聖武官レオニス

 男は、憎々しげに眼を上げた。見知った者同士、というにはあまりにも苛烈にその名を呼ばわる。

「別に隠れていたわけではありませんよ、同志レオニス」

 アリストラムは、微笑みの下に秘め隠された別人の表情を完璧なまでの如才なさで取りつくろって応じた。言外に笑いを含ませつつ、ちら、と眼線を上げてラウに用心の目配せを投げて寄越す。

 聖武官は威圧するかのように、十文字槍を振り払った。

「貴様の信心が足りぬからこういう事になる。慚愧せよ、アリストラム」

 銀の光が、青白い氷霧を切り裂く。

「穏やかではありませんね」

 アリストラムは紫紅の瞳を、ついと細めた。もう、欠片も笑っていない。

 ラウはゆっくりと後退った。恐怖を必死に押さえながら後ろに手を回し、ミシアに合図を送る。

 だが。

「うぬぼれるな、小僧」

 聖銀の武官は見返りもせずに吐き捨てた。ラウは息を呑んだ。あの男はアリストラムが現れて以来、ずっとラウには何の注意も払っていない様子で背中を向けたままにしていた。多少動いたところで、逃走の意図など気付かれるはずがないのに。

 明確な殺意を宿した警告が発せられる。

「それ以上動いたら、女を殺す」

 ミシアが、ひっ、と喉を鳴らした。ふるえる手を握り、口元へもってゆこうとしながら凍り付く。蒼白な顔が恐怖にゆがんでいた。

「レオニス。どうやら貴方は勘違いをなさっているようです」

 穏やかながら確固たる意志を秘めた声が遮った。アリストラムは杖で地面を幾度か突いて鳴らし、聖武官の注意を引きつけた。心痛めたかのようにほそく眉根をよせる。

 ラウは押し殺した唸りを漏らした。次に取るべき行動を必死に考える。

 思いつく選択肢は二つしかなかった。

 ミシアを連れて逃げること。この聖武官に攻撃を仕掛けること。他にはない。

「勘違い、だと。何がだ。言ってみろ」

 たちどころにレオニスの顔にどす黒い怒りの筋が立つ。アリストラムはほのかな挑発を含んだ眼をレオニスへと走らせた。

「ミシアは人間です。聖武官の貴方が狩るに相応しい本来の獲物――高位魔妖ではない。それぐらい分からない貴方ではないはず」

「笑止」

 レオニスは傲然と肩をそびやかせた。あからさまに見下げ果てた、汚物を見るような表情でミシアを見やる。

「その女が、だとでも?」

 侮蔑にうわずるレオニスの声が、絶句するミシアを真正面から断罪し、切って捨てた。

「語るに落ちたな、アリストラム。愚か者が。その女は魔妖の刻印持ち――欠落者だ」

 ふいに山中のどこかからけたたましく争いあう咆哮が聞こえた。獣どうしが激しい威嚇の唸りを上げては互いにぶつかり合っている。凄絶な音が響き渡り、やがて片方が悲鳴を上げた。唐突に音が途切れる。

 全てがぞっとする静けさに取って代わられてゆく。

 ラウは呆然とミシアを振り返った。弱々しくうちひしがれたその様子に、心の奥底がひどく揺すぶられる。

 欠落。

 悪意を孕んだ響きに、我知らず狼狽える。レオニスは確かにの刻印を持つ者、と言った。意味が分からない。ラウは助けを求めてアリストラムを見やる。

 困惑がこみ上げる。よしんばもしそれが事実だとしても、だ。魔妖の気配に対し常に過敏なまでに気をとがらせ、神経を張り巡らせているアリストラムが、それらしい変調の気配を見落とすはずはない。アリストラムならば、どんな細かいことであってもすぐに気付くはずだ。なのに――ミシアへ掛けられた嫌疑を否定してやろうともせず、みすみす言われっぱなしで黙り込んでいる。

 ラウは喉の奥に怒りを含ませ、封印の首輪を掴んで低く唸った。

「聖神官ともあろうものが。抜かったな、アリストラム」

 レオニスはさらに威圧的な口調で失敗をあげつらう。

 アリストラムはけだるい嘆息を洩らした。髪を払い、片頬に苦々しい落胆の表情を貼り付かせて顔を伏せる。

「刻印のことでしたら、最初から分かっていましたよ」

「何……?」

 レオニスの表情がぞっとする怒りに気色ばんだ。みるみる顔容が変わってゆく。

 その敵意を遮るように、アリストラムは暗い表情でつぶやいた。

「分かっていたからこそあえて罪を問わず、キイスの側からミシアに接触して来るのを待っていたのですが。まさか、よりによって貴方にとは思いも寄りませんでした」

「抜かせ。口では何とでも言えるわ」

 突き放すように言ってアリストラムから眼をそらし、代わりにミシアへと憎悪の視線を走らせる。ミシアは声も出ない口に手を押し当てて、へたり込んだ。

「刻印を見逃すだと」

 ぎらりとミシアを射すくめ、恐怖に身動きできぬようにさせてから、大胆に近づいてゆく。

「ちょ、ちょっと待てってば……」

 ラウは反射的にミシアをかばおうとして立ちふさがった。

「退け、小僧」

 レオニスは冷淡に眼を底光らせるなり、巨大な十文字槍を振り払った。一瞬で衝撃が加速する。

 銀色の光がいくつもの弧を描いて目に焼き付く。叩き出されるかのような凄まじいその斥力に、ラウは弾丸のように吹っ飛ばされ、傍らの木の幹にぶつかった。後頭部をしたたかに打ち付ける。

「ラウ、大丈夫ですか」

 アリストラムが駆け寄ってきた。

 ラウは歯を食いしばってよろめき起きあがろうとした。尋常な一撃ではない。明らかに何か別の力が加わっている。

 レオニスは大股で一気にミシアへと近づいた。のしかからんばかりにしてぐいと手を伸ばし、強引にミシアの髪の毛を掴んで立ち上がらせる。ミシアは悲鳴を上げた。

「おゆるしくださいませ……!」

「黙れ」

 レオニスは喘ぐミシアの髪を非道に手繰り寄せ、ぞっとする声で脅しつけた。酷く揺すぶられたミシアの身体が、声にすらならない悲鳴とともに仰け反る。

「魔妖に身をひさぐ欠落者の分際で、人間の振りをするな」

 容赦ない平手がミシアを打擲する。ミシアの華奢な身体はあっけないほど吹っ飛んで、地面へと叩きつけられた。

 レオニスは掌をミシアへとかざした。

「化けの皮を剥いでやる。正体を現せ、欠落者」

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