第8話「幼馴染と高嶺の花」
「本日はありがとうございました。下まで、お送りいたしますわ」
気取りのない笑顔を向けられ、珂惟は小さく「ありがとうございます」と礼を言う。
時に茉莉に前室で音楽を奏でてもらいながら、時に他の客につく茉莉の「名代」として、杏香と語る、これが常であった。
黙然と片づけをしている杏香を残し、二人部屋を出る。廊下を料理や酒を持った見習いや老女がせわしく行き来する。室内ではそんなに気にならなかった嬌声や笑声が、あちこちから響いていた。
階を下りると、前を歩いていた茉莉が振り返った。黒髪に挿した歩搖がゆらゆら揺れる。
「杏香ちゃん、珂惟さんが来るととても元気になるのよ。また遊びに来てあげてね。無理のない程度で構わないから」
「茉莉さん。これからも、あいつをお願いします。今日もお付き合いいただいてありがとうございました」
「こちらこそ、です。こんなに素敵で礼儀正しいお客さまなら、いつでも大歓迎よ。それに楽しそうな二人が、微笑ましくって」
「そんな、俺たちそんなんじゃないですよ。ただ幼馴染みなだけで」
飛び出した声が意外に大きくて、珂惟は慌てて口を塞いだ。茉莉は菩薩を思わせる慈悲深い目で珂惟にほほ笑みかけると、優しげな声で言う。
「心配してくれる幼馴染みがいる杏香ちゃんは、本当に幸せだわ。また来てあげてね」
「おい」
声は背後からだった。
力仕事をしてると一目で分かるような頑丈そうな男が、それは鋭い目をして珂惟を睨みつけてきた。太い指や手首に無駄にじゃらじゃらとつけられた指輪や腕輪が、鈍い光の中でも眩い輝きを放っている。上質な衣で作られた衣装といい、装身具に「着られている」という印象が否めない。明らかな「成金」だ。
「あら、こんばんは」
「ちょうどよかった。お前の所に行くところだったんだ」
「じゃあ俺はここで」
と足早にその場を去りかけた珂惟を追うように、「せめて入り口までお見送りを」と声をあげた茉莉のなで肩を、男は乱暴に抱き寄せた。
「じゃあな兄ちゃん、気をつけて帰れよ」
男は上機嫌に手を上げると、茉莉を半ば強引に引きずるようにして階段を上がっていく。肩越し振り返った茉莉の唇が、「ごめんなさい」とかすかに動いた。
「ちっ」俯き、小さく舌打ち。
そして逃げるように珂惟は妓楼を出る。
まもなく夜半を迎えようという頃合だが、建ち並ぶ店先に吊るされた数多の提灯が小路を、赤々と妖しく照らしている。ここは長安屈指の繁華街である西市の中にある歓楽街で、このような妓楼は酒楼と共にいくつも軒を連ねていた。ためにここら辺一帯は夜とは思えぬ明るさ、喧噪である。 だが、もう暫くしたら往来の人々もどこかに腰を落ち着け、静かな夜が訪れるのだろう。
珂惟は人込みを避けるようにして、坊の隅へと向かった。辿り着いたそこには、まるで人気がない。
珂惟は周囲をぐるりと見渡すと、軽く息をつき、目の前にそびえる土壁に飛びついた。壁に手をかけ、顔だけを出して大路を眺める。月光が影を落とす大路には、人気はもちろん、衛士の松明が灯す明かりもない。そこで一気に体を持ち上げ、ひらり、壁を越えた。
いくら在家とはいえ、様々な特権を与えられた寺に身を置く者でありながら禁夜の城内を歩き回るなど、ばれれば杖打ちだけではすまないはず。だが彼は、坊牆沿いに植えられた槐や柳の影に身を隠しながらするすると進み、水溝に架けられた石橋を渡って小走りに大路を横切っては、また槐と柳の並木に身を潜め――を繰り返し、一度も誰にも見咎められることなく大覚寺へと辿り着いた。
月明かりに白々と浮かぶ寺墻と向こう側の槐に目を遣りながら、珂惟は頭上で丸めた髪にかぶせた布を解き、いつものように縛り直す。
軽く腰を屈めると、目を一点に向けたままそこを目指し、軽く地を蹴った。寺墻に手をかけ両腕の力で上る。周囲を再度確認して目の前の木に飛び移り、葉群が身を隠す太い枝に跨がると、上衣を脱いだ。下から現れたのは、白い寝衣。
珂惟は脱いだ上衣を枝にひっかけ、飛ばないように髪を覆っていた布で縛り付ける。そしてもう一度下を窺った次の瞬間、地に身を置いていた。
あとは僧房に戻って、いつも通り、むさ苦しい行者たちと眠るだけだ。
西に傾いた半月が、
もう暫くすると、街鼓が鳴る。
それが城内に響き渡り、数を増すほど闇が薄れていき、音が止む頃には白んだ空の下で坊門が開く。
そしていつもの営みが始まるのだ。
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