第32話「覚悟」
やはり
さすがの西市も静まりかえっていた。極稀にすれ違うのは、坊内に家があるものか、はたまた坊越えをしようとする不届き者か――おかげで二人はたやすく着替えることができた。
そして灯に引き寄せられるように、二人は一軒の妓楼の前に立つ。掲げた松明に、『春華楼』の金文字が朧に浮かび上がった。
珂惟を先頭に二人は入り口をくぐる。平素とは違い、明かりの少ない楼内。薄暗い中、小走りにやってきたて、膝を折ったのは仮母である。
「おやまあ
「それは言うなって。近くに寄ったものだから」
「でも申し訳ないけど、
そう言って、仮母はほほほと笑った。その高らかな笑い声が、夜闇に冷たく響く。
珂惟と杏香が幼馴染と知るのは、ここでは茉莉だけである。他の人間は、どこぞの道楽少爺が杏香に目をつけ、何かと可愛がっている――というふうに映っていた。
「……。なるほど」
やがて相槌を打った珂惟だったが、その声は硬い。
そこで一つ咳払いをすると、一転、いつもの朗らかな声で、
「じゃあ、そうしようか。でも笄礼はもう少し後にしてくれよ、外出禁止令がもうすぐ解かれるからさ。それまで、他の男にお茶だしさせるのもやめてくれよ。下手に目をつけられたら困るし。じゃあ、今日は彼女でいいや。これ、お茶代」
「確かに」
先日よりずっと重い袋を手にした仮母はにんまりすると、重い腰を上げた。
それから呼び出しがかかるまでの間、二人は全く言葉を交わすことなく、その間には重い沈黙が下りていた。
やがて部屋に通される。いつもの二間続きとは違う部屋。置かれた調度品も日常感が漂っている。そこで杏香は茶の支度をしていた。
「ごめん、こんな時間に来……」
言いかけた珂惟の言葉が止まった。
「何――お前、泣いてたの?」
見れば、その大きな両目は灯火に輝いていた。訝しげな声に、杏香は慌てて目を押さえ、
「ごめん、この前家から来た手紙を読み返してて。つい……。あらやだ琅惺さんまで――やだ恥ずかしい。あ、立たせたままでごめんなさい。入って」
だがすぐ笑顔を見せ、二人を招き入れた。
「適当に座って」
そう示された部屋の片隅、広げられた紙が置かれていた。何度も開いたのか、紙はくたびれている。とても近頃届いたとは思えぬ痛み具合である。
琅惺は少し沈痛な面持ちを、笠を脱ぐことで隠していた。珂惟はその隣で杏香から目を逸らし、冷めた声で言う。
「構わなくていい――それより、訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと?」
「実は――」
「――で、おじさんは大丈夫なの?」
杏香はそれは心配そうな表情で、聞いた。それに応える珂惟の言い様は相変わらずで、
「こいつのお陰で何とかな。――それよりこの前の商売敵の話、何か分かったか?」
その言葉に、杏香は白い手を口元にあて、
「茉莉女兄さんが街東での宴席帰りに、常連さんの家から出て来る黒づくめの男を見たって。背格好といい、常連さんも先月亡くなった前の奥さんの鬼が出るとかなんとか言っていたらしいから、多分その男じゃないかって――」
妻をなくして一月で妓楼に出入りするなど、妻が怨念を残して鬼になっても当然といえば当然か。
「本当か? で、そいつは――」
「その人最近来ないからそれ以上のことは。何だか病気になっちゃったみたい」
自業自得である。
「――そうか、まだか」
明らかに落胆する珂惟を窺うように、
「でも今度、女兄さんがお見舞いに行くって言ってたわ。その時さりげなく訊いておいてくれるって。分かったら、すぐ知らせに行くわ」
杏香は励ますような笑顔を見せた。
「分かった」
そう言って俄に珂惟は立ち上がった。杏香は驚いたように、
「もう行くの。でも琅惺さんに坊越えさせるつもりなの?」
「今日は文牒持ってっから。杏香、遅くに悪かったな。琅惺、行くぞ」
「うん」
そう琅惺が立ち上がった時、既に珂惟は部屋を後にしていた。琅惺は笠を被りながら、
「――あいつ目の前で上座がやられたの見て、焦ってるんだ。何とかしなきゃって思って」
「うん、分かってる」
俯いた顔は笑おうとしているようだった。そこへ、
「おい、何やってんだよ」
廊下からいらついた声が飛ぶ。二人は顔を見合わせ、慌てて外へ出た。
杏香が先導する後ろを、珂惟と琅惺、二人が黙って付き従う。
そこへ――前から足取り怪しい中年男が近づいてきた。すれ違う――その時だった。
「きゃあっ」
声を上げた杏香が慌てて身を引いた。薄暗がりでも分かる、下卑た笑いを浮かべた男は、「おっ、かわいいねえ。いい尻」
「や、めて下さい!」
「何言ってんだ。こんな場所で恥らっても意味ないぜ。減るもんじゃなし――いててっ!」
男の言葉は、最後は悲鳴に取って代わった。珂惟がその腕を捩じ上げたからである。
「がっついてんな親父。いくらモテないからって、こんな小娘にまで手を出すなんて。恥を知れよ恥を」
「こんなところに来ているお前に言われたくは……いたたたっ」
「何だって? こんなところに来ている?」
「いえっ、すみませんっ。何でもありません、だから放して下さいよおーっ」
男は甲高い悲鳴を上げる。「しゃあねえなあ」珂惟は呟くと腕を放し、ひょい、っと男の背を押した。「ひええ」男は情けない声を上げると、転がるように元来た道を戻っていく。
「そんなに怒らなくても――でも、ありがと」
杏香は、そう言って笑顔を見せた。一方の珂惟は、
「何言ってんだ、お前。何だって殴りつけないんだよ。お前の腕なら、あんなヤサ男、軽く吹っ飛ばせるだろ!」
「なっ、何言ってんのよっ! この細腕で人を殴れるわけないでしょっ! やめてよ、琅惺さんに誤解されるじゃない。違うから」
「違うのは、お前のほうだろ!」
「――いいの」
ムキになってまくし立てる珂惟に、杏香は一言、静かに言った。
そして、
「平気よ、あれくらい。もう慣れたし。それに、もう少ししたら、もーっと大変なこと、やるんだからさ」
えへへ、そう言って、杏香ははにかんだ笑みを見せた。
「杏香……」
「覚悟はできてる」
「――」
その時、奥の扉が開いた。琅惺は慌てて笠を押さえ、三人は、何とはなしにそちらに目を向ける。人影が、廊下を軋ませ少しずつ近づいて来た。手にした炬火に浮かんだその顔は――
「茉莉さん」
朧な光に、柔和な笑みが浮かんでいた。
「やっぱり珂惟さんの声だったのね。どうしたの、喧嘩でもしたの?」
「いえ、すみません。起こしてしまって」
おとなしく詫びる珂惟に、琅惺は思わず頭を上げ、様子を窺ってしまう。そして彼の肩越しに立つ、いかにも寝起きというか細い女性と目が合い、慌てて顔を伏せた。
「いいのよ、ちょうどお水が飲みたくって起きたところだったから。じゃあ私が下まで送りましょう。お友達も、裏口から出るといいわ。杏香ちゃんは、もうお休みなさい」
「はい。ありがとうございます女兄さん」
杏香は茉莉の言葉に頷くと、「じゃあまた」と一言残して、部屋に戻っていった。
杏香の部屋の扉が閉まるのを見ると、茉莉の「では行きましょう」の声に導かれ、二人は歩き出した。
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