第1章-06 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター

 一旦完全に鉄塔から身体が離れたにもかかわらず墜死しなかったのは単に運が良かったのだろう。滑稽な舞の末、とっさに伸ばした指先が偶然鉄骨の端にひっかかり、ぼくは必死に鉄塔にしがみついた。滝のような汗が流れ、尻の穴から魂が全部抜け落ちるような感覚に下半身がしびれる。

 そんなぼくの耳元にスマホから声が届く。


『───熱伝導って知ってる? 物体の高温部から低温部に熱が移動する現象のことよ。通常、エキシトンやフォノンなどの粒子が熱エネルギーを伝達することを指すわ』


「熱っ……あ、あ、あちっ」


 ぼくは彼女の言葉を千分の一も理解していなかった。というのも一旦はしがみついた鉄骨は依然その全体がまるで触っていられないくらい熱く、ぼくの抱擁を拒んでいたからである。鉄塔を摑んだり放したりと無様なダンスを踊るぼくの耳に彼女の声が届いた。


『あら、落ちてなかったの? 残念』


 今や自分の正体を隠すことなく嘲りを投げるこの美貌のクラスメイトに、ぼくは思わず声を上げた。

「き、きみは……まさか……そ、その、ち、ち、超能力───」

『しっ。それ以上言ったら殺すわよ。茶碗蒸しにしてね』

 こええ!

 次の瞬間、ぼっ、とまるで彼女の意志がダイレクトで現れたようにぼくの目の前に小さな炎の塊が出現する。それは植物のように鉄塔を支える鉄骨に赤い炎の根を張り、ちろちろと大気を舐めるように揺れている。

 戦慄するぼくをよそに、木佐谷樹きさやぎは言葉を紡いだ。


『わたし、前から思ってたのよね。日常で超能力者と出会うなんて、ほとんどない。だから、もし会うことがあったらその時はぜったいに容赦しないって』

「意味わかんねーよっ。つうか、なんで闘う前提!?」

『危険は芽の内に摘んでおくべきでしょ』

 大モルトケ並の先制包囲攻撃&殲滅戦法を戦略思想に持っているらしく木佐谷樹軍乃は言い捨てた。ボルトを伝う熱はわずかに薄らぎ、鉄骨は触れるのに我慢出来るかできないか、ぎりぎりの温度を帯びている。


『きみ、超能力者よね』

「いや、だから知らないってっ」

『まだとぼける気? そんなに地上に石榴の花を咲かせたいとはね』

「ち、ち、ちょっとたんまたんまっ。つーか、マジわけわかんないし!」

 混乱する頭の中で、とりあえずとっさにぼくはふたつのことを理解した。


 ひとつ。この女は火や炎や熱に関連したなにか不思議な能力を持っているということ。そしてもうひとつはこの女は尋常じゃなくやばいということである。


『───ねえ獅堂くん、あなた、さっき聞いたわよね。どうして自分をこんなところに誘ったんだって』

 今や日本代表どころかワールドクラスのサディストっぷりを発揮しつつ、木佐谷樹は静かに言った。

「そ、それは……ぼくが友達がいなくて暇そうな帰宅部だったからだろ」

『人目につかないからよ』

 やるきまんまんだ!

