第48話 Border Line

 うっちーさんの会社で働き始めてからというもの、私を取り巻く環境は目まぐるしく変化した。だが、その話に移る前にバンコクキッドたちのをお伝えしよう。


     ※     ※


 まずは一番心配なマツジュンである。

彼女は、お腹にいる赤ちゃんと共に日本へ帰った。ゴーゴーボーイの男は身ごもったマツジュンを捨てて行方をくらませたのである。


あまりにも惨めな顛末だが、妊娠の発覚以来、彼女がきっぱりとドラッグを絶てたことは、強烈な依存症よりも母の本能が勝った証であろう。


これを機に、新たな人生をスタートしてほしいと心から願っている。


     ※     ※


 私とカズさんの良き理解者、ナオキくんは日本の小豆島で働いている。

ネット求人で目をつけた、ホテルの予約受付センターに応募したところ、電話対応経験者ということで即採用になったそうだ。


「コールセンターの仕事はキャリアにならない」と馬鹿にする人(私も以前はその一人だった)がいるが、それは全くの誤解である。

大手企業の受付嬢ですら、マトモな電話対応ができるのはごく一部でしかない。研修のレベルは低く、耳障りで間違いだらけの日本語を教育する会社が腐る程あるのが現状だ。


よって、「コールセンターの経験は絶対に役に立つ!」と、ここで断言しよう。


その証拠に、ナオキくんは派遣先から管理職採用のオファーを受けており、好条件の年俸が提示されたそうだ。


 何はともあれ、着実に前進する彼は「シェムリアップの奇跡」を自分のことのように喜んでいた。そして、今も変わらず、私を「姐さん」と呼んで慕ってくれている。


     ※     ※


 続いてはひさびさに登場のトムさんだ。

なんと、彼は交際中のMP嬢と結婚を決めたのだという。

カズさんにそれを聞いた時は驚いてしまったが、嫉妬深いタイ人と風俗好きのトムさんが上手くやっていけるのかは甚だ疑問である。


タイでは「夫の浮気の腹いせにペニスを切断!」といった痛々しい事件が頻発する。

トムさんが、別の意味で「になってしまわないか?」と、危惧せずにはいられない。


     ※     ※


 さて、それでは最後に私自身の報告だが、最近はゲストハウスのお手伝いだけでなく、J.Khmer groupのオフィスでツアーの企画を練ったり、現地人ガイドの研修を行ったりと、充実の毎日を送っている。また、孤児院のボランティア活動が少しずつ軌道に乗り始め、ゲストハウスの宿泊客から支援を希望をされる場面も増えてきた。


さくら苑が、子供たちの笑顔と平和の祈りで満たされる日はそう遠くないはずだ。


「カズさん。本当の私を見つけてくれてありがとね」


     ※     ※


 中学生になって初めての夏休みを迎えた。


ガランとする部室のソファで、私はヨシキくんと一緒に覚えたての洋楽を聴いていた。


全部員が五名のギター部に、強豪のブラスバンド部との掛け持ちだった顧問が顔を出すことはめったにない。それに加えて夏休みともなれば、二人だけで練習する機会が頻繁にあった。


我家でも、本来ならば恒例行事のハワイ旅行に出かける時期だが、今年は私の強い反対で中止に追いやったのだ。


理由はもちろん、こうしてヨシキくんと逢いたいがためである。


小学生の頃からギターを習う彼は、機嫌が良いと弾き語りを聴かせてくれた。

すごく上手なのに、なぜか他の部員の前では頑なに歌おうとしない。


私は、ヒーローを独占するような優越感でその歌声に酔いしれた。


彼が弾くお得意のナンバーはジョンレノンの「イマジン」だ。


髪を赤く染めた少年は、どこか寂しげで絶望や諦めにも見て取れる表情つくる。


そして、儚い余韻を残して演奏が終った。


「シンイチ。今から話すのは独り言だと思って聞いてくれるか?」


ふいにヨシキくんは語りだした。


「俺が児童養護施設で暮らしてることは知ってるよな?」


「う、うん・・・」


「母親が男つくって蒸発しちゃったのは小学1年生の時だった。それからしばらくはオヤジと二人で生活してたんだけどさ。会社をリストラされたショックなのか覚醒剤に手を出しやがって・・・。真面目だけが取り柄のアイツはまたたく間に落ちぶれたよ。逮捕される直前はテーブルの上に堂々と注射器が転がっているような有様でさ。の職員に連れられて、俺が施設に入ったのは小4の春先だったかな・・・」


 そこまで一気に話したヨシキくんは制服の内ポケットからタバコを取り出すと、慣れた手つきで火をつけた。


「ちょっ!ヨシキくん?見つかったらヤバイよー」


「ビビんな!誰もこないって!!」


吐き捨てるように言った彼の頬を一筋の涙が伝った。


「ごめんな・・・急に。だからどーしたって話だよな」


「・・・・・」


「ところで、なんでシンイチはギター部なんかに移ったの?」


差し込む陽光で色づく彼が取り繕うように話題を変えた。


(君の近くに居たくてギター部に入ったの!!)


心のなかで叫んだが本音など言えるはずもない。


「イマジンが好きだったから・・・。かな?」


「なんだそれ?後付だろ?ハッハハハ。イマジンは施設の先生から初めて教わった曲なんだ。世界に国境はいらねーって意味なんだってさ・・・。自分の人生が散々なのに他人の幸せなんて祈ってる場合じゃねーんだけどよ」


「そんなこと無い!!いっぱい悲しみを知ってるヨシキくんが歌うから響くんだよ!」


「・・・・・。そっか・・・。ありがとな」


と、ここで話が終われば甘く切ない青春の1ページとして記憶にファイルされたはずだ。


しかし、現実は残酷である。


はにかみながらうつむく彼の拳にそっと掌を重ねた瞬間。


「キモっ!触んじゃねーよ!」


ビクッと身体を震わせたヨシキくんは、サッと手を引っ込めると、心底迷惑そうに部室を飛び出していったのだ。


いったい何が起きたというのか?


うっとりとする気持ちは木っ端微塵に消し飛んだ。


悔しさと切なさ。湧き上がる絶望。


「手を繋ぎたかっただけなのに・・・。こんなところにも越えられない国境があるんだね」


それから私は、西日も落ちた暗い部室で時間を忘れて泣き続けた。


     ※     ※ 


 あの遠い夏の日から苦悩の人生が始まった。

しかし今、私はたどり着いた居場所で一輪の花を咲かせようとしている。


「泥中の蓮華」


蓮は泥の中でこそ大輪の花を咲かせるのだ。


特殊な性に生まれたからこそ見えた景色があった。


私だけの花を咲かせよう・・・。


「ヨシキくん。国境は私の頭の中にあったんだね。ありがとう・・・。サヨウナラ」


     ※     ※


 数カ月後。私は、カズさんから届いたフリーペーパーの表紙に「バンコクキッド」というタイトルを見つけた。


子供たちに囲まれ、ギターを抱える女性の傍らにエッセイが綴られている。


「日本を飛び出したトランスジェンダーの素敵な人生」

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