第45話「寺の夕景」
翌日。
朝の勤行をし、斎を終える頃には東から昇った太陽がゆっくり大気を暖め始める。
草木の緑も花の紅も砂の白さも、日に輝きながら存在を主張しすぎることなく調和し合っていた。
そのせいなのか、あちこちで箒の音が響き始める頃には、張り詰めていた寺の雰囲気も少し緩やかになってる。灌仏祭以前の平穏な日々が、大覚寺に戻って来たようだった。
しかし。
「やっと帰ってきたと思ったら何だよ今度は」
「間違いない。これは次の度、狙ってるね」
中門付近で、なぜかたむろっている行者たちの視線が、背後の本堂に一斉に集まった。
柔らかな雰囲気を一気に切り裂くかのような、朗々とした読経の声が漏れる。
「いくら双璧だからって特別待遇かよ。行者のくせに掃除はどした」
「それがちゃんとやってんだよ。勤行前厠に起きた時、あいつが掃除してるの見たから」
「確かにあいつの区域綺麗だったな」
僅かに落ちる沈黙。
「ところで、あいつ何読んでんの」
「いや、それが聞き覚えないんだけど」
固く閉じられた本堂の中、阿弥陀如来の脇侍である観音菩薩像の前で合掌し、珂惟は一心不乱に経を読んでいた。膝前には一巻の書が広げられている。
全てで三百足らずの短い経文。だが何度も何度も読み、その都度足元の経典に目を落とし、一字一字を手でなぞり、目で追う。
その時、背後の扉が叩かれた。
「珂惟、開門時間だ」
琅惺の声である。一般参賀者や在家信者が入っている時間になったというのだ。
「もうそんな時間か」
珂惟は呟くと、足元の経を巻き立ち上がった。途端、滴り落ちるいくつもの滴。
中から扉が開いた途端に押し寄せた熱気に、琅惺は驚いた。珂惟の姿を見て更に驚く。
「すごい汗だな。風邪を引くぞ」
言いつつ懐から取り出した布を手渡した。
二人は石壇の階を並んで下りる。珂惟は顔を拭いながら、訊く。
「聞いてたんだろ、どうだった?」
「いい声だったよ。読み違いもなかったし」
一般によく通る声ほど、経の威力を引き出せると言われていた。
「おお、もしかして褒めてくれてる?」
二人は、興味津々に目を向ける行者たちの前を並んで歩いて行く。
「ところでお前、俺の知らない間に杏香と何仲良くなってんだよ。昨日だってお前が来ないって聞いてがっかりしてたぞ、あいつ」
「言ったろ。ただ五通観に行くときに、怪しまれないようにってついて来てもらっただけだ。そんなことより――昨日はどうだったんだよ。行の成果は確かめられたのか」
突然話題を変える琅惺が相変わらずで、珂惟は何げなく顔を逸らし、笑っている。しかしそれはほんの僅かのことで、
「もうバッチリよ。余りの術の冴え具合に、自分が怖くなったね。それにこの経があれば――怖いものなしだ」
「それは何よりだ。で? これからどうする。襲撃犯の正体は分かったけど、問題は、どこまでがヤツの意志なのかだ。一緒にいたやけに羽振りの良さそうな爺さんが、結構地位が高いらしいのが気になる。単に二人の仕業なのか、寺ぐるみなのか、もしくは道教界ぐるみのことなのか」
琅惺は左拳を口元にあてる。
「もう少し向こうの出方を待った方がいい。そうすれば『道僧格』絡みだという仮説も、確証に変わるかもしれない」
「俺はお前の仮説が真理をついてると思うぜ。となれば、これからも誰かが狙われる。もし、『道僧格』が向こうの思い通りにまとまらなかった場合――その時は、こんな悠長にいられるかどうか。『道僧格』仲間に死人が出れば、間違いなく他のお偉いさんはビビっちまって、強固に反対しなくなるしな。うちの上座が狙われたのは、一番下っ端だったからじゃない? 単純に」
「警告――ということか?」
「恐らく」
「じゃあどうする!?」
詰め寄るように身を乗り出して声を荒らげる琅惺に、珂惟はにやりと笑い、
「簡単さ。相手の懐に飛び込む。大事になる前に、早急に」
「それはまさか――」
「そのまさかさ。今晩、五通観に乗り込む」
にわかに足を止めた琅惺の顔色が変わった。
「そんな、それじゃ寺ぐるみだろうと道教界ぐるみだろうと、君は袋叩きにされるだけだ」
「俺を見くびるなって。きっと何かを掴んで戻るから。もし――もし俺が戻らなかったら、明日お前が金吾衛に『俺が五通観から戻らない』って駆け込んでくれ。俺に何事かが起これば、それが動かぬ証拠になる。衛士が入れば、あっちも派手には動けなくなるだろうさ」
珂惟は大それたことをいいながらも、その表情は穏やかに、落ち着いていた。
その様がすでに覚悟を決めてしまっているようで、却って琅惺の背筋を冷たくする。
「ならば私も行く」
「それは駄目だ。二人ともやられるようなことになったらどうする。もう誰も上座や仏教を守る人間がいなくなってしまう。――それに、お前を気にしてては存分にやれない」
「一人捨て石になるつもりか」
「そんなわけねえだろ」
そう言って珂惟はゆっくりと辺りに目を巡らした。門の方では相変わらず行者らがたむろってて、時に笑い声が聞こえてくる。その頭上では、薄緑の茂みに朱の花が揺れる。本堂の朱色はくすみ具合に味があって、開門を告げる鐘の澄んだ音は、優しく耳に馴染んでくる。
珂惟はポツリと呟く。
「俺、気づかなかったんだ」
「え?」
「この生活が、実はもの凄く居心地がいいってことを、さ」
「――珂惟……」
眉間に深い皺を刻み悲痛な声を上げる琅惺に、珂惟は穏やかに笑いかけた。
「俺どうしても、ここに居たいんだ」
静かに語る珂惟に、琅惺は噛み付くように、
「居ればいいじゃないか。どこに行く必要があるっていうんだ!」
「俺は」
珂惟は、琅惺の声に負けないほど力強い声で、言った。
「この生活を守りたいんだ。どうしても」
その声、言葉に、ゆるぎない覚悟があることを琅惺は知った。言葉はない。ただ……。
琅惺は珂惟からの視線を外すように、そっと背を向ける。握った拳が震えている。
珂惟はうっすらと笑みを浮かべると、目の前の背に朗らかな声をかけた。
「ってことで一つ頼みがあるんだけど」
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