第31話「交朱」
「どうした」
そこへ駆け込む複数の僧たち。
「術をかけられたことは言うな」
「何で?」
「いいから」
「実は怪しい者がそこの塀を……」
珂惟はしばし黙って立ち尽くしていたが、彼らの視線が傍らの院子(にわ)に集まるのを見て取ると、そっとその場を離れて、琅惺の居た部屋へと入る。そして奥の扉を静かに開いた。
そこに確かに横たわる上座の姿。規則正しい寝息が微かに聞こえてきて、珂惟は一つ大きく息をした。
「ご無事か」
背後に集まった僧たちに軽く会釈して場を譲ると、珂惟は静かに部屋を出た。
人気ないの回廊――珂惟はひょいと欄干を乗り越え、月に青く光る院子を横切る。
「待て」
声は、小走りに回廊を渡って来た琅惺である。
だが珂惟は足を止めない。琅惺は歯噛みして――いっそう足を速めて回廊を急ぎ、行く手にあった階段を二段飛ばしに下りた。
珂惟の前に立ち――「どこへ行くつもりだ」
「もう寝る」
「嘘つけ、方向が全然違うじゃないか」
珂惟は答えない。琅惺の前を横切ると、高床式になっている回廊の下をくぐり抜ける。
「待てって」
琅惺もあとに従いながら、
「さっき君が部屋を去る前に、一度私を部屋から出したのは、細工するためだったんだな。上座を抱えて廊下から隣室に入る様子を相手に見せつけてから隠し扉を使って上座を元の部屋に返し、自分は廊下から再び部屋に戻って私の帰りを待った。その後は僧坊へ行くふりをして静かに隣室に入り、ヤツが来るのを待っていたんだ」
「ご明察」
珂惟は足を更に早める。琅惺は縋るように、
「何で全部一人でやろうとするんだ、そんな危ないことを」
珂惟は答えない。足も止めない。
向かう先は、琅惺が珂惟を引っぱたいた寺院の片隅。それに気づいた琅惺は、
「今更後を追っても無駄だ」
腕を掴み、言う。珂惟はそれを振り払い、
「違う。
「彼女のところへ?」
戸惑いを露にする問う琅惺。そこで珂惟はやっと足を止めた。
「あの男、背ぇ高かったな」
「――そうだな。君より半尺くらいは」
「俺らより年上そうだったよな」
「そう――二十代後半ってとこ……」
言いかけて、ハッとした。
「おまけに二重だった」
畳み掛けるように珂惟は言い放つと、再び琅惺に背を向けた。
琅惺は慌てて、珂惟の腕を掴み直すと、
「この前の商売敵って話か? なら夜が明けてからにしろ。今行ったからって――」
「それじゃ遅い」
とりつくしまもない。琅惺はなおも、
「ここいらは衛士でいっぱいだ。今坊越えなんかして、バレたら怪しまれるのは君だぞ」
「俺はそんなヘマはしない」
「行ってどうするんだ。あの男が例の襲撃犯として、居場所を突き止めて一人で乗り込むのか。そんな無茶ができるわけないだろ」
「お前には関係ない」
聞く耳持たずである。すると。
「ああもう! 面倒だな」
突然うんざりしたように苛立った声を上げたのは琅惺である。
「え?」珂惟は驚いて――自然足を止めていた。
「じゃあ私も行く、連れて行け」
「は?」
琅惺の言葉に、珂惟は瞠目して、頓狂な声を上げた。
だがすぐ真顔に戻り、
「冗談じゃない。お前なんか連れてたら、衛士に捕まえて下さいと自分から言いに行くようなもんだ。断る!」
「――いくら慣れてるからって何で無闇に坊越えしたがるかな。そんなことしなくても、私が堂々と行かせてやるよ、来い!」
琅惺は呆れたように、しかし力強くそう言うと、珂惟の手を引き強引に進んで行く。
「おい、どこに行くんだよっ」
寺の北門から一人外に出た琅惺は、坊門横、衛士の詰所を目にすると、突然走りだした。そして、
「大変なんです。上座のご様子が……。医師を呼びに行きたいのです。どうか文牒(通行書)を下さい!」
詰所に駆け込むなり、叫ぶように詰め寄った。最年少合格者の必死なさまに、彼を取り囲むように集まった衛士たちは気圧され、顔を見合わせている。そして――その集団の背後で、木陰に身を隠して立つ珂惟が居た。衛士の注意は全て琅惺に集まっている。
「なるほどね~」
その様子を遠巻きに見ていた珂惟は、感心したように呟いた。
そして――。
「――ってなもんさ」
折り畳まれた一片の紙片を手に、琅惺は余裕の笑みである。それさえあれば、衛士に見つかっても堂々と街を歩けるのである。
従者を装った珂惟は、包み(変装一式)と松明を手に、黙って後に従っている。琅惺は振り返ると、
「どした? 面白い顔して」
「――いや。お前、ちょっと性格変わったんじゃねえの?」
「えっ、朱に交わりすぎたか」
「ひでぇ発言」
小声だったせいか、珂惟の声は琅惺には届かなかったらしい。
「早く歩けって」
振り向いた琅惺に促され、珂惟は早足でその隣に並んだ。
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