ユミテの夢
館内に足を踏み入れると、薄く白んだ灯かりに二人は照らされる。
幾つかの灯かりは消えかかっており、薄暗い印象であった。
老人はひどく背の曲がった年寄りで、ローブを取り払うと頭頂部は禿げ上がっている。
館内はすでに寝静まっているようで、老人以外に姿を見せる者はなかった。
老人は、宿泊用の尖塔へ案内するが、食事がまだなら、幾らかの食事を用意できる、と言うので二人はそれを所望した。
そのまま一階の奥にある、やはり幾つかの灯かりは消えかけている陰気な食堂へと案内された。
「申し訳ないが、調理人はすでに帰ってしまっているので、残り物しかないのじゃが」
冷めたウィンナーや少量の鳥肉のようなものが小さな皿に入れられたものが出された。
これまでの数日間もろくなものは口にしていなかったので、二人はそれでも満足した。
それよりも、同じ階に風呂場があるので、宿泊塔に荷物を置いてから自由に使用してよいと言われ、レーネはとりわけ喜んだ。
老人は風呂を温めておくと言って、下がっていった。
「食事はまあ、明日街に出ればいいのだし、今は我慢しましょう。それより、ふふふ、お風呂に入れるのは願ってもなかった、ありがとう、ミコシエ」
「ああ、うむ。そんなにはしゃがずともよかろう」
「女の人にとって、お風呂に入れないのはつらいことよ」
「雨風呂になら、入ったであろうに」
「ミコシエはずっと雨風呂に浸ってればいいよ」
その後、二人は宿泊塔に案内されたが、すぐ用意できる部屋はここしかなかったと言われ、狭い一室にベッドが一つしかない。
「ま、……まあ、いいわ。これだってこれまでのことを、思えば」
レーネがミコシエをちらりと見ると、ミコシエは目を閉じたまま、
「私は床に布団を敷いて眠ろう」
と言った。
狭い部屋の半分を占めるベッドや周囲の家具は、一見質素に見えるが細かい木彫りが施された古い品のようだ。
レーネは嬉々として、
「私は早速、お風呂に入ってくる。ミコシエもそれまでならベッドに寝てたら?」
と言った。
ミコシエは
「気にしないでくれ」
とだけ言い、窓の外の暗い景色に見入っているようだった。
一刻は経ち、レーネは更に嬉々として、部屋に戻ってくる。
「お風呂は、明るくて広々として、湯もなみなみとして、何よりあったかかった! ミコシエ、あなたも……」
ミコシエは、レーネが部屋を出たときと同じ位置にいて、窓の外を見やっている。
レーネはその様子から、あの山小屋で出会ったときのミコシエを思い出した。また、何か見えないものを彼は見ているのだろうかと。
しかし、次の瞬間、こちらを振り向いたミコシエの顔はレーネの予想に反して、笑顔だった。
レーネは少し、驚いた。
笑顔だったことばかりでなく、このように屈託なく見える笑顔のミコシエというのを初めて見たからだ。
「何か、いいものでも見えた?」
「いや、何も見えん。夜だから」
ミコシエは笑顔で言い、レーネはあはは、それはそうね、と笑った。
「だが……翌朝になれば、きみも見るといい。私にはこの暗闇のなかでも、色とりどりの花々が咲いているのが、畑には種々の野菜や果物が成っているのが、この目に見えるようだ。今は、遠くに、さき丘陵から見えた街灯かりがぽつぽつと見ているだけだが、明日になれば丘陵にたくさんの家々と畑が連なるのが見える。その向こうに、ユミテの夢と言われる、この国の都がある」
そう話すミコシエは、これまでになく、楽しげだった。
レーネも、その話を楽しく、聞いた。
話はしばらく続いたが、それも程々にとレーネが促すと、ミコシエも風呂を浴びに階下に下りていくのだった。
翌朝、レーネが目を覚ますと、すでにミコシエは起きており、外を眺めていた。
ただ、その表情は昨晩のように嬉々としておらず、浮かない様子であった。
レーネもベッドから起き上がり、窓の外を眺めてみるが、空は薄曇り、丘陵には、昨夜見えた街灯かりの家と思しき家々がぽつぽつとあるばかりで、これと言って賑わう雰囲気もない。
