第1章-05 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター

 当初はリビドー全開で鉄塔を登り始めたぼくだったが、すぐに女の子の色香に惑い、この子の口車にのったことを後悔していた。


 修理点検のためだろう。鉄骨の表面には登攀用のボルトがついており、上に行くにはこれを登っていけばいい。だが制服姿のぼくにはハーネスの類いが一切無い上に、長くしがみついたせいで既に体力も握力も限界に近い。今やぼくは地上30メートルという高さで鉄塔に張りついたままにっちもさっちもいかない状況に陥っていた。

 そんなぼくに対し、下界から叱咤の声が飛んでくる。

『ほらほら。獅堂し どうくん。手が止まってるわよ。早く登って』

 この野郎。

 しかも癇に障るのは、胸ポケットのスマホから頻繁に木佐谷樹きさやぎの声が響いてくることである。一体どんなつもりでスマホを持たせたのかはわからないけれど、ぼくが少しでもひるんだりすくんだりしていると、すかさず麓にいる彼女から声が飛んでくる。しかもその声にははじめにあったような気遣うようなニュアンスは失せ、しだいに嘲るような口調に変わってきているのだった。

 やむなくぼくはズボンの腿で掌の汗をぬぐうと、ふうふういいながら次のボルトに手をかけた。遠目からその姿を確認したのだろう。胸元から満足げな声が聞こえる。

『そうそう。いい感じ。その調子で手早くね。早くしないと日が暮れるわよ』

 勝手なこと言いやがって……と腹に据えかねるぼくをよそに、電話のむこうで声はつくづくといった調子で言う。

『それにしても……きみもこんな事よくするわねー。逆に感心するわ』

「あん?」

『だって、これって改めて考えたらわたしのぱんつのためにやってるんでしょ。男の子ってそんなに女の子の下着見たいもの?』

「なにいってんだ。これはそもそもきみが言い出したことで……」

『あらなに? 獅堂くん人のせいにする気?』

「この状況におかれたら、人のせいにしたくもなるよ」

 ぼくは息荒く必死に視線を巡らせながら言った。次に足がかりにし、取りつく場所を探す。なにせ手をかける順番をひとつ間違えれば命はない。頭はかっかと上気するし、反対に身体は汗が冷えたせいか心なしか寒気がする。

『でもま、自分にそれだけの価値があるって感じられるのは結構いい気分だけどね。それだけ見たいってことでしょ』

「……」

『何無視してるのよ。豚。人がせっかく話しかけてるのに』

「しかたないだろっ。今それどころじゃねーんだよっ」

『まったく。蟬みたいに鉄塔に張りついて、ぱんつ見たさに恥ずかしくないのかしら?』


 一言言おう。

 この子はドSだ。

 それも、日本代表クラスの。

『美人で清楚な学園のアイドル』という仮面をかなぐり捨て、本性を現しはじめた木佐谷樹軍乃に、なぜもっと早くこの子の異常さに気づかなかったんだろうと悔いるぼくをよそに、当の本人はあくび交じりに語りかけてくる。

『ね、まだ? わたし、そろそろ飽きてきたんですけど』

 さっきまでの碍子への情熱はどこいったんだよ……と思いつつ、なんとか間を持たせようとぼくはスマホにむかってたずねた。

「あのさ、木佐谷樹さん。ひとつ聞いていいかな?」

『なあに?』

「なんだってこんなことをぼくに? や、べつにぼくじゃなくても他にも頼める人はいると思うんだけど……」

『べーつに。ただ暇そうだったから。獅堂くん、クラスに友達もいなさそうだし。声がかけやすかったのよね』

 がくっ。

 ある程度予想はしていたけど、身もふたもない回答にがっくりする。だがそんなぼくに対し、木佐谷樹はぽつりと言った。


『それに、前から知ってたのよね。獅堂くんのこと』


「え……?」

 ぼくはどきりとした。


『知ってたの。獅堂くん、春の体育祭でクラス対抗の野球の試合をした時、グラウンド脇の芝のところでライナーで飛んできたボールを素手でキャッチしたでしょ』

「あ……」

『あれ、わたしに当たりそうだったからよく憶えているの。当たるって思った瞬間、獅堂くんが急に手を伸ばして。そうしたらボールが生き物みたいにぐいって軌道を曲げて獅堂くんの手に吸い込まれたわ。きみ、左手でキャッチしたあと、痛そうに何度も手を振ってた。ぎりぎりだったのよ。ほんとに』

「い、いやあ、そ、それは……」

 ぼくは青くなった。まさかあれを憶えている人間がいるとは思わなかったのだ。

「そ、そうだっけ。全然知らなかった。つうか、今の今まで忘れてたし」

『そのときからすごくキモイ子だなあって、失礼、間違えたわ。すごくかっこいい子だなあって、見ていたの』

「どんな間違え方!? つうか全然違うでしょ、そのふたつの方向性」

『あははは』

 ふう。

 なんとかうまくごまかせた、とぼくが思った時だった。つとスマホ越しに木佐谷樹軍乃は言った。

『獅堂くん。あなた、超能力って信じる?』

 一瞬、沈黙が落ちた。

「え、なんだって?」

『なによ。その天然系のラブコメ主人公みたいな反応は』

「ご、ごめん、風が鳴ってよく聞こえなかったから」

『超能力って信じるって聞いたの。