第40話 地雷を踏んだらサヨウナラ

 孤児院巡りを始めてから1ヶ月弱が経った。

この日も、「サムくん」が運転するトゥクトゥクに乗って田舎道を走っていた時である。


突然バイクの調子が悪くなり、ついにはエンストを起こしてしまったのだ。

慌てた彼が、あちこち点検するも直る気配はさっぱりない。

運の悪いことに、この場所は街の中心部から離れているため、助けを呼んでも到着までにだいぶ時間を要するだろう。


 困り果てたサムくんはヤブの奥に見える廃屋まで修理道具を探しに向かった。


一人で待つのが心細かった私が、その背中に「Go together!」と声をかけると、いつもは温厚な彼が語気を強めた。


「絶対にそこを動くな!地雷があるかもしれない」


こんな時、ふと私は「ここはカンボジアなんだ」と思い知らされるのである。


 サムくんを待つ間、私は東南アジアの近代史を特集する雑誌に目を落とした。

今は安全な世界遺産の街として賑わうシェムリアップだが、内戦時代は旅行者など気軽に立ち入ることの出来ない大変危険なエリアだったのである。


     ※     ※


 1970年代初頭。戦場カメラマンの一ノ瀬泰造氏は、カンボジアに入国後、クメール・ルージュの支配下にあったアンコールワットへの一番乗りを目指していた。

そして、1973年11月「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだらサヨウナラ」と友人宛に手紙を残すと、単身、遺跡へ潜入し、消息を絶ったのである。


それから9年後の1982年。

一ノ瀬氏が住んでいたシェムリアップから14キロ離れたアンコールワット北東部のプラダック村で遺体が発見される。

無惨にも、彼はクメール・ルージュに捕らえられ「処刑」されていたのだ。

1999年に、この話が原作の日本映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」が公開。大きな反響を呼ぶ。

※引用「一ノ瀬泰造」及び「地雷を踏んだらサヨウナラ」『ウィキペディア日本語版』(2016年6月8日取得)


     ※     ※


 何気なく遺跡めぐりをするシェムリアップ付近で、それほど遠くない過去に日本人が関わる悲壮な歴史があったのだ。


私は、彼の凄惨な死を悼むとともに「うまく地雷を踏んだらサヨウナラ」と言ってのける、どこかユーモラスで潔い生き方にシンパシーを覚えた。


尊敬する仏教学者(浄土真宗僧侶)である花山勝友先生のお言葉を拝借すれば、


「人間の死亡率は100%」


時に人生は長く感じられるが、繰り返す生まれ変わりの中においては、ほんの一瞬でしかない。


信念を貫いて死んだ一ノ瀬氏は、ある意味幸せだったのではなかろうか。


     ※     ※


さらに、もう一人。

カンボジアPKOに携わった警察官の死を記しておこう。


 高田晴行氏は、カンボジアで治安維持活動中に殉職した警察官だ。


1993年5月4日の昼過ぎ。カンボジア北西部のバンテイメンチェイ州アンピル村に駐在する国連カンボジア暫定統治機構の日本人文民警察官5人は、国道691号を走行中、待ち構えていたポル・ポト派とみられる武装ゲリラの襲撃を受けた。


10人程度とみられるゲリラ集団は、先頭車両を対戦車ロケット弾で攻撃し、車列が停止すると、自動小銃で一斉射撃を開始した。

駆け付けたオランダ海兵隊が応戦するも、現場で高田警部補が死亡。他の4人の日本人文民警察官も重傷を負い、ヘリコプターでバンコク市内のプミポン空軍病院に搬送された。

※引用「高田晴行」『ウィキペディア日本語版』(2016年9月7日取得)


日本を代表して散った誇り高き男の死を銘記すべきであろう。

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