第1章-08 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター
木佐谷樹は制服姿だった。黒髪が夜気にそよいでいる。
「きてくれたのね」
「まー、一応は」
ぼくは用心深く言った。ぼくの警戒心を見て取ったのだろう。木佐谷樹は言った。
「安心して。なにもしないわ」
「だといいけどな」
「ほんとうよ。もし黒焦げにするのなら今日教室にいる時にさんざんその機会があったもの」
こええ!
この子が火を操れる能力の持ち主であったことを思い出し、ぼくは震えあがった。それは鉄塔の上で彼女にさんざん嬲られたという殆ど肉体的な恐怖に基づいていた。
「こっちよ。校舎に入りましょう」
「こ、ここで話せないの?」
正門の外から声をかけるぼくにむかって木佐谷樹はわずかに首を傾けて振り返り、笑みを浮かべただけで無言で歩き出す。やむなくぼくは後に続いた。暗闇の中、彼女のまとう涼しげな夏服のシャツが白く浮かび上がり、ぼくを導いた。
夜に学校に入るのは初めてだった。見慣れたはずの廊下や教室の風景がいつもとまるで違って見える。
考えてみれば、これは女の子と二人きりで深夜の校舎を歩くというなんともどぎまぎするシチュエーションにほかならない。そんなぼくの心情を素早く察したのだろう。木佐谷樹は前方に視線を据えたまま言った。
「言っておくけど、へんなこと考えない方がいいわよ。いえ、正確には考えてもいいけれど実際の行動には移さない方がいいと思うわ」
「か、考えてねーよ」
木佐谷樹はぼくを従えて廊下を進み、やがてある扉の前で立ち止まった。そこは2‐A───ぼくと彼女のクラスだった。
なぜ教室に……といぶかしむぼくをよそに木佐谷樹は室内に足を踏み入れると、薄闇の中、整然と並ぶ机の縁にそっと中指を滑らせてつぶやく。
「───からっぽの教室って、なんかいいわね」
「木佐谷樹……」
「獅堂くん、座って。───自分の席に」
「せ、席に?」
「そ。着席」
ぼくはやむなくふだん自分が座っている席(教壇にむかって中央最前列、最悪の席だ)の椅子を引き、腰を下ろした。木佐谷樹はとんとぼくの机の上に横座りすると、その瞳をぼくにむける。目の前を重量感のある女の子の身体でふさがれ、ぼくは赤くなった。
つうか、死ぬほど近いんですけど。
「も、もういいだろ。いったい何の用だよ」
鼻腔の奥にえもいわれぬいい香りを感じて、ぼくはあわててそっぽをむいて言った。一方、何を考えているのか木佐谷樹はそのしなやかな腰でぼくの机の一角を占めつつ、形のいい脚を組んで言う。
「あら、用があるのはわたしではなくきみの方じゃなくって?」
そう言うと木佐谷樹は黒髪を払い、挑発的にぼくの瞳をのぞき込む。ぼくは思わずつばを飲み込んだ。そんなぼくをよそに木佐谷樹は机から降りると、ぼくの目の前に立った。ふわり───スカートの裾が翻る。
「べつに、用ってほどのことはないの。ただ、昨日の感想を聞いておこうと思って」
「か、感想?」
「ええ。感想と苦情。どうだった? 生まれて初めて鉄塔に登って。さぞわたしに言いたいことがあるんじゃなくって?」
「蟬の気持ちがわかったかな。生きていることに感謝して、余生は山川草木を含めすべての生き物に優しくすることにするよ」
「果たしてきみに余生があればね」
「あるよ!」
「冗談よ。絶縁碍子の写真、ありがとう。とてもよく撮れていたわ」
人間は学習する。下心と妄想のフル装備でこの子のおしりにくっついていった昨日とは打って変わり、ぼくはこの期に及んでもいささかも警戒を解いてはいなかった。
そんなぼくの気持ちを察したのだろう。木佐谷樹はうすく笑うと、ふと遠くを見晴るかすようにして言った。
「───わたしね、自分と同じような能力を持っている人間がこの世のどこかにいると思ってた。そして……そうね、ある日ばったりと、それも全然劇的じゃない形でその人と出会うって。そんな想像をしていたの。それがまさか同じクラスにいる、こんな冴えない男の子だとは思いもよらなかったけれど」
「冴えなくて悪かったな」
ぼくの精一杯の皮肉もさらりと流し、木佐谷樹は黒髪を払うと言葉を続けた。
「獅堂くん、わたしが長いこと気づかなかったみたいに、あなたの持つ能力のことをこのクラスにいる全員が気づいていないわ。なぜなら、あなたはとっても上手に自分の力を隠しているから。でも、いったいなぜ? あなたはどうしてこの力を受け入れ、かつそんなに自然体でいられるの?」
「さ、さあ。かわいいガールフレンドのおかげかな」
「脳内に住んでいる? おもしろい冗談ね」
一刀のもとに斬り捨てると、木佐谷樹は胸元のタイに手をかけた。そしてその結び目をほどきながら言う。
「わたしが想像するに、きみは自分の人生をその能力にずいぶん投資しているわ。自分が持つ力の長所と短所を正しく理解し、適切に行使出来るようにね。でなければ、あそこまで追い詰められていながら平静でいることなんてできないもの」
「じ、自分の長所と短所を知ることはいいことじゃないか」
「一般論もあなたが言うと心底むかつくわね」
そう言うと彼女はするりとタイを胸元から抜き取った。そして白いシャツのボタンを上から順に一つ一つ外していき、左右に開くとなめらかな両肩からそっとすべり落とす。
「本当に腹立たしいわ。きみみたいなエッチなことしか頭にないぼんくらな男の子にまんまと出し抜かれるなんて。つまり、あの鉄塔にしがみつきながら、あなたは心の中でわたしの行動を見切っていたということでしょう?」
そう言って木佐谷樹は椅子に腰掛けているぼくに一歩近づくと、膝に触れるくらい間近に立って傲然とぼくを見下ろす。
「情けをかけたと思っていた相手に実は情けをかけられていた。きっと、あの鉄塔の出来事は屈辱の歴史としてわたしの記憶に長く刻まれることでしょう。一体その巡りの悪そうな頭に、どんな猿知恵が宿っていたのかしら?」
「し、しらないよ。ていうか木佐谷樹さん、きみはその、どうして服を脱いでいるの……?」
「あら、今ごろになって気づいたの。やはりきみは注意力散漫ね」
「誰にでもわかるよ!」
「あなたみたいな下種を歓ばせるのは癪だけど、賭けはわたしの負けよ。くやしいけど約束を果たすわ。こんな変態の前で素肌をさらすなんて、屈辱以外の何物でもないけれど」
そう言うと彼女はスカートのホックに手をやる。
「いや、だからなんで脱ぐの!? 賭けは確か制服の裾がどうこうって───」
木佐谷樹は呆れたように言った。
「きみってホント考え足らずね。自分が一体何メートル登ったと思ってるのよ。あなた、まさかわたしに本気でスカートを持ち上げろなんて言うんじゃないでしょうね。そんな真似するくらいなら最初から自分で脱いだ方がましよ」
「な、なるほど───ってか、だからもうそれいいってっ。そもそもあれは半分冗談みたいなもんだしっ」
「わたし、自分の言葉は必ず守る主義なの」
そう言うと木佐谷樹は腰のホックを外し、足下にスカートを落とした。闇の中、白い裸身が露わになり、窓から差し込む月明かりが彼女のすらりとしたシルエットを浮かび上がらせる。
「───木佐谷樹」
言葉を飲むぼくの視線の前で、木佐谷樹軍乃は少しも動じることなくその裸身をさらすと、ぐいと身を乗り出して耳元でささやいた。
「ねえ、獅堂くん。いいかしら───? これが最後の質問。わたし、あなたにどうしても聞いてみたいことがあったの」
「な、なに……?」
応じはしたものの、このときのぼくは圧倒されるばかりでろくに彼女の話なんか頭に入っちゃいなかった。
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