「人間……? 《それ》がか」
理性のタガとなってラウを縛めている聖銀の首輪が、じりじりと熔けるような陽炎を放ち、熱せられ始めた。
枝を掴んだ手が狂おしく震える。いつもいつも耳にタコができるほど聞かされ続けているアリストラムの教え――人に仇なしてはならぬ――がなければ、そのまま憎悪の衝動に身を任せて飛びかかってしまいそうだった。
それほどまでに驕慢な気配をまといつかせ、近づいてくる魔妖狩り《ハンター》。だが恐ろしいことにその身が放つ厳粛な香りは、常にアリストラムが焚きしめている甘いあの香りと同じでもあるのだった。
ラウは四方に眼を突き立てた。獣の感覚を研ぎ澄まし、彼方を見据える。けものが歩く細道だけが通っている山肌の道から少し下ったあたりに、崖下へと滑落したらしき黒い跡が見えた。
ラウは木から飛び降りた。風のように突っ走り、崖の下へと到達する。
黒のエナメル靴がひとつ、転がっている。
焦って目を転じると、前方の草むらに、うつぶせに倒れた少女らしき下半身が見えた。
お仕着せの黒っぽいワンピースにエプロン。かつては白かっただろう長靴下は、土によごれて、黒く染まっている。
ラウは少女に駆け寄った。傍らに屈み込み、その顔をのぞき込む。
「だ、大丈夫?」
おそるおそる、声を掛ける。少女はかすかにうめいた。濡れた黒髪が蒼白な頬に貼り付いている。ひどい有り様だった。
ラウは言葉を失った。
「ミシア……やっぱり!」
それは、ドッタムポッテン城の小間使い、ミシアだった。
おそらく、逃げる最中に道から足を踏み外して崖下に滑り落ちたのだろう。もしその身体を運良く受け止める草むらがなければ、もっとひどく身体のあちこちを打ち、大けがをしていたに違いない。
ラウはとにかくミシアを気付かせようと、肩を掴んだ。
「ミシア、ミシアってば!」
耳元に押し殺した声を吹き込みながら、揺すぶってみる。ミシアはかすかな声を立て、身をよじった。力なく凍えた声がくちびるから落ちる。
「う、ううん……」
ふいにミシアの身体がぶるっと震えた。
「た、助けて……誰か……!」
恐怖におののく黒い瞳が助けを求めて四方へと走った。陰のあるまつげが涙のしずくに濡れ、悲痛に押し開かれる。
「ミシア!」
ラウはもう一度ミシアの名を強く呼んで、その身体を引き起こした。ミシアは痛みに顔をゆがめながらもラウの声と顔を認めて、呆然と口を開け、声を詰まらせた。
「ラウさま……どうして……?」
「どうしてじゃないってば。何でドッタムポッテン村にいるはずのあんたがこんなところに」
ミシアは突然、全てを思い出した様子でぶるぶると震え出した。
みるみる顔色が青ざめ、くちびるまでがこわばり色を失ってゆく。
凍り付いた眼差しでミシアはラウの背後を見つめ、どこへどう逃げて良いのかも分からぬ様子で闇雲に這いずり、逃げ出そうとした。
「追われ、お、追われているんです」
「だから、誰に、何で、そんな」
ラウは、ふと口をつぐんだ。
背後から注がれる暗い視線。
ぎりぎりと痛いほどの敵意が、背中へとねじ込まれてゆく。
少しでも不穏な動きをすれば消される、と感じた。這いずる虫を踏みつけるのにも似た傲岸の眼。
相手の懇願に何ら心動かされることもなく、ましてや一しずくの憐憫すら、なく。
決して相容れぬ――それは、敵だった。
ラウは、おもむろに振り返った。
無言で相手の姿を確かめる。
妖輝な光を帯び、するどく切れ上がった鳩の血色の瞳。精悍に引き結ばれた薄い唇。同じ銀髪でもアリストラムのやわらかな色味とは全く違う、鋼のきらめきを振り散らすかのような鋭い色。
銀。
それは、銀の色だった。
柔和さの欠片もなく、容赦なく、それでいて凄絶に美しい、顔。
袖や襟元に金襴まぶしい紋章の飾り刺繍をほどこした純白の長い戦闘コートを尊大にまとい、聖銀アージェンの紋章をいただく十文字槍を手に携え。
「どこの薄汚い獣が嗅ぎつけてきたのかと思えば、下位のハンターか」
聖武官の装いをした男は、ラウへと果てしなくも軽い侮蔑の一瞥をくれた。
男は傲岸に手を振り払った。手袋にまで聖銀紋章が赤く刻まれている。
「そこをどけ」
高圧的な、ぞっとする冷淡な声で命じてくる。命令し慣れた口調だった。
「この子は人間だ」
ラウは首を振った。かろうじて言い返す。
「人間……? それがか」
聖銀の武官は冷ややかに嘆息した。侮蔑の言葉にミシアの表情がみるみるこわばってゆく。
ラウはミシアを背後にかばった。喉の奥で唸りつつ男を睨み上げる。
「――なるほど」
男はラウへの興味を一瞬にして失った様子で、ゆっくりと手を引いた。酷薄な唇を笑みの形へとゆるりと吊り上げ、わずかに首をひねって、ちらりと背後を蔑ろな仕草で流し見る。
巨大な十文字槍のきらめく尖先が、つめたい風を斬り混ぜ、冷気の霧をたゆたわせながら旋回した。光の残像の弧を描いて空を切る。
「隠れていないで出てこい。臆病者」
森の彼方を、白く潜む影を、槍でぴたりと指し示す。
風が、凪ぐ。
ラウは眼を押し開いた。杖飾りの音が、清浄に鳴りゆらめいている。
静けさの御簾を払いのけるかのように、影はわずかに身をかがめ、何気なく下生えを踏み越えて近づいてくる。
「……同志アリストラム」
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