第10話「そこには居ない人」
先を行く主の骨張った肩が、ピクッと上がる。
その変化になんら気づかないように、
「着てるものはたいしたことはなかったが、不釣り合いに高価な簪を挿していた。腹が少し膨らんでいたかなあ……」
主の体の震えは最早隠しようもなかった。珂惟は心中で軽く舌打ちをすると、
「首に白い紐が巻き付いていた。よほど無念の思いで命を絶ったようです。いや、絶たざるをえなかったのか」
足が鈍った主人が珂惟に並ぶ格好になった。
その額には脂汗が滲み、呼吸が明らかに荒い。その狼狽ぶりを横目で窺いながら、珂惟はひそかにため息をつく。そして、
「――今回、ご家族に死人が出なかったのは運がよかっただけで、次はこうはうまく行かないと思われた方がよいかと。私もあのような哀れな鬼を祓うのは、二度とごめんです」
息子ほどの珂惟の言葉に、男は言葉もなくうなだれている。心底反省しているようだ。
――ったく、地方から出てきた娘を言葉巧みに騙して散々もてあそんだ挙句、子供ができたと知るや、あっさり捨てるなんてな。肩身の狭い寒門出の婿養子には、ありがちな話だけど。
悪鬼が失せる瞬間に見せた光景――身籠もった娘が泣いて縋るのを、「俺の子だという証拠を見せろ」などと嘯く男の姿が目の裏に焼き付いて、同情する気はカケラほども起こらない。身内もなく、熱心に言い寄ってきた男に身と心を許した途端に捨てられ、そのうえ子供まで――恨まれるのも無理ねえよ、重々しい表情を見せながら、珂惟は心中そう毒づいた。
だが、門前で主は約束よりかなり重い金袋を珂惟に押し付けると、
「これも何かの縁でございます。また何かありましたら、どうぞよしなに」
こいつ――ぜんっぜん反省してねえな!
いっそ憑き殺されてしまった方がよかったか――珂惟は込み上げるものを必死に堪えながら袋を受け取り、
「供養をどうぞお忘れなく」
にっこりと笑ってそう言うと、くるりと踵を返した。
件の屋敷の門を出ると、目の前は大路だった。一般に邸宅は坊内の小路に面して建てられるが、大きな寺院・道観(道教の寺)や高官の邸宅は、直接大路に面して建てることができる。権力ある者にだけ許された特権、ということだ。
――ああいう哀れな女を作ってまで手に入れたのが、大路に面した大邸宅、か。
「けったくそ悪ぃ」
胸にわだかまるもの吐き出すように呟く。
それでも足りずに足元にあった石をいつしか蹴飛ばしていた。それが思わぬ方向に飛んで水溝に架かる石橋にカンッと跳ね返り、勢いのまま溝に落ちた。派手な水音が、静かな月夜に響き渡る。
バタバタバタバタっ! たちまち複数の足音が乱れ寄ってきた。
「誰かいるのかっ!」
松明を手にうろつく衛士たちの頭上、槐の枝上で珂惟は身を縮め、息を殺していた。
この槐、生い茂る葉が道行く人を癒す見事な木陰を作る。身を隠すにもうってうけの場だった。
「いたか?」
「いや、何も。たぶん気のせいだ」
「さっきそこで猫を見たぞ。多分それだ」
「ああそれだ、間違いない。さあ早く詰所に帰ろうぜ。賽の続きだ続き」
「おう、今度は負けねえぞ」
などと言い合いながら、彼らは来た道を戻って行った。たちまち炎が闇に溶ける。
「いい加減だよなあ。平和ボケか?」
再び地上に降り立った珂惟は、すっかり人気のなくなった大路を見つめて、そうひとりごちる。今の王朝になって早三代、後継争いがあるにはあったが、その火の粉が庶民にまでふりかかることはなかったのだ。
珂惟はほうっと一つ息を吐くと、細い月明かりの下、木陰を縫って歩き出した。
懐にはずしりと重い袋がある。見れば、まるで腹が膨れ出たかのようだ。稀に見る報酬――だけど夜闇の暗さも手伝ってか、珂惟の気はどこか沈んでいた。
膨れた腹をそっと触ってみる。ゴツゴツとしたものが両の掌にあたった。
――たった一人で、さぞ心細かったんだろう。
僅かに見えた、悪鬼の生前の姿が目の裏に蘇る。溶けてしまうのではと思うほど、ただただ泣き伏す哀れな姿が。
そうしてその姿が、さらにもう一人の姿を珂惟の記憶から呼び起こした。
でも――あの人は、一緒に生きることを選んでくれたんだ。
そうして――珂惟は大覚寺にたどり着く。
辺りに目を配りながら、後ろで髪を縛った。
木の影に身を潜めながら、昨夜同様、寺牆の上に軽々と飛び乗ると、同じように馴染んだ木の枝に手をかけた。
だが。
寺を出る前に着替えて掛けておいたはずの衣がない。寺で着るものだけでなく、妓楼に出るときに羽織っていた上衣も。
――ここを出てから今まで、風が強かったってことはなかったと思うんだけどな……。
思いながら、葉群れからしばし境内を窺う。どこにも人影はなく、ただ珂惟が身動ぐことで起こる葉擦れの音以外は聞こえない。
誰もいない――そう判断した珂惟は瞬時に枝から離れ、地上に身を置いた。頭上では、小鳥が飛び立った後のように、僅かに枝が震えている。
掌にひんやりした土の感触を感じたのも束の間、弾かれたように珂惟は顔を上げた。
年に数度しか使われることの無い客人用の宿坊の影から、スッと現れた姿があった。
月明かりに白く浮かぶその顔は――。
「
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