第33話「かなわない」

 医師に仕立てた珂惟かいを背後に従えた琅惺ろうせいが、持っていた文牒を見せると、あっさりと西市の坊門は開いた。

 崇賢坊を目指し急ぐ珂惟の足は、時に小走りでなければ追いつかないほどである。

「何を焦ってるんだよ」

 琅惺は早足で珂惟に並ぶ。

「別に」

「手掛かりはあったんだから、あとは待とう。今日のことで、明日からは衛士も寺に入るはずだ。ヤツも、おいそれとは入って来れないよ」

「だから焦ってないって言ってるだろ」

 言いながら珂惟は足を早める。

「――あの女の人の前では素直だった癖に」

 琅惺の呟きに、珂惟は振り返って

「何だって!」

「いや何でも――ほら、坊門が見えたぞ。神妙な顔して、予定通りにするんだぞ」

 行く先に、崇賢坊の門が見えて来た。二人は足を緩め、並んで門を通った。

 にわかに雲が出たせいか、坊内は暗黒の闇に包まれていた。


「何か、おどろおどろしい感じだな」


 辺りを窺いながら、琅惺は呟く。

 その時、坊門脇の詰所から気配がした。衛士が出てくるのだろう。

 そして確かに衛士は出て来た。


 だが。


「待て、様子がおかしい」

 文牒を返しに行こうとする琅惺の肩を、珂惟は背後から掴む。

 そこへ衛士は近づいて来た。月が雲に隠れ、闇であるにも関わらず、松明も持たずに。

 突然。


 白光が空を切った。


「うわっ!」

 声を上げると同時、琅惺は背後に強く引っ張られた。

「下がってろ!」

 よろめき、地に転んだ琅惺の前に、珂惟が立ちはだかった。投げ出された松明が、はるか先で燻っている。

 雲が流れた。

 再び現れた月に浮かび上がった姿は……。

「あ……」

 見上げた琅惺の声が、震えていた。

 その目に映し出された姿は、人型ではある。だが――月光を背に受け影になってるはずの顔に、異様な光を放つ二つの光。そして漏れるのは奇妙な呻き。明らかに尋常ではない。

「憑かれてるんだ」

 珂惟の言葉に、琅惺は相変わらず、動けない。

 珂惟は近づく物怪を睨み上げ、両手を胸前で合わせ、印形を結ぶ。

「臨」

 通る声が、冴えた夜の空気を震わせた。

「兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

 苦悶し足が止まった衛士の前、刀形で九列を切る。

「急急如律令!」

 俄に体から黒い影が飛び出した。途端衛士の表情が和らぎ、瞬く間に地に崩れ落ちる。

「何なんだ一体。――おい、立てるか?」

 珂惟は振り返ると、腰を抜かしている琅惺に手を伸ばした。

 琅惺は強ばった表情のまま強引に引き上げられ、いつしか立ち上がっていた。

「ああもう火は消えてるし。早く戻ろうぜ。他の衛士が来ると話がややこしくなる」

 珂惟が地面に転がった包みと松明の燃え残りを捜し出し、手にしたその時――背後から手を叩く音が聞こえた。


「誰だ!」


 振り返った。坊門の上に座っていたのは、

「お前――」

 先刻大覚寺から姿を消したあの男だった。「坊主が九字を使えるとは、恐れ入ったよ」

「じゃ、まさか今のはお前が……」

「さてな」

 男が口の端だけを上げるのが、月光の下確かに見えた。

「――何が目的だ」

 目の力を抜かぬまま、珂惟は聞く。男は一瞬瞠目すると、

「別に何も」

「では――上座を執拗に狙うのは、気まぐれだとでも?」

 押さえた声にも滲む怒りが、夜の気を震わす。それが男にも響いたか、にわかに表情を改め、

「私に思うところはない。だが、あの方が望まれるなら、神も仏も除くだけ。たとえそれが――老君であっても」

「え?」

 背後で琅惺が呟く声を、珂惟は聞いた。

 そこで男は表情を一転、何もかもを小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、

「まあ安心しろ。お前らの上座のような下っ端を、いつまでも狙うほど俺も暇じゃない。それに、本気で殺る気だったら、天雄など使わぬわ」

「天雄……」

 男の言葉に眉を寄せる珂惟の背後で、琅惺がまたしても声を上げた。

 すると、

「おっといかん。遊びすぎたか」

 男はそう言うと、後ろに飛び、門の向こうに姿を消す。と、同時複数の火が近づいて来た。

「ヤバい。衛士が戻って来た、逃げろ」

 珂惟は琅惺の手を掴むと、慌てて走りだした。幾度も角を曲がって小路に入り、腕を引っ張ってグイグイ進んで行く。

 走ることしばらく。

 ふと、珂惟は後ろを振り返り、

「――って最初から追われてねえか」

 そう呟くと、ようやく琅惺の手を放した。

 途端琅惺は立ち止まると、よろめきながら坊牆にもたれ掛かり、肩で大きく激しく息を継ぐ。珂惟はというと、隣に並んで天を仰ぎ、唇を噛みしめていた。

「敵わねえ」

 ポツリ呟く。

「俺は対人や、人に鬼を憑かせるような、あんな真似はできない。ムカつくけどあいつ俺より格段上だ――くそっ、どうすればいいんだ」 悔しさを露に壁を叩いた。

 しかし。

 同じ感情を抱いていたのは珂惟一人ではなかった。

 ――敵わない。

 乱れていない隣の珂惟を、琅惺は息を整えながら横目で窺っていた。

 ――共に双璧と呼ばれても、私にこんな真似はできない。私は敵わない、この男に――。

 向けられる視線に気づかないまま、珂惟は空を睨み上げていた。


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