第46話「約束」
そして――夜。
「琅惺」
寺内、就寝を告げる鈴を振り終え、回廊を戻る琅惺の名を呼ぶ声が院子から聞こえた。
見れば珂惟が、植え込みから姿を現すのが見えた。琅惺は階段を駆け下りて院子に出ると、
「今、鈴を鳴らし終えたばかりなのに。今頃君が居ないって僧坊は大騒ぎだぞ――って、どうでもいいことか」
「そういうこと」
得意げな笑みを浮かべる珂惟に並ぶと、琅惺は白砂を踏み、足を進める。それにつられて歩きだしながら、
「お前の僧坊こっちじゃないだろ、振鈴終わったのに、いいのか戻らなくて」
「どうでもいいことだ」
こんな夜に、勝手な憶測を飛ばされようと戒律が何だろうと――その意を汲んだか、珂惟は俯いた面に、薄く笑みを刻んだ。
二人は、境内を何も言わないまま揃って歩いた。白々と浮かぶ月光が、二人の姿を時に現し、時にくらませる雲の多い夜空である。
寺人が休む僧坊を後にして中門に辿り着いた二人は、どちらが言うでもなく、閉じた門扉を背に揃って腰を下ろした。
「そういえばさ」
すると妙に明るい声で、珂惟が口を切る。
「お前五通観乗り込んだとき、大層な変装したらしいじゃないか。どうして俺が居ない時にやるかなあ、見たかった」
「やめてくれその話は! 思い出したくもない――人生最大の汚点だ、恥ずかしい」
「何言ってんだ。すっごい似合ってたって杏香がうるさいの何の。並んで歩いているトコを店のコに見られたみたいで、冷やかされちゃったって言ってた。すっげー嬉しそうに」
琅惺は困ったように笑うだけだ。そして、
「それを言うなら君が悪鬼祓いするところ、是非見たいものだ。道士って、髪を結ばないだろ? 女と間違われたこと、あるんじゃない?」
意地悪い笑みを浮かべながら、琅惺がそうやり返すと、珂惟は慌てて、
「や、めろよ。そういう怖気立つこと言うのは! 杏香じゃあるまいし。――でも一回、坊越え失敗して衛士にバレた時、どこの妓女か知らないが、一晩付き合ったら云々って言われた。今、男装が流行ってるからなあ」
「それどうしたんだよ」
ほんの軽口のつもりが意外な展開になり、琅惺の顔色が変わる。対して珂惟は、たちまち眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔と口調で、
「ぶん殴るに決まってんだろ気色悪ぃ。ついでに蹴り飛ばして、水溝に落としてやった」
「……。気持ちは分かるけど――それはまずいじゃないか?」
「そうなんだよ。水音に衛士が集まっちゃってさあ、必死に逃げながら、放寺を覚悟した」
「――なればよかったのに」
琅惺は言いながら、笑う。
「笑顔で言うか、ひでえヤツだなお前」
そう言って珂惟も笑った。
「まあさ」
ひとしきり笑った後、琅惺が切り出す。
「君も、そろそろ度を受けてみなよ。沙弥生活も、まあ悪くはないから」
その言葉に、珂惟は何度も頷きながら、
「そうだな。髪なんてすぐ生えるし。嫌になったら還俗すればいいしな」
「何だそれは」
非難口調の琅惺に、珂惟はまた笑う。
だが。
そこでふと、珂惟は表情を改めた。
「次、月が隠れたら――行くわ」
笑って、何でもないことのように言う。
緩んでいた琅惺の頬が、にわかに強ばる。珂惟が、どこか楽しげに笑っているのを見、息が止まりそうだった。ついていって助力できない自分の無力さを心中呪いながら、琅惺は無理やり口の端を上げ、頷いた。「うん」
ふいに、白光に映え輝いていた境内に、影がかかった。見上げれば、月には薄雲。その後に厚い雲が続いていた。確実に夜を闇に落とし込むような、厚い雲が。
珂惟はにわかに立ち上がると、
「じゃあ行く。続きはまた今度」
琅惺は思わず立ち上がった。何か言おうと、でも何を、と言葉を探すうち、眼前の笑顔が、ふいに闇に沈む。再び雲が晴れた時、そこには琅惺ただ一人の姿が在るばかりであった。
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