第1章-09 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター

「ねえ、獅堂くん。いいかしら───? これが最後の質問。わたし、あなたにどうしても聞いてみたいことがあったの」

「な、なに……?」


 応じはしたものの、このときのぼくは圧倒されるばかりでろくに彼女の話なんか頭に入っちゃいなかった。いや、もちろん余裕でガン見してたし、ブラジャーの刺繡の柄に大興奮だったし、記憶のすべてを8K画質で永久録画保存したいくらいの勢いだったけれど、でもじっさいのところで言えば、この時のぼくはただぼうぜんとし(もったいないことに!)あっけにとられていたというのがほんとうのところだったろう。なにより女の子ってきっとこうなんだろうな、とそれまで脳裏であれこれ思い描いていた妄想のすべてがそこにあった。


 だがこの瞬間、女の子の下着姿に惚け面していたぼくは間近に迫っている危機と変化に少しも気づいていなかった。

 そんなぼくに対し、木佐谷樹は月明かりを背にほとんど互いの吐息がかかりそうなくらい顔を近づけて訊ねる。


「昨日のことよ。あのとき、あなたはどうしてわたしの後を追ってきたの……? わたしの力を知ったにもかかわらず、なぜそのまま逃げようとしなかったの?」

「そ、それは……ぼくはただ、カメラを届けに……」

 ぼくはからからの喉で言いよどんだ。

「それだけ? 他に理由はないのかしら」

「や、それは……」

「脳内の彼女に申し訳ない?」

 笑いを含んだ声でささやいた木佐谷樹の身体が、ゆっくりと傾いた時だった。



「───おもしろい小娘だ。その力、妾の血脈の一部となるに足る」



「!?」


 不意に間近で響いた嗄れた声に、ぼくと木佐谷樹は同時に凍りついた。

 瞬間、月明かりを受けて教室の床に伸びたぼくの影が、まるで墨でもぶちまけたようにその面積を大きく広げると、突如垂直に起き上がり、嵩高くふくれあがるやぼくらめがけて襲いかかってきた。


「お、お前……!」


 おどろきの声を漏らすぼくの面前で、衝撃音と共に机が吹っ飛ぶ。ぼくは木佐谷樹を突き飛ばして床に転がったが、ひっくり返った椅子と机の狭間で身を起こす間もなく影はまるで生き物のように床を這うと、ぼくらにむかってさらに突進してくる。

「なに……? これ……」

 目の前の状況がまだよく理解出来ないのだろう。女の子らしい仕草で身をすくめる木佐谷樹に対し、闇色の影は彼女の身体を覆い尽くそうとするようにその足下に殺到する。


「きゃっ……」

「!」


 ぼくはとっさに床に左手をつき、ありったけの重力を奔らせた。その瞬間、影はぴたりと動きを止め、いらだたしげにうごめく。影は前後左右にその身を激しくのたうち回らせていたが、己の動きを止めた元凶を悟ったのだろう。今度はぼくに狙いを定めるや、鋭い奔流となって襲いかかってくる。

 ぼくは間一髪その襲撃を避けると、素早く教室の壁を蹴った。そしてその勢いのまま伸ばした指先で天井に軽く触れる。その瞬間、ぼくは地球の重力に抗ってくるりと一回転し、掌の接地面を中心に四股を踏むようにして両脚を天井に着ける。


「し、獅堂くん!?」

 まるで地面に立つようにして天井に逆さに立つぼくを、木佐谷樹はあっけにとられて見つめる。彼女はこの時はじめてぼくの超能力者としての力を目にしたのだった。


 そう、これがぼくの力───『重力』。ぼくは自分の身体に触れたあらゆる場所を媒介にし、そこに人工的な重力を発生させることができるのだ。


 ちなみにぼくはこの能力を『ディメンション・トリガー』と名付けている。生まれついた自分の力に夢中になり、それに凝った名をつけるべく英語辞書を引っ張りながらあれこれ技のネーミングに頭をひねっていた中学時代の痛い過去、古傷だ。

