#5


 自分の名前が嫌いだった。

 名前を呼ばれる度に、それは私じゃないと否定してきた。

 どうしてこんな名前をつけたのと泣いて喚き、母親を困らせたこともある。

 どうしても好きになれなかった。

 わたしは、『ヒナ』じゃない。


  ++


 坂道を自転車で駆け上る。下り坂から逸れて、もう一度坂を上るために。それは容易なことではなくて、すぐに身体が火照ってきた。

 とてもじゃないけど真っ直ぐ家に帰る気分にはなれず、漕いでいた自転車を方向転換させたのだ。向かった先はあの公園。

 けれども上まではたどり着けなくて、途中から押して歩いた自転車が公園の入口を抜ける。巻いていたマフラーを取ると、丁度いい冷たさが首元をさらっていった。

 公園には他に誰もいない。貸し切りだ。星空だけがわたしを待っていて、どうしたのなんて問いかけてくる。

 いつものベンチにたどり着き、自転車を止めて夜空を見上げた。

 吐く息はすっかり白い。夜も遅いし、早く帰らなきゃお母さんが心配してしまう。

 だけどちょっとだけ。ほんの少しの間だけ、ここにいたかった。

 手袋もつけていたのに指先が冷たい。不意に感じてしまった寒さに、もう一度マフラーを巻き直す。

 ――でもさ、冬が過ぎればヒナの季節じゃん。

 そうして浮かんでくるのは先ほどの会話だ。

 ちぃくんが悪いわけじゃない。そうなのだ。だって、本当は春が嫌いなんじゃないのだから。そうじゃない。

 大泣きしてお母さんを困らせた時、言われた言葉がある。

 あなたはね――

「こら、こんな時間に一人で何してる!」

 後ろからの大声に、慌てて振り向いた。

 自転車を押しながらゆっくりと歩いてくる姿に目を丸くする。

「危ないだろ」

「ちぃくん」

 てっきり制服を着たおまわりさんがいると思ったのに、そこにいたのは見覚えのある人物で。

 一拍遅れて息を吐いたちぃくんは、ベンチの隣に自転車を並べた。

「そのまま真っ直ぐ家に帰ったのかと思えばここにいるし。俺が危ない人だったらどうするんだよ」

「危ない人って」

「そうでなくても、これから変質者が増えるんだぞ」

「うん……」

 ちぃくんの言い方がなんだかおかしかった。

 ひとしきり笑ったあと、なんとなしに二人して黙りこくってしまう。下で輝く町の灯りと、頭上を照らす光を、ただただ見つめていた。

「――ヒナ、さっきはごめん」

 切り出されたひと言に首を振って返す。

「ううん。わたしの方こそ、あんな言い方しちゃってごめんね」

 謝らなきゃいけないのはわたしの方だ。

 今が寒いから、早く暖かくなってほしいと、ちぃくんはそう言っただけなのに。それを否定するなんて、してはいけなかった。だってわたしが考えていたのは、ちぃくんとは全然別のことなのだから。

「春が、嫌いなんじゃないの。わたしが嫌いなのは、別のことなの」

「うん」

 ちぃくんは相槌あいづちを打ちながら聞いてくれる。意を決して、息を吸った。

「ちぃくん」

 言えなかったことがある。

 ずっと、ずっと。

 ひた隠しにしていて、話せなかったことがある。

「わたし、ヒナじゃないよ」

 意を決して告げた言葉の先には、ルカとじゃんけんをしていたあの時と同じ、真剣な顔をしたちぃくんがいた。

 言葉を聞いて、ちぃくんの表情がふっと崩れる。

「知ってる」

「――え」

 ちぃくんは笑って、それからひと言告げたのだ。

「太陽と菜の花で、陽菜はるなだろ」

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