落ちる一瞬
それは、氷のようにつめたい夜のことだった。
予備校の帰り、小雪がちらつくクリスマス・イブの街を、僕はひとり、肩をすくめて歩いていた。国道沿いにずらりと植えられた銀杏はすっかり葉を落とし、電飾がほどこされ、星のようにきらめいている。すれ違う、腕を組んだカップルたちはうっとりとイルミネーションを見つめていて、僕は正直苛ついた。浮かれやがって。クリスマスだからといって、世間は、やたらめったら恋をしろ恋をしろと煽る。こっちはそれどころじゃないというのに。
僕は崖っぷちだった。浪人二年目の冬、間近に迫ったセンター試験。今年が最後のチャンスだと親に言われていた。後がないのだ。なのに。この間の模試の結果を思い出すとため息がこぼれた。白くふんわりとした綿菓子のような吐息は一瞬で夜に溶けた。もちろん甘くなんてない。
きっと家では、母さんが、チキンとケーキを焼いて待っている。がんばってね、風邪ひかないようにね、大事な時期なんだから。そう言ってほほ笑むんだろう。父さんはおそらく何も言わない。プレッシャーをかけないようにという気遣いがますます僕を追い詰める。
まっすぐ帰る気になれなくて、だけど逃げる場所なんてなくて、僕は時間稼ぎにぐるぐると遠回りしていた。きらびやかな国道から裏道に入ると、急に夜が深くなった気がした。雪はやまない。つぎつぎに舞い落ちて僕のコートに触れては消えた。
――寒い。通りすがりのコンビニの看板が放つあたたかな光が目に入って、蛍光灯に吸い寄せられる羽虫のように、僕は店に入った。
自動ドアが開くと同時に、いらっしゃいませ、とやたら大きな声が飛んできた。びっくりしてレジを見やると、白いポンポンのついた赤いとんがり帽子をかぶった女の子がいた。背が低くて、目がくりっと丸くて、茶色く染めた髪を後ろでひとつに束ねている。化粧っけがなくて高校生ぐらいに見える。少なくとも、僕より年上ということはないだろう。クリスマスだから店員もサンタのコスプレか。ご苦労なことだ。だけどなかなかさまになっている。――と、そこまで考えて、どうでもいいじゃないかそんなこと、と僕は慌てて首を横に振った。こっちは受験生だ。女の子のことなんて考えてる場合じゃない。ここでは、ちょっとだけ暖をとって時間がつぶせればそれでいい。僕は書棚のまんが雑誌を手に取り、ぱらぱらと立ち読みをはじめた。店の中はあたたかくておでんだしのにおいがただよっていて、がちがちに冷えていたからだはすぐにほぐれた。有線で、定番のクリスマス・ソングが流れていて、ずっと聞いていたら眠気が襲ってきた。
しばらくして、がくんと段差から落ちたような衝撃がからだにはしり、われにかえった。――ここは……、そうか、コンビニか。ようやっと我にかえる。どうやら、立ったまま眠っていたらしい。書棚の前面のガラス窓は藍色の冬の夜だけを映し、その中を白い雪が舞っている。寝ぼけているのか、それとも効きすぎた暖房のせいか、ずっと立ちっぱなしだったせいか、頭がぼんやりする。かすんだ目をしばたくと、違和感をおぼえた。
妙にしずかなのだ。僕はすぐに音楽が消えていることに気づいた。それに、視界もなんだかおかしい。ガラスの向こう、はらはらと落ちているはずの雪が、ぴたりと静止している。目の錯覚か? と、もう一度まばたきする。雪は空中に固定されているみたいに動かない。入り口ドアを見やる。今まさに入ってこようとしている男のひとが、右足を踏み出したままの姿勢で固まっていた。あわてて店内を見回すも、誰もいない。客は僕ひとりのようだ。
「止まってますよね」
良く通る声がしずかな店内にひびいた。びくっと肩がふるえた。サンタ帽の店員の女の子だ。
「止まってる、って」
聞き返すと彼女は、壁にかかっている時計を指差した。二十三時時五分を指したまま、単身も長針も秒針も動かない。故障か電池切れか。自分の腕時計を見たが同じだった。十一時五分。リュックのポケットから携帯電話を取り出す。画面はぴたりと静止したまま。
「もうひとりバイトがいて、スタッフルームで休憩してたんだけど、デスクに頬杖ついたまま動かないんです。まばたきもしないの。電話もつながらないし、有線チャンネルもだめ。動いているのは、あたしと、あなただけ、みたい」