 その影とも闇ともつかぬ奇妙な黒い存在は標的を失い一瞬動きを止めたが、まるで意図を持った液体金属のように再集合するや、再び黒い津波となって頭上のぼくを襲う。


「よっと」

 ぼくは重力を切り、床に着地した。片膝をついた姿勢を正す間もなく、影はぼくの下に殺到する。

 ぼくは下着姿の木佐谷樹をかばうようにして彼女の前に立つと、革の指ぬきグローブを塡めた左手をすっと前に差し出した。その瞬間、床に転がっていた椅子と机が一斉に起き上がると、ぼくの掌の前でたちまち人工的な壁を作り上げ影の攻撃を跳ね返す。


『グラビティ・ストリーム』───革のグローブの掌の部分に仕込んだ薄い金属の板を触媒とすることによって掌に重力を発生させ、手元へ自在に物体を引き寄せる技。そして過去の痛いネーミングファイルその2、だ。


「獅堂くん……」

 ふっ。決まった。

 間一髪、クラスメイトを救い、ぼくが自分のかっこよさに内心うっとりとしていたときだった。




「やほーっ。ログっ。わたし、遊びにきたわ!!」


 明るく、あっけらかんとした声がぼくの夢想を破った。深夜の静寂を破り戦闘でごったがえしている2‐Aの教室の窓むこう……ちょうど雲間から顔をのぞかせた月明かりをバックにかわいい闖入者が姿を現す。

 グラウンドに面した教室の窓のむこうに、使い古された庭箒に乗った年若いブロンドの女の子が一人、こっちを見て元気いっぱいに白い歯をこぼしている。

 ぼくは啞然とした。


「ロ、ロンド……!? きみ、なんだって……」

「へへー。ボナッセーラ! 会いにきちゃったっ」

「会いに来たって……な、なんでここが……つーかきみ、検査入院だったんじゃ……」

「もうすっかりよくなったわっ」


 その子───星降ロンド・タルクウィニアは鮮やかに右目をつむって見せた。そして箒で器用にホバリングしたまま窓辺に近づき、からりと窓を開ける。


「お散歩くらい平気よっ。それに、退屈だったからちょっと抜け出してログのおうちに遊びに行こうとしたら、たまたまこの近くにログの気配が……」


 そこまで言ったところで、ロンドの視線はようやくぼくの隣に下着姿で寄り添う木佐谷樹軍乃の存在に気がつく。



 ぴしっ。


 ロンドは凍りついた。ついでにその場の空気も。


 絶望の泥沼に両脚をつっこみつつ、ぼくはこの案件について可及的すみやかに一千億個の言い訳を思いつこうと努力したが無駄だった。最初の一個すら思いつかないうちに、ロンドの表情が陰り、ゆがみ、崩れる。生まれて初めて拵えたガールフレンドが泣き出す瞬間を、ぼくは罪悪感たっぷりに目の当たりにしたのだった。


「ああん。ログのばかーっ。もうだいっきらい!!」

 ロンドは子どもみたいに一声叫ぶと、大泣きしながら飛び去っていってしまった。ぼくはあわてふためいた。

「ロ、ロンド待ってっ。ちがうんだっ。違うっ。それマジ誤解っ、ちょっ……」

 さっきまでの自己陶酔っぷりはどこへやら、ぼくは必死にその背に追いすがった。つーか生まれて十七年、ここまであわてた記憶はない。だがこの時、この子を追いかけようとしたのはぼくだけではなかった。


 それまでぼくらを付け狙い、暴れ回っていた闇色の影はロンドの出現に伴い一瞬その動きを止めていたが、やおら身を翻すや奔流となって彼女の後を追って窓を飛び出していく。その動きはまるで意志を持った生物のそれか、熱源を探知して敵機を自動追尾する兵器を思わせた。


 ぼくははっとした。と同時に、それまでうすうす感づいていたこいつの正体について思い至る。


「───くそっ」


 ぼくは激しく舌打ちしてふたり(?)の後を追う。

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