第41話 邪悪な快楽
カンボジアの内戦時代に思いを馳せつつ、のんびり歩く牛を眺めていると、遠くから私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「Ayaka!Ayaka!」
茂みの奥ではサムくんがこちらに手招きをしている。
「Not bomb.Not bomb.Safety!Look here!」
※ ※
敷地内には大量のゴミが散乱し、建物の壁は落書きだらけである。
(何なの?ここは・・・)
朽ちた門扉には「さくら苑」と日本語で書かれた消えかけの看板が掛かっていた。
なんと、急いで駆けつけた施設は"打ち捨てられた孤児院"だったのである。
サムくんが「誰かいませんか?」と、声を上げながら進んで行くと、中庭で遊ぶ子供たちが一斉に振り返った。そばに寄ってきた3人の服は穴だらけで、女児のブラッシングされていない髪が途中で絡まっている。
「Money、Money、One dollar!」と、必死でお金をねだる姿は物乞いと見紛うほどだ。
私は憂鬱に耐え切れない表情でサムくんを見た。
「Upstairs.Upstairs.」
彼は2階にも誰かいるようだと言っている。
二人は、途中が傷んで抜け落ちた階段を、足下に気を付けながらゆっくりと上っていった。
そして、ベッドがずらりと並ぶ大部屋の前まで来た時である。
どこかで嗅いだことがあるツーンとした独特の臭気が漂ってきた。
「!!!!」
隣に立つサムくんの顔つきが変わった。
孤児院出身の彼は、臭いの正体に心あたりがあるようだ。
※ ※
ベッドの陰には虚ろな目でシンナーを吸う少年がへたり込んでいる。
私にとってシンナー遊びとは「昭和ヤンキーの悪戯」くらいの感覚でいたが、けっして侮れない劇薬である。
カズさんが、若気の至りで中学時代に手を出して以来、その強烈な依存性に辛酸を舐めた経験を語ってくれたことがあった。
シンナーの乱用は発展途上国の深刻な社会問題で、どこでも簡単に手に入るうえに、心身へ及ぼすダメージは覚醒剤を含めた他のドラッグよりも強力だ。また、その陶酔感はマリファナなどとは比べものにならず、蒸気吸引がもたらす作用は、「死んでしまっても構わない」と思うほど邪悪な快楽に満ちているという。
サムくんは、どうしたものかと困り顔である。少年の手から強引にシンナーを取り上げても、事態は何も解決しないからだ。強制的にやめさせたいのなら、閉鎖病棟での隔離が必要だろう。
「救ってあげたい・・・」
気持ちばかりが焦ったが、今はひたすらに祈るのが精一杯だ。
悲しげな横顔が夏の日のヨシキくんとダブって見えた。
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