第2章 夢の都ユミテ

テラス=テラ

 目の前には、夜の丘陵帯が広がる。

 なだらかな影が伸び、そのあちこちに影の林が点在している。

 

「ここは、ユミテ国だ」

 そう、ミコシエは小さく、しかしはっきりと、呟いた。

 

「ユミテ……国? ど、どういうこと?」

 レーネには、さっぱりわけがわからなかった。

 

 彼女は後ろを振り返り、更に周囲をきょきょろと見渡す。

 

「ユミテという地名は聞いたことがない。少なくとも、モス地方からオーラスに至るまでの地図には載っていなかった。私は北国の育ちだし、この辺りに詳しいわけではないけれど、その前に、よ」

 

 ミコシエは、ゆっくりした足取りですでに、丘陵の方へ向けて歩き出している。

 レーネも仕方なく、ふう、と溜め息つきつつ、その後を追う。

 

「そう、そう……どれだけ前とも思えない、ついさっき、私は峠の魔物を追い払うために、火を放った。その火が、森中に広がってしまって……」

 

 もう一度、振り返るけどそこにあるのは鬱蒼とした夜の森。

 黒い、樹々の影ばかり。そこに、ちらちく火の赤の欠けらも、ないのだ。

 

「あなたが私の手を引いて、私達はとにかく無我夢中で逃げた。そして森を抜けて、ここへ着いた……ここは」

「ユミテ国だ。この景色は、見紛うことはない。あちらを」

 

 緩い丘を上りきると、遠く、かすかに、灯かりがちらついている。街灯かりのようだった。

 それでもレーネは、いぶかしむ気持ちを取り払えるわけではなかった。

 戦いで負った擦り傷はミコシエにもあり、火に包まれた際に服もあちこち焦げている。さいわい、二人とも火傷にまでは至っていないが。

 少なくとも、さきの戦闘の方が幻、というわけでもなさそうだった。

 

「何らかの魔法の力が働いた? あれだけの非常事態になったのだから、突発的に……私にはそんな魔法はない。ミコシエ、あなたが?」

「私にも、そのような魔法の力はないよ」

 

 ミコシエは、街灯かりの方に向かい今度は丘陵を下る。

 

「とにかくだ、せっかく身体を休めるところに来たのだ。遅くならない内に今夜は、休もう」

 それを聞くと、難しい表情をしていたレーネも幾分明るくなった。

「納得はいかない……けど」

 

 レーネは早歩きに歩いて、ミコシエの隣に並んだ。

 

「やはりこれは、あなたに関係して起こった事、であるように思う。あなたは、何やら他人には見えていないものが見えているふしがあったけど、他人には見えない迷い道に私まで道連れにしたのね、きっと。迷惑なことよ」

 

「……そうだとしたなら、すまない。しかし、あの火から逃れるのに私も必死だったのだ。おかげで助かることはできた」

 

「そうね。まあ、ね……けど、私はオーラスへ行かなければならない。何としても」

 

「わかっている。何、戻れる方法は、あるさ」

 

 ミコシエはふと足を止め、レーネの方を向いた。

 

「改めて、すまない」

 

「な、……何よお。急に」

 

「いや、さきにきみが言ったように、私にとってしか意味のない旅に、道連れにしてしまっているならば、だ。だが、必ず、オーラスまできみを送り届ける」

 

「え、ええ。いいよ。そう、わかってくれるなら」

 

「とにかく、だ」

 

 ミコシエはまた、歩き出す。

 

「もう少し行ったところ……あの灯かりの見えているとこに、テラス=テラという街がある。領主の砦が見えてくる筈だ」

 

「わ、わかるの? いや。そうよね……あなたが言うように、ここが本当にユミテという国なのなら」

 

「考えるのは、ゆっくり休んでからだ。さあ、しばらく喋るのはやめて歩くぞ」

 

「はい、はい……」

 

 思いがけない休息が得られるかもしれないこには、レーネも期待は高まった。それでもまだ、半信半疑だった。

 あの灯かりは街があるには違いない。しかし、本当にユミテ国などという聞いたこともない国が、峠の只中に現れるのだろうか。もしかすると峠の奥にある、妖しい人外の宿や隠れ里に迷い込んでいるだけではないのだろうか、と。

 

 

 だが、やがて眼前をさえぎる長い石壁と、そこにちらほらと燈る幾つかの灯かりが見え、目を疑い、それからすぐにミコシエへの疑いを取り下げることになった。

 

 壁には、小さな木の扉が付いており、そこにテラス=テラ領主館を示す文字が刻まれている。

 

「ほ、本当に言った通りね」

 

 一方で、見知らぬ土地に迷い込んでしまったことも真実となった。

 オーラスへ辿り着けるのだろうか、という思いがレーネに渦巻く。

 しかし、あの状態でミコシエがいなければ、一人では峠を越すことも難しかった。

 今は、オーラスへ行くという本筋を少しだけ離れ、この男の旅に付き合うしかないな、と諦めるのだった。

 

 壁からはかなり距離を置いた遠くに、砦と思しき影が夜のなかに佇んでいる。

 ここから、窓明かりは見えない。

 石壁には松明が燈っているから、人が住んでいないということはないだろうが、もう寝静まっているのかもしれなかった。警備の姿もない。

 

「まだ夜もこの時間なら、見回りがいるのではと思うのだが」

 

 程なく、石壁の向こうの丘陵を、人らしき影が下ってくるのを、二人は確認した。

 よぼよぼと、幾らか覚束ない足取りである。

 

 ミコシエは、かつてこの夜の丘陵を、灯かりを手に軽やかに駆けてきた人がいたのを思い出していた。

 

 カチャカチャと鍵を廻す音が、扉の裏側で聴こえ、幾らかして扉が開いた。

 

 ローブ姿の、背の低い人が現れる。

 灯かりに照らし出されたその顔は、年老いた男であった。

 

 男はしばらく何も言わなかったが、

「むう……旅の人、かね」

 そう口を開いた。

 

「珍しいことだ。領主様は、夜間、身分のわかる訪問者であれば泊めるようおっしゃっておる」

 

 老人は、ミコシエの顔をみてしばらく思案した様子だったが、

「入りなさるがいい」

 と言い、二人を通した。

 

 ミコシエは、ありがとう。と一礼し、扉をくぐる。

 レーネは念のためと思い、老人に「ここは、何というところです?」と、尋ねた。

 

「……知らんのか。どこから来なすったのかわからんが、ここはテラス=テラというところじゃが」

 

 老人の答えに、レーネは半分戸惑い、半分安堵した。

 ミコシエの言ったことは本当だった。

 休息を得られることも明白となったが、一方でこの先どうなるのか、わからない。

 ともかく今は、休むしかないようだと、レーネは思い、一礼して扉をくぐった。

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