って成香さんの方を見ると、成香さんは上品に微笑んでいた。だから私は、たぶん言うべきことを言えたのだと思った。

 『彼女』は――俯いてしまって、その表情は分からなかった。


「とにかく。三太夫に、私が怒ったりしていないことを、繰り返し伝えておいてくれ。目を覚ましたら、連絡を」

 はい――と、かすれるような声が聞こえた。なぜかその声に、私は少しだけ恐怖を感じた。



 病院を出ると、成香さんは探偵の腕章をつけて、繕っていたような上品な表情もかなぐりすてて、にっと笑った。

「どう? 少しはスッとした?」

「ええ、まあ。やっぱり、言うべきことは最初に言うべきですねえ」

「言うべき?」

「え、っと、そういうことではなくてですか?」

「黒星はさ、元カノに振られて、よりによってその元カノと結婚した男に職まであげてさ、そんで使い込みまでされてるわけでしょう。滅茶苦茶じゃんそんなの。だから、お前なんかよりイイ女を見つけたぞって、そういうの見せつけてやれたでしょ?」

「あ、――ああ、は、ははあ」

 私はようやく成香さんがついてきた理由を理解した。そうしたら可笑しさがこみあげて来て、私はまた笑ってしまう。

「何笑ってんのよ、もう」

「ははは。いやいや、本当に、何から何までありがとうございます。またぜひ、どこかで――といっても、殺人事件の現場というのは勘弁して欲しいですが」

「うん。どこかでね、また」


 そう言葉を交わして私たちは別々の道を歩き始めた。


 私はどこかで分かっていた。彼女は必要な場所に、必要な時間だけいる。

 成香さんは『探偵は残酷だ』と言ったが、成香さん自身はきっととても優しい。


 だからきっと成香さんを必要とする場所に、必要な時間だけいるのだろう。

 そして私はもう成香さんを必要としていない。今後必要になることも――ないといいな、と思う。


 だからきっとこれでお別れだ。私はどこかで、ちゃんとそれが分かっていた。


 それでも一度だけ私は振り返った。



 成香さんの姿はそこにはなかった。

 夕日ももうとっくに沈んで、暗い街をいくつかの街灯が静かに照らしていた。


 たぶんもうすぐ、冬が来る。

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