「今、神にすべてを捧げろ」

汝、まつろわざるもの

「うん……」

 涙が、ぽろぽろこぼれる。

「大丈夫。落ち着いて」

 ゆったりと低いアリストラムの声がそっと耳打ちされる。耳朶に触れるほど、唇の距離が近い。

「深呼吸をしなさい。ゆっくりでかまいません。大丈夫です。もう一回。息を吸って。治癒の魔法を掛けます」

「うん……」

「眼を閉じて。怖くありませんから。少しずつ力を抜いて」

「……アリス……」

「まだ震えていますね」

「ううん、も、もう、大丈夫……」

 ラウはかぶりを振り、かすれた声で答えた。

「いいえ」

 間近に見つめるアリストラムの瞳は、溶けるように光っていた。

「いけません。封印が乱れかけています」

「あ……っ……!」

「少々、荒療治になりますが」

「……ん……」

 アリストラムの腕に、ふかぶかと抱かれて。

「ぁっ」

 ぞくり、と。

 喉にひやりとした唇が触れる。アリストラムが何かをささやいている。聖呪を直接、肌に押し当てているのか。

 ラウはぶるっと身体を震わせた。唇が動くたび、肌にきらめきのしずくが跳ねるようだった。動いている。全身に、光が伝わってゆく。しびれるような、甘い、やわらかな光。アリストラムの声。低く、静かに、優しく。忍び込んでくる――

 支配されてゆく。

「ラウ」

「う、ん……」

 唇に、声が重なった。吐息が混じる。くちづけられて、ささやかれる。ラウには分からない聖銀の呪文が耳に心地良く続く。

 汝、まつろわざるもの。

 神の名において絶対の服従を命ず。今、神に、すべてを。


 甘い刺激がとろ、とろ、からみつく。


「ぁ……!」


 気持ちいい……

 アリストラムにささやかれ、触れられるだけで……

 身体の奥がじりじりする。熱くなる。

 もっと、もっと、ささやいて欲しくなる。撫でて欲しい。触れて欲しい。アリストラムが望むなら、どんなにきつく縛られてもいい、目を閉じて、命じられたことすべてを……目眩がするぐらい……強く、強く、強く……


 そのとき。

 唐突に風の臭いが変わった。

 悲鳴まじりに喘ぐ人間の声が流れ込んでくる。騒然と森の下生えを踏み荒らす足音。恐怖に駆られた、闇雲な走り方。

 枝葉を散らして崖を転がり落ちる痛々しい音がした。それとともに、聞き覚えのある少女の声がつんざく。

 ラウは、びくりと目を覚ました。

「な、何、あの声」

「落ち着いて。じっとして。動いてはなりません」

 アリストラムの声色は、青ざめた緊迫を孕んで、ほとんど震えだしそうだった。

 ラウはアリストラムの真摯な表情に、思わず声を呑み込む。

 ラウを思いとどまらせようとするアリストラム自身の表情もこわばっている。思い詰めた瞳が抑えきれぬ不安に揺れ動いてラウを見つめていた。

「もし、貴女の身にまた何かあったら」

 ラウはきっとアリストラムを見返した。さっきのあの声。耳ざといアリストラムならば気付かないわけがない。

「今の声、だった!」

 ラウは傍らの石に立てかけてあった、ゾーイの形見である古ぼけた山賊刀を掴んだ。力を入れて握りしめる。

「もしかしたらさっきの魔妖に襲われたのかも。助けに行かなきゃ」

「いけません、ラウ!」

 制止の声を振り払い、ラウは身をひるがえした。

 しなやかな身のこなしで岩の転がる河原を駆け抜ける。

 ゾーイの山刀を口にくわえ、身長よりはるかに大きな岩に向かって三段飛びで跳躍する。

 山風が碧の髪をたなびかせた。

 宙を舞ったその勢いを借って走りづらいガレ場を一気に四つ足で駆け上がる。

 ラウは四方を見渡した。高みを見渡すには木に登るのがよさそうだった。

 ひょいと飛んで枝に飛びつく。前後に身体を揺らし、勢いを付けて軽々と蹴上がった。てっぺんにまでよじ登ってゆく。

 ラウは木の頂上で、くん、と荒々しく鼻を鳴らした。

 風と空気の匂いを嗅ぐ。

 うねうねとはびこる蔓やら羊歯やらに埋もれた岩場、踏みにじられた土と草、折れた木の匂い。それらに混じって、甘ったるい香水の香り。怪我をしているのか、血の臭いまでもが混じっている。

 だが、もうひとつ。

 別の臭いがする。

 ラウは無意識に身体を震わせた。

 明らかに近づいてきている。

 この臭い──

 さして寒くもないのに、足元から冷気にも似た怖気が伝い上ってきた。動揺を一足飛びに越えた先にある、強迫的な、何かの感覚。

 首筋のうぶ毛が嫌悪感に逆立つ。

 ラウは、ぎり、と歯を食いしばった。

 魔妖狩り《ハンター》だ。

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