第6話 ナチュラルハイ
バンコクでは会社近くのアパートを借りる予定だが、良い物件が見つかるまでの間はホテル暮らしをする必要があった。しかし、なにぶん急いでタイに来たため資金面の準備は乏しく、おのずと節約プランでのスタートを強いられた。よって、なるべく出費を抑えようと選んだのが立地の割にリーズナブルな「アンバ●ダーホテル」だったのである。
ところが、数日間バンコクを歩き回ってみると、旅行感覚で散財しなければそれほど気を使わなくても生活費は安く済むことが分かった。
通りに並ぶ屋台料理はどれも日本人の口に合い、路線図片手にバスを乗りこなせばBTSよりはるかに安く移動ができる。
このように、ローカルの環境に順応しながら、ざっくりと今後の生活費について見積もりを立ててみると、初任給が入るまで頑張れば後はなんとかなる計算だ。
バンコクコールセンターの求人を見かけた日から、このホテルにたどり着くまでに要した期間は、わずか1ヶ月半。
私の人生は意外な方向へと転がり始めた。
失うものなんて何もない。自分の居場所を探してみよう。
※ ※
ホテルに滞在すること1週間。会社の紹介で手頃なアパートが見つかった。
いざチェックアウトの日となると、人種の坩堝であるナナエリアから離れるのが寂しく感じられた。
ムスリムたちはバンコクの中では少数だが、自分たちの信念を曲げずに、たくましく、そしてしたたかにコミニュティを築く姿は印象的だった。
同じマイノリティとして、境遇は違えども共感できる部分が少なからずあったのだ。
私は、後ろ髪ひかれる思いでタクシーにスーツケースを積み込むと、これから暮らすことになるクローンサーン地区へと向かった。
※ ※
引っ越し先のアパートの部屋は15階建ての最上階だ。
遠くには、かの有名な「暁の寺」の仏塔が見える。
「これぞバンコク!」といった眺めにテンションが上がった。
このように、まるでVIPにでもなった気分が味わえる物件であるが、家賃は長期契約で5000バーツとけっして高くはない。
それもそのはず、会社側が下調べをしてから社員に紹介するアパートなので、身分不相応なところを契約させるわけはない。また、バンコクのアパートはほとんどが家具付きのため着の身着のまますぐに生活がスタートできる。
タイは家賃が安いと聞いていたが、ここまでコスパが良いとは嬉しい誤算だ。
一息ついた私はトラのマークの缶ビールを片手にミルクティー色のチャオプラヤ川を見下ろしていた。
大通りを黒い排気ガスを巻き上げながらバスが走っていく。
燻っていた憂いがゾクゾクする期待に変わるのが分かった。
アルコールの酔いとは明らかに違う感覚だ。
"遠い昔に忘れた"痺れる高揚。
強烈なナチュラルハイである。
気付けば私は、あの夏の「イマジン」を口ずさんでいた。
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