丘陵は遥か向こうへと広がっているが荒涼とし、だだっ広い何もない丘陵でしかなかった。
ミコシエは無言で、レーネも彼に対し何も言葉は述べず、眠い目をこすって階下の食堂へと下りた。
昨晩のあの老人には出会わず、二人の若い女性の召使いが働いており、聞けば客人のことは知らずもう片づけをしているところだ、と言う。家人の分の食事しか作らなかったので、簡単な料理でよければ今から作り直す、とのことだった。
二人は、食堂に入って、料理ができるのを待った。
食堂には、昨晩と同じように灯かりが燈っており、この部屋は奥にあるため窓がなく外の光が入ってこないためか、相変わらず陰気さを湛えていた。
召使いの一人が皿を運んで来たので、ミコシエが聞くと、領主は病で下には下りて来ないと言い、こちらから挨拶に伺うと言っても、人には会わないのだと言う。
領主には三人の息子がいて、皆街の役人勤めをしており、すでに早朝に発ったというのだった。
領主の名を尋ねると、デスル家というが、ミコシエにはその家名は聞き覚えのないような家名であった。
その他には、今の領主は七年前に、それまでの領主が他国への賄賂容疑で捕まったため、その後に家ごとここに越してきたのだ、という話を聞いた。
二人の遣いは、どちらも近くの山村の出で、ここへは半年程前から働きに来ているが、それ以上の詳しいことまではわからないのだと言った。
玉子焼きとパンにミルクというだけの、簡素な朝食を済ますと、宿泊代を払って、二人は館を出た。食事代については申し訳ないので要らないとのことだった。
レーネは、館を出る前に、召使いに土地について質問をしてみた。
しかし、女性は二人ともエルゾ峠、という名前には、さて、聞いたことない、と首を傾げた。
「この領地を出たことはございませんし……」
二人の出身の山間部というのは、領内を北寄りに進んだ天使化石郡、というところにあるという。
「では、あちらの方」
とレーネは、自分達の来た東に鬱蒼と茂る森の方を指差し、
「あの森の向こうには何がある?」
と聞いてみる。
するとそれには、確かにあちらの方角は森や谷が入り組んでいると聞き、峠も存在するだろうとは思う、とのことだった。
旅人の往来も、年単位で見れば幾つかあるので、その峠を越して別の国と行き来しているのだろうが、詳しいことを聞いたことはないというのだった。
「今は、この国は他国との交流や物流もございませんのですわ」
「もし何でしたら、領主様の御子息らにお聞きになれば、少しはわかるかもしれません」
それ以上の要領は、得なかった。
「ミコシエ。これから、どうするの?」
「私は、すまないがもう少しこの国を歩いてみるつもりだが。ただ……」
「うん? 何か」
「ただ、もし元の峠へ戻るなら、きみがさき指した方角へ、つまり私達が来た方角へ戻ればいい。おそらくそれで戻れるだろう。私達はそこから来たのだから」
「どういうこと。じゃあこのユミテ国は、エルゾ峠から通じていたっていうこと?」
確かに、実際に戻って確かめたわけではなかった。ひとまず休息も得られるとのことだったしミコシエに促されるままに歩いて、言った通りの場所へ来たので全く違う土地に飛ばされてしまった、と思い込んだが、実際にはそうではなくユミテという国が得エルゾ峠の西側に存在した、というだけなのか。
だが、ただ単純にそうとも思えなかった。
この土地は、これまでの土地とはやはりどこか空気が違っている。
「ユミテの都はそう遠くはない」
「ああ、確か、ユミテの夢と呼ばれるすばらしい都があるって言ったね」
ミコシエはそれには答えず、ただ、
「そこまで足を延ばしてみたいのだ」
と事務的な返答を返すのみだった。
「ふぅん。わかったわ。ここで一人で戻れと言われても、そうするわけにもいかないってのもあるけど、仮に峠に戻れたとして、手ぶらでも困るし、街で必要な道具を揃えていきましょう」
レーネもそう言い、ミコシエの行く方角へと歩くのだった。
