第47話「祈り」

 宮城に近い安定坊は仏寺や道観、高級官僚の家が立ち並んでいるため、普通の家の何倍もある広さを誇るそれぞれの敷地はひっそりと静かな夜を迎えていた。雑多な西市などと違い、坊門が閉まったこの時間、外をうろつく人間もない。

 だが東北隅の五通観で、扉を叩く大音声と投げられる声が、突如辺りの静寂を破った。


「開門開門!」


 ほどなく扉向こうに複数の人間が集まる気配がし、中から鋭い声が飛ぶ。

「何用だ」

「観主(道観の最高責任者)に会わせろ!」

 門の向こうがざわめく。しばしの協議のあと、遠ざかっていく足音が聞こえた。どうやら人を呼びに走ってるらしい。

 珂惟はそこで「五通観」の金文字がきらめく扁額の下を抜け、一歩後ろに上がった。頭上を見上げ、大きく深呼吸する。雲が晴れた夜空の月は、これまでにないほどの美しさであった。

 やがて――。

 重々しい音が、夜の闇に忍び入るように響く。珂惟は威儀を正し、開いて行く扉の向こうを見つめた。

 そこには、同じ格好をした五・六人の道士に囲まれ、ただ一人、位が上であることを物語る姿の道士が立っていた。

「お前は――」


                       ◆


「おいおい、まだやってんのか」

「じゃねえの。だってあいついないし」

 僧房に微かに届く声に、行者らは揃って外に出、遥か向こうにある本堂に目を遣った。

「でも何で本堂が開いてるんだよ」

「特別許可が下りてるんじゃない? まさか勝手に鍵を持ち出したりはしないだろう」

「これはマジで度に合格するつもりだな」

「それってヤバくない? あいつが本気になったら、ただでさえ少ない合格枠が一個減るじゃん」

「俺ら呑気に寝てていいのかな……」

 その言葉に、一同は顔を見合わせた。

「ちょっと経、読もうか」

「だ・な」

 彼らは顔を見合わせて頷くと、そそくさと本堂に背を向け、僧房に入っていく。


 そして、さらに別の僧房。

「何だよ双璧の片割れに触発されたのか」

「この声は、そういうことだろ」

 外に出た沙弥たちは、揃って西方を仰ぐ。

「珂惟は顔つきが変わったし、琅惺はあんなに勉強してるし、俺らマズいんじゃないの? これ以上差ぁつけられたら、完璧やつらの引き立て役だぜ」

「いや、引き立て役どころかあいつらが偉くなって上座やら寺主やらになって顎で使われたりなんかしたら――おい、寝てていいのかよ」

「よくねえ!」

 彼らもまた、先を争うように僧房に戻る。


 そして――。

「観世音菩薩行深般若波羅蜜時照見五陰空度一切空厄……」

 やはり観音菩薩像の前で、一心に経を唱える琅惺の姿があった。無断で鍵を持ち出したのである。だが発覚も咎め立ても、今の琅惺には恐れることではなかった。それ以上に心を占める恐怖を払うように、経文を紡いだ。

 声が、締め切った本堂に響き渡る。外の涼しさが嘘のように、熱の籠もった堂内で琅惺はすでに汗だくであり、衣は絞ることができるほどに濡れている。

「――舎利弗色空故無悩壞相……」

 ――南無観世音菩薩、どうか珂惟をお護り下さい。



                       ◆



「まさか一人で乗り込んでくるとは、いい度胸だ。――まあ丁度いい、こっちから行く手間が省けた」

 しばらくぶりに見た男は、相も変わらず余裕の表情で、それは声にも表れている。

 そこに突如、向こうからざわめきが起こった。近づいてくる複数の足音。やがて眩しいほどの松明に囲まれ現れたのは、小柄な老人の姿。

 ――こいつか? 琅惺が言ってた偉そうな爺ぃってのは。

「上座」

 珂惟の心の問いは、一同が一斉に礼を執ることで証明された。上座とは観主の下の位であり、仏寺でいう寺主の立場にある。眼前の人数といい上座まで出てくることといい、ここ五通観が陰謀に関係しているのは間違いないようだ。


 ――飛んで火に入る――ってヤツか。


 ぐっと奥歯を噛み締めると、珂惟は目の前の集団をぐるりと見回してから口角を上げ、

「一介の道士とは思えない豪華な格好だな爺さん、さぞかし裏稼業で儲けてんだな。そりゃ『道僧格』に妙な一文が組み込まれちゃ、財源なくなって困るよなー」

「お前――何故それを!」

 自ら手を下さない腹黒さとは裏腹に、上座は、あっさりと答えを教えてくれた。

「道教にも十戒があったよな。仏教のと殆ど同じなはずなのに、人殺そうとしたり金稼いだりなんかしていいのかなー、罰あたるぜ」

 自分のことは棚上げである。しかし、

「あいにくだな。道教では十戒のうちただ一つでも守るよう、精進すればよいのだ」

 そう胸をはっていうのは上座である。珂惟は心底呆れたように大げさにため息をつくと、

「それが上座の言葉とは……、なんていい加減な。――お前らこんなアホについて、虚しくねえの?」


 ところが。


「何だと、この無礼者めが!」

「若造にこの方の素晴らしさが分かるか!」

「所詮外来宗教にはまるヤツのくせに!」

 次々浴びせられる怒号に、珂惟は唖然とした。だがその中に「次期観主に向かって何を言う」という言葉が紛れているのを、聞き逃さなかった。

 ――ってことは、こいつら出世を餌に上座に釣られてるだけってことだ。だったらまだ望みは……。

 とはいえ、目の前の十数人は確実に珂惟の、ひいては仏教界の敵である。

「まあいい」

 わめく周りを制したのは、例の男である。

「ですが錬士(修行道士の中で一番格が上にある者)このまま――」

「このまま、なつもりないだろ?」

 男は珂惟に話を振った。相変わらずな余裕ぶりである。珂惟は口の端を上げて、一言。

「当然だ」

「だろうな」

 男が指を鳴らす。すると背後から、扉が閉められる重々しい音が聞こえて来た。

 ドドーン。

 地面を揺らす振動が、足元から這い上がってくる。

 たちまち訪れた静寂――もはや外界への道は閉ざされた。ここは敵地である。

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