そう一息に告げると彼女はまゆをハの字にした。まさか、と僕は自動ドアの前へ行った。センサーは反応しない。無理やりこじ開けようとしたけど駄目だった。窓に面した駐車場の様子をのぞいてみる。開きかけたまま止まったドア、寒さに身をすくめて乗り込もうとしている女性のすがたも見える。もちろん、ろう人形のようにぴたりと静止したまま。
止まっている、時間が。僕らは閉じ込められている、このせまい箱のなかに。
信じられない。それに、それならばなぜ、僕と彼女の時だけが止まっていないのだろう。思わず、赤い帽子の彼女を見つめる。見つめる、というか、僕のほうがだいぶ背が高いから、見下ろす、という感じだったけど。ぼくの困惑のまなざしに気づいた彼女はあいまいな笑みを返し、弱ったな、とつぶやいた。彼女のほっぺは子どもみたいにつややかに赤く、まつ毛は長くはないけどくるんと上を向いている。こんな奇妙な状況なのにそんなことに気をとられてしまった僕はきまり悪くなって、ごまかすようにうつむいて首の後ろを掻いた。そんな僕を彼女はじっと見つめていた。目があった。僕はとっさにそらした。彼女もふいっと横を向いた。
何だか胸のあたりが妙な感じがした。ざわざわするのだ。これまでの人生で一度も味わったことのない感覚。胸の奥の、奥のほうに小さな灯がついてじりじりする、そんな感じ。急に気まずくなって、こほんと咳払いして、ふたたび窓の外へ視線を投げる、と。
無数の、舞い落ちる途中の雪たちがそこにはあった。地に落ちれば、何かに触れればすぐに消えてしまうはかない粉雪たちだ。夜の空気がゼリーのように固まって、その中にそっくりそのまま閉じ込められてしまったみたいだった。
「あっ。結晶がみえます。六角形のかたちが、くっきりと。きれい」
声をはずませた彼女は顔をガラスに押し当てるようにして見入っている。ガラス窓に張り付いて消える寸前だったその雪は美しい花びらをきらめかせていた。今舞っている雪たちはそれぞれ、すべて違う花を咲かせているのだった。そして一瞬で消える。彼女のまるいひとみは今、そんな雪の花たちを映している。吸い込まれてしまいそうだと思った。
「名前……、なんていうんですか」
思わず、聞いてしまっていた。ややあって、すずこ、と彼女は答えた。そして、止まった時のなかで、僕らは少しずつ互いの話をした。彼女が実は僕より一つ年上で、大学を中退して劇団員をしていることも、このコンビニのすぐ裏のアパートでひとり暮らしをしていることも、恋人と別れたばかりだということまで、そんなことまで、知った。
*
「あるわけないじゃん。時間が止まるなんてさあ」
あきれたように言い放つと、悠太はケーキのイチゴを口の中に放った。小学五年、生意気盛り。去年までサンタクロースに手紙を書いていたのに、今年はもう、そんなことはしない。ぐんぐん成長して、どんどん大人に近づいていく。
「あるんだよ、それが」
カウンターの向こうで紅茶を淹れている鈴子にちらりと視線を投げる。鈴子はくすりと共犯者のような笑みを返した。リビングに飾っているツリーの電飾が、あの日の雪のようにきらめいている。今夜はクリスマス・イブ。あの不思議な夜からちょうど十五年。
あの後ふたたび時間は元の流れを取り戻して、彼女は業務にもどり、僕は帰路についた。だけどあの一瞬が忘れられなくて僕は毎晩コンビニに通った。ずっと夢なんだと思ってた。時が止まった夢。僕だけが見たまぼろしだと思っていたけど、違った。彼女も覚えていた。宙に浮いたまま動かない雪の花たちを。雪に、いや、彼女に魅入られてしまった僕のことを。
あの日僕の胸の奥にともった灯は消えることなく、それどころか、その熱はじわりじわりと末端まで広がってずっと僕を焦がし続けたのだ。そして、彼女も。
すぐに僕たちは恋人同士になった。だけど恋に夢中になった僕は第一志望の大学に落ちた。彼女だって、夢だった女優になることはかなわなかった。時は未来へとまっすぐに滞りなく流れて、うまくいくこともあればいかないこともあった。そして悠太がうまれた。今もその流れに身をまかせて泳いでいる。
だけど。ふとした拍子に流れのはざまに落ちる一瞬はたしかにある。時間が止まるんだ。ほんとうに止まるんだよ。悠太がそれを知るのは、あともう少し先のことだろう。
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