巻の三「暴夜」
第9話「妖しの夜」
翌夜。
「ぎゃああっ」
闇の静寂を破るかん高い叫声と共に、建物を飛び出す異物があった。それを追うように、白い衾を投げ捨て
月明かりの下、「異物」は黒く蠢いていた。人声とは程遠い、まるで地鳴りのように不気味で低い呻き声を垂れ流しながら。
それに砂を踏み締めジリジリと近づくのは、全身白づくめ、垂らした髪の隙間から鋭い眼光が覗く男――
首にかけた数珠を左手で捻り、立てた右の人差し指と中指を口元にあてながら、低い声でなにごとかを唱え続けている。そうして黒い塊の周囲をまわりながら距離を詰め、吸い込まれそうな暗黒の中に一瞬、キラリッと光る何かを見たとき、ようやく足を止めた。
「苦しかったろ? 今、楽にしてやるよ」
目を和らげると、まるで幼子に言い含めるかのように優しい声をかける。
しかし一瞬後、珂惟は再び眼前の塊を睨み据えると、胸前で人差し指を立てて両手を組み、印を結ぶ。じゃらりと胸元の数珠が鳴った。
「臨」
声が、夜の帳に走り抜ける。
するとわずかな葉擦れの音さえ聞こえない無風の院子で、彼の白衣の裾がふわりと舞い上がった。
「兵・闘・者・皆・陣・列・前」
指で結ぶ印形を変えながら一字を唱えるたび、黒い塊の苦悶が激しくなっていった。形が歪に伸び縮みし、漏れる声には苦痛があふれ出している。
「行!」
印が解かれた。
直後に成した右手の刀形で、珂惟は黒塊の目前で横に四、縦に五つ印を切った。
一層激しくなる苦悶の声に、院子を囲む回廊の片隅で身を寄せる人々が恐怖の悲鳴を上げる。そんな中、暗黒の塊が色を無くしながら、徐々に何かをかたどっていった。
珂惟は突き出した右手を、眼前の塊に向け勢いよく振り下ろす。
「邪魂消滅、急急如律令!」
声が放たれたとほぼ同時、雲一つない月夜の空ににわかに雷光が閃き、光の矢が夜色の異物に深々と突き刺さった。
地面に縫い取られたように動かなくなったそれは、急速に色を失くし、だが確かな形を成し始める。
一瞬後――それは閃光となって霧散した。
にわかに落ちる闇――再び夜。
ただ鉤月の細い光だけが院子を穏やかに包む。
珂惟は一つ息をつくと振り返り、回廊の片隅に固まる影に近づいていった。
「終わりました」
伏し目がち、ぶっきらぼうに言う。
「あっ、ありがとうございます」
二人の女に支えられやっと立ちあがった貧弱な風体の男は、ガタガタ震えながら、どうにか絞り出した声でそう言った。
「で、何だったんですか」
父を支えながら気丈にも尋ねてきたのは、まだあどけなさの残る娘である。夫の倍もの幅を持つ妻は、細身の旦那をへし折らんばかりにしがみついているだけだ。
珂惟は小さく息をつくと、
「この地に思いを残した鬼、幽霊です。たまたま、ここに邸宅を構えるお宅に現れた――ということでしょう。ですが、もう姿を見せることはないと思います」
珂惟の言葉に、少女は心から安堵の表情を見せた。父親から身を放すと、深々と頭を下げ、
「道士様、本当にありがとうございました!」
ずいぶん時間が経ってから上げられた顔には、満面の笑みが広がっていた。珂惟は、つられたように笑顔で頷き返し、
「では私はこれで」
しかし家の主を見上げた目は一転、悪鬼に向けたものより鋭い光を放っていた。
その眼差しに、主は心底脅えたように顔を引きつらせながら、
「でっ、では。門までお送り致します」
妻からどうにか身体を引き剥がし、転がるように院子に下りて来た。
「旦那様、お見送りは私が」
「いや、いい」
使用人を遮り、早足で主は進んでいく。珂惟は家人たちに一礼を残して、主の後を追った。
「癖毛の若い女」
人気のないところまで来ると、珂惟が呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます