第42話 トラウマへの挑戦

 施設の事務所らしき場所に、連絡先として「シェムリアップ日本人会」の名刺が残されていた。サムくんの携帯から代表の番号にコールすると、何度目かの呼び出し音の後で穏やかな声の日本人女性と繋がった。


「もしもし。突然すみません。今、さくら苑という孤児院にいるのですが・・・・」


「えっ?!あなた一人?」


「いえ。地元のドライバーと一緒です」


「そう。とにかく気をつけて。さくら苑の周りには地雷の撤去が未完全なエリアがあるの。土地勘のない日本人が一人で歩くのは危険よ。絶対に地元の人から離れちゃダメ。詳しい話はこっちに帰って来てからにしましょう!」


     ※     ※


 街に戻った私を待っていたのは、地元で「マダム・サチエ」と呼ばれる50代の素敵な女性だった。シェムリアップで土産物屋やカフェを営む在住歴15年のベテラン社長である。

彼女の経営するショップや工場は、地域住民に雇用の場を提供するばかりでなく、利益の一部を孤児院の支援に役立てているそうだ。


トランスジェンダーの私にも、こちらが拍子抜けするほど自然な対応で、偏見や差別などは微塵も感じさせない懐の深さがあった。


気付くと私は、出会って間もないサチエさんにカンボジアに来ることになった経緯や生い立ちに至るまで一部始終を打ち明けていた。


「あ、すみません。私ばっかり喋っちゃって・・・。サチエさんって、初めて会った気がしないんですよねー」


「いいのいいの。なぜだか私も、先立たれた娘と再開できた感覚でいるの・・・」


     ※     ※


 さくら苑は、あるベンチャー起業家の寄付によって設立され、当初は日本人スタッフが住み込みで支援にあたっていたという。

他で手に負えない問題児を積極的に受け入れたため、シェムリアップ近郊の地域では最後の拠り所になっていたようだ。


だが、精力的な取り組みも長くは続かなかったのである。


スタッフが突然日本に帰ってしまったのを皮切りに運営が行き詰まり、20人近く暮らしていた児童たちは、今残る数名を覗いて別の孤児院へと転所を余儀なくされた。


現在は、この惨状を見かねた日本人会のメンバーで解決策を検討中なのだという。


     ※     ※


「さくら苑を見てどう思った?」


「日本へ帰ったスタッフをぶん殴ってやりたい気分です。すぐ逃げ出しちゃう私が言うのも変ですが・・・」


「それだけのファイトがあれば大丈夫。今までもボランティア希望者はいたんだけどね。キレイ事ばかり並べるような人は1ヶ月と持たなかった。結局、福祉活動をする自分って立派でしょ!ってタイプの自己満なの。怒りをストレートにぶつけたあなたは信頼できる」


「性別適合手術を終えた後も、私の中にいるシンイチが消えることはなくて・・・。最近は、なんだか頻繁に現れるんです」


「消す必要なんて無いの。ありのままのアヤカちゃんを愛してくれるが必ず迎えにやってくるから」


     ※     ※


 親子のごとく打ち解けた私たちは、早急にさくら苑の具体的な支援プランを立てていった。

そして、午前中は私が担当で見守りを行い、午後からはサチエさんや日本人会のメンバーが交代で施設を訪問する旨が決まったのである。

いずれは語学の勉強と職業訓練ができる環境を整備し、自立への道筋をつけてあげるのが目標だ。

また、これらを実現するには、今後も積極的に支援者を募る必要があるため、PR活動や地域福祉ネットワークの構築が重要な鍵となる。

私は、シェムリアップで事業を行う経営者に協力を呼びかけたり、ゲストハウスに案内のポスターを貼らせていただいたりと忙しく動きまわった。


 施設の子供たちは、そんな私に少しづつ懐いてきたが、固く閉ざした心を開くにはまだ時が必要だろう。少年の様子を見れば、大人がいなくなった隙にシンナーを吸っているのは明らかだ。


そこで、なにか薬物を忘れられるものは無いかと模索した結果、私は「ギターを教えてみよう!」とひらめいたのだ。


ヒントをくれたのは、トンレサップ湖でお世話になったご主人だ。


あの日の弾き語りは国境を超え、悲しみを遠い過去へと洗い流したのである。


幸いにも、ギター「その物」を用意できる見込みはあった。ゲストハウス巡りの途中で放置状態のクラシックギターが何本も目に留まっていたからだ。孤児院の事情を話すと、いずれも快く譲ってもらえたのである。


 古びたギターを持って施設を訪れると、子供たちの顔が輝いた。


一筋の希望の光が射したのである。


初めにレッスンするナンバーは「イマジン」だ。


トラウマへの挑戦。


児童養護施設で暮らしたヨシキくんの涙が、私をさくら苑まで導いたのだ。


「一人じゃないよ。一緒に乗り越えよう!」


ゆっくりでいい。


遠回りでもいい。


この曲が弾けるようになった頃には「もうシンナーなんて吸わないよ」と笑っくれると信じている。

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