「そうだな。ついでに、見ていくといい。ユミテは、良いところだよ」
「そう……」
ユミテのことを語るミコシエの言葉には、昨晩のような楽しげな調子はなかった。
丘陵を歩くとやがて、館の尖塔から見えていた家が、ぽつぽつと見えてくる。
そこでは、住民達がめいめいの畑を耕しており、来る寒さに備え、最後の作物を刈り入れている、といった様子だった。
峠で感じたよりもここは暖かで、まだ冬までには幾らか余裕があるように見える。
そのことがレーネには、空間だけでなく時間のずれも感じさせた。
穏やかな情景だが、離れた違う土地に来てしまっているのだと感じさせる。
本当に、ミコシエの言う通り元来た道を戻れば峠に出るようには思われないのだった。
「きれいなところね。空気もいいし」
「うむ……」
しかしミコシエは期待したものがそこにはなかったような戸惑いで、周囲を見ているのだった。
かつて自分がここを訪れたとき、もっと、街は色に溢れていた。それは、季節の違いとは思えなかった。何か、足りないものがあるのだ。人々もただ黙々と、作業をしている。
家も五、六軒通り過ぎると、後は何もなく、丘陵が続くばかりになる。
幾つかの緩い丘陵を上っては下り、昼下がりまで黙々と歩いた。
あれ以来、街や民家の一つにも行き当たらず、行く先には、大きな丘陵も見えているが、そこにも街の影はない。
レーネには、本当にこの先に華やかな都があるのかと思われたが、ミコシエにさえその思いが過ぎっていた。
丘陵に林のかたまりや高い木々が増えだし、高い日が傾きだす前に、一軒の教会に行き当たった。
ミコシエが以前都への街道を通った際には見かけなかった教会だ。
もっとも今は、街道というものすら見あたらない。道を間違えたとも思えなかった。
「少し、ここで話を聞いてみようと思う」
ミコシエは、そう言って扉を開ける。
内部は一続きの祈りの間で、奥に一人の神父が直立しているのみで、他に人の姿はなかった。
「すまない。少し、尋ねてもよろしいか? ユミテの都は、この先で合っているかな」
神父は身じろぎもせず、答えた。
「はて? 都とは」
「ユミテの夢、と呼ばれていた。この国の首都のことだが」
「ユミテの夢ならば、こちらです」
神父は、そう言い、教会の天井を指差す。
それは天井一面に描かれた巨大絵画であり、そこには、大丘陵いっぱいに広がる美しい城郭の街が描かれていた。色とりどりの旗があちこちで、本当に風に揺れているかのようだ。
それは確かに、ミコシエの記憶の中にあるユミテの夢とも一致した。
しかし、この先へ進めばこの都に行けるのか、問うミコシエに、神父が答えたのは、奇妙な答えでしかなかった。
「このユミテの夢は、かつてこのユミテの地を旅した大僧侶が、夢の中で辿り着いた都だと言われております。その夢を記述した書物を元に、数世紀前にある画家が描いたのが、この巨大絵画であると、伝えられております」
ミコシエは、それ以上何も問わなかった。
代わりに、この国の現在の地図はないか聞くと、神父は一枚の破けた地図を取り出してきた。
その地図では、国の外は森に囲まれており、西側には亀山という山が連なり、そこから先はずっと山が続くばかりになっている。
国の中心に、都があるというふうにはなっていなかった。周囲に、テラス=テラや、天使化石郡などミコシエがかつて聞いた地名は確かに存在するが、記載によれば、どの郡も小さな幾つかの集落を有するに過ぎない規模の小さな郡でしかないようだった。
「これは、いつの時代の地図だ?」
「わかりませんな。そう古くはない、十年も前ということはございますまいと思いますが」
話を聞き終えると、教会を出て、ミコシエは些か思案した様子で、教会の脇の林を歩いた。
「もう少しだけ、確認したい」
「都は、ないって……」
レーネは少々、ミコシエを不憫にも思った。
きっと、ミコシエにとって何らかの意味のある、もしかしたら懐かしい土地だったのかもしれない。
最初は信じ難かったが、ミコシエの言う通りの領地に辿り着き、しかしどうやらミコシエが考えていた土地とはまた変化してしまっていた。
「さきの地図にもあったが、国の西に、ユド郡という郡がありそこには温泉もある」
「ふ、ふぅん」
レーネは、ミコシエが、レーネをお風呂好きと思い引きとめようとでもしているのかと思ったが、そこまでの意味はないのだろうと思い返した。
「まあいいよ。ここまで来たのだし付き合っても」
もう日が暮れかけている。
二人は、もう一度教会に戻り宿を所望すると、神父は好きになさるといいと許可をしてくれた。
簡素なパンをもらい、それから神父はさきの地図をもう一度出してきてこの地図はもう必要ないので差し上げましょう、と言うのだった。
翌朝、二人は更に西へ進んでみることになる。
しかし、思わぬことに、地図に従って進んだのだが、昼前にもならないうちに、国境に達してしまった。
ユド郡らしきそこには、数軒の民家が集落としてあり、そのいちばん奥に、小さな鉱泉を有する一軒の民家と変わらない小さな宿があるのだった。
二人はともあれ、その宿に入った。
「珍しいなあ」
宿は一人の老婆が営んでおり、二人を見るや、
「昨晩も旅人二人が宿を所望してなあ。会わんかったかい? 今朝方、出て行ったとこよ」
と言うのだった。
客は男二人だったと言い、この土地から出るにはどうすればいいのか聞いてきたので、それなら反対方向に行きなされと教えてやったと言う。
「お婆さんは、東の森の向こうへ行ったことは?」
「ない、ないわ。ないけんど、旅人は東からこの国に入ってくるでな。出るのも東よ」
二人は、少し早い昼食をこの宿で頂くことにした。
昼食を終えた正午頃に、さきの二人の旅人の話はさほど気に留めてもいなかったのだが、レーネが二人を見たと言い、その二人が、ミコシエと一緒にいた傭兵集団の中の二人に間違いなかった、と言う。
「あいつらもいたってことは、やっぱりここは、峠からそう離れてはいないんだ」
レーネは二人を見たことで、些か不機嫌な様子ではあった。
二人はこちらに気付くことはなくその後、覚束ない足取りで、迷い込んだ旅人のような不安げな表情でうろうろしつつどこかへと消えていった。
この頃には、山の近くのためだろうか、少し霧が出てきていた。
段々濃くなってくることもなく、薄れて消えて山間の景色がきれいに見えるようになったと思えば、また霧が出てきて周囲を薄ぼんやりと包んだりといった具合であった。
宿の、山間に向けてがらりと開けた食事処に腰かけ、しばらくのとき、何をするともなくそれを眺めた。
ミコシエは物思いに耽っているようだったが、ふと口を開き、
「レーネ。どうする? 今から戻れば、夕刻までには領主館の辺りまで戻れるかもしれないが」
「ミコシエはもう、いいの。この辺で」
レーネの機嫌は戻ったようだった。ミコシエも、落ち込んだ様子はない。
「うむ。そろそろ、戻っても私はいい」
「今日はね、ここで泊まっていきましょうか」
ミコシエは、意外な答えだと思った。
「やあ、さっき一風呂浴びたけど、ちっちゃいけど何だか心地のいい鉱泉だったし。中が、それこそ霧を集めたみたいにまっ白で、まるで夢心地だったわ」
「そう……」
ふぉふぉふぉ、と低い笑いがして、老婆がお茶と菓子を持って、入ってきた。
そうじゃろう、うちの鉱泉は、あんなみみっちい狭さじゃがこの国いちばんの古い秘湯と言ってもいいわい、と呟いている。
「にいちゃんも入りや。魔が落ちるで」
「魔……? 私が、何かに取り憑かれているように?」
「はあぁん? なんですって。婆にはよおわからんが、疲れが飛ぶつうことよ」
「ああ、そうだな……」
では、とミコシエは言い、老婆に今晩ひと晩の宿もお願いしたいと話した。
婆は、山間に近い離れの部屋があるで、と言って準備しに行くわ、と霧の中に消えていった。
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