無見(みえない)


暗闇がとろりとける。

まぶたを開けば、まなこつんざかんばかりに輝く日の光が大地を照らす。

まぶしさにくらむ視界をらし、辺りを見渡せば見慣れた庭の姿とぎ慣れた畳と絵の具の匂いが鼻をついた。

この家の住人たる男は庭に面した縁側に腰掛け、その広い背中に影を落としていた。

その男の隣に座れば、途端に絵の具の匂いが強まった。

男は絵を描く作業に集中しており、こちらをちらりとも見ない。

代わりにこちらがちらりと男の描く絵を覗き込めば、目の前の庭を描いていた。

夏の陽射しを照り返している桜の緑や花も散りかけた藤、金木犀や柿の木が酷くまばゆい。

木の根本にはすみれや桔梗、芙蓉ふように夏椿が色鮮やかに咲き乱れている。

その向こう側には今年の梅雨明けに作り替えたばかりの真新しい垣根が、朝顔の蔦衣つたごろもを羽織って竹色の顔を覗かせていた。

いつの間に植えられたのか、向日葵も生えている。

不意にぱしゃりと庭の池の鯉が跳ねた。

垣根の向こうでは村の子供が遊んでいるのか、サボン玉が風に流れて庭でふわふわくるくると踊り回っている。

風に揺られて、硝子がらすの風鈴が鈴やかな響きを奏でた。

不意に、男が顎を腕で拭った。

熱さに弱いのだろうか、汗が滴り落ちている。

筆を持つ手に随分前から男を住み処とする鯉が、腕の動きに合わせてひらりと揺れた。

汗を拭った男が再び絵を描く姿を横目に、縁側の縁から足を放り出す。

ゆらゆらと足を揺らすと、日焼けした縁側の板がぎしぎしと不穏な音を立てた。

筆が紙を滑る微かな音が、蝉の鳴き声の合間に聞こえる。

子供はもういないのか。

けれど、笑い声は聞こえなくなったのに、サボン玉はまだ庭を揺蕩たゆたうている。

虹色に輝く泡沫うたかたの玉は、夏の庭にやけに馴染んでいた。

つと、かたりと筆をすずりに置く音が聞こえた。

男を振り返れば、り固まったのだろう身体を解していた。

男の首元を鯉が優雅に泳いでいる。

穏やかに風が吹く。

男がゆるりと笑って、骨張った手をこちらに伸ばした。




ふう、と突然意識が浮上した。

薄暗い室内に、カーテンから漏れた街灯の明かりが一線を引いている。

ぐるりと室内を見回す。

枕元に置いた携帯がチカチカと点滅して、着信を知らせていた。

時間を確認すると、まだ日付を越えたばかりの時間を示している。

まだまだ起きるには早い。

深く息を吐き出して、起こしかけた身体を布団に沈める。

手を伸ばしてカーテンを少しだけ開けると、街灯かと思った光は月の光だったらしい。

青白い光が照らす景色が、何故だか目に染みて視界が歪んだ気がした。

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