 目の前でちらちらと躍る炎を避けながら、ぼくは必死に首を左右に巡らせた。遥か鉄塔の上に摑まる物はなにもない。

 後悔煩悶懊悩焦燥……様々な想いが胸の奥をよぎる中、ぼくは腹を決めた。とりあえずなんだかよくわからないけれど、とにかくここは逃げの一手だ。

 ぼくはおそるおそる言った。


「ご、ごめん。木佐谷樹。ぼ、ぼく、もうそろそろ下りたいんだけど……」

『あら、どうして? まだ半分じゃない。それに碍子も全然撮ってないし』

「で、でも、もう暗くなってきたし、そろそろ体力も限界……」

 ぼくが息荒くあえいだときだった。




「まどろっこしいぞ。いつまでこんなことをしているつもりだ?」




 不意にぼくの左手の手元から地獄の底から響くような嗄れた女の声がした。驚愕するぼくに、その声はさらにぼくに語りかける。


「そんな小娘、さっさと犯して殺せばいい。なにをためらう」


「黙れ! だれが出てこいと言った? 引っ込んでろっ」

『なに? 今の?』

 よく聞こえなかったのだろう。スマホを通して訝しげな木佐谷樹の声が聞こえてくる。

『……今の声、獅堂くん? なに独り言を話しているの?』

「あ、あ、い、いや……」

 絶句し、しどろもどろになるぼくに、木佐谷樹はぼくが脳内でこさえた相手と独り言で会話していると勘違いしたのだろう。呆れたように言う。


『しっかし獅堂くんって見かけよりタフよねー。この期に及んで、ひとり芝居する元気があるんだから』

「なにが……いったいなにが目的なんだ? きみは」

 息も絶え絶えになって訊ねるぼくに対し、彼女は素っ気なく言った。

『目的? それはこちらの台詞だわ。何が目的なの?』

「しらないよ! ぼくに目的なんかないって!」

『……ふうん』

 これまでいいだけいたぶったことで、あらかたぼくに対する興味をなくしたのだろう。あるいは放っておいても大過ないザコキャラだと見なしたのかもしれない。彼女は小さく鼻を鳴らした。

『……ま、いいわ。だいたいわかったから』

 そしてがらりと口調を変えて訊ねる。

『で、どうするの? その高さでギブアップする? ぼくの負けですとはっきり口にするならこれでおしまいにしてあげてもいいけど』


「─────」


 問い詰められ、塔にしがみついたままぼくはとっさに空を見上げた。澄み渡る大気と広がる伸びやかな光。あたりは夕焼けに染まり、傾いた陽は田畑や街並み、遠くの採草地や森や山の稜線を浮かび上がらせながら視界の隅々にまでいっぱいに広がっている。


 一瞬の沈黙のあと、ぼくは言った。

「ギブアップだ」


『じゃあ、わたしのスカートを持ち上げるのはいさぎよく諦めるのね? もしそうなら、はっきりと口に出して言って。じゃないと、賭けの不成立は認めないわよ』

「ぱぱぱ、ぱんつ諦めます」

『結構。では記念に獅堂くんの写真を一枚撮っておこうかしら。自分の欲望と女の子の誘惑に負け、挙げ句にっちもさっちもいかなくなったその無様な姿を。───そのまま動かないでね』

 鉄塔にへばりついたまま身じろぎ一つ出来ないでいるぼくに下からカメラのレンズを向けているのだろう。しばらくしてカシャッとシャッターを切る音がし、続いて満足げな木佐谷樹の声が届く。

『うん。よく撮れたわ。情けなくていい感じ。これに『性獣の末路』というタイトルを付けて画像投稿サイトに載せようかしら』

 さらりとおそろしいことを言って、木佐谷樹は立ち上がった。

『さてと。じゃあ、わたしは帰るわね、獅堂くん。ご期待に応えられなくてごめんなさい。でも、そこまで登ったんですもの。自分に自信を持ってもいいと思うわ』

 そう言うと、彼女は歩き出したらしい。音声にわずかに風の音がのる。とっさにぼくは訊ねた。


「き、木佐谷樹……絶縁碍子は……さっきの話は……あれは、最初っから全部噓だったのか? ぼくをここに連れ出すための」

 木佐谷樹は一瞬、沈黙した。その沈黙はなぜかぼくにはとても長いものに感じられた。

 やがて木佐谷樹は素っ気なく言った。



『当たり前でしょう。わたしが碍子なんかに興味を持つわけないじゃないの。獅堂くんみたいなとんまな男の子を誘うための餌以外にどんな理由があるっていうのよ』

「……そうか」

『じゃあね、獅堂くん。今日は楽しかったわ』

 その言葉を最後に、ふいに通話は途切れた。


「……はあ」


 ぼくは大きくため息をついた。そして、スマホがツーツー……という話中音を響かせる中、のろのろと上を見あげる。


 目の前に、電線を渡した白い絶縁碍子がある。

 お椀をつなげたような絶縁碍子はあかね色の空の中でとても綺麗に見えた。








「木佐谷樹」


 五分後。ぼくが追いついた時、木佐谷樹はまだ近くの横断歩道の前で信号が青に変わるのを待っていた。


「───獅堂くん!?」

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