第3話 RAINBOW PRIDE

 私がバンコクで暮らそうと決めたのは、インターネットでこんなバナー広告を見つけたからだ。


「語学、学歴、年齢不問。バンコクコールセンターで憧れの海外就職!」


初めはなんだか胡散臭い求人だと勘ぐっていた。

だが、一通り募集要項を読み終えた頃には、「これは私のための求人だ!今の不健全な生活から脱出するにはタイに行くしかない!」と、独り合点していたのである。


    ※      ※


 数時間後。仕事内容もろくに確認しないままエントリーボタンをクリックした私のメールボックスに返信が届いた。

驚くほど速いレスポンスに新手のではないかと疑念が湧いたほどだ。

しかし、このチャンスに賭けるしかなかった私は、それから1ヶ月後に開催される合同面接会にすぐさま申し込んだのである。


 当日、一つ前の順番で面接を受けるは、予定時間を過ぎてもなかなか部屋から出てこなかった。

イライラしながら聞き耳を立ててみると、なにやら必死のアピールで自分を売り込んでいる。

こんな謎だらけの求人に、どんな変わり者が応募して来るのかと想像をめぐらせていたが、集まった面々は真剣そのものだ。


 突然だが、ここでMtFの面接にありがちな「特有のやり取り」をご紹介しよう。※完パス=完全パスを短縮した業界用語。誰がどう見ても本来の性別に見えない完成度の高さを意味する。


まずは、ほとんどのケースで履歴書を一瞥いちべつした瞬間に面接官は首をかしげる。それもそのはず、名前欄にシンイチと記載された目の前の応募者は、どこからどう見ても女なのだ。


よって、次に来る質問は十中八九の確率で「性別は?」である。


その度に、私は「戸籍上は男です」と答えるのだが、そんなやり取りはもはや慣れっこだった。

「書いてあんだろ!よく見ろよボケ!」と、キレそうになる自分を押し殺していたのは既に過去の話である。


 この日の面接も、私はそんなくだらない会話からスタートするのかと鬱々と順番を待っていたのだ。


ところが、バンコクコールセンターを運営する●●システムズの面接官は違った。


性別についての質問は見事にスルー。


それどころか「採用されたら職場ではどういった性別での待遇を希望しますか?」と、自分の意思で好きなセクシュアリティーを選べというのである。

日本の企業らしからぬ柔軟な対応に当事者のこちらが戸惑ってしまった。


「普段はアヤカと名乗っておりますが、オフィスでは男として働かせてください!」


「分かりました。それでは近日中にお返事しますね」


今思い返してみても不思議だ。

この時、私は生まれ持った生物学的性別をしている訳ではないと悟ったのである。


いや、否定どころか、それは「プライド」に近い。


 日本で1990年代頃から使われ始めたLGBTという言葉は、女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、性同一性障害(トランスジェンダー、Transgender)を含む性別越境者の頭字語をとった総称である。


しかし、私の中には、そのどれにも当てはまらない多様な性が潜んでいる。


結局のところ、性同一性障害などと診断をくだしてみても、人の心を医学で解明しようとする事自体に無理があるのかもしれない。

LGBTの社会運動を象徴する旗が、レインボーフラッグ (rainbow flag)である意味は何れにも分類されないアイデンティティーの表明なのだ。


「こんなにも複雑な人格を誰が分かってくれるというの?」


これこそが長年に渡って苦しんできただったことを、今更ながら痛感したのである。


     ※     ※


 面接が終わり、期待と不安の中で待つこと一週間。


結果はなんと採用である。

あまりにあっけなく話はトントン拍子で進んでしまった。


 だが、喜びも束の間、ここで注意すべきは「現地採用」という一般人にはあまり聞き慣れない雇用形態だ。

これは日本の労働基準法が関知できないローカル契約のため、当然、厚生年金や社会保険なども適用外。そして、気になる給料も30,000バーツ(約10万円)と日本円に換算するとバカげた金額だった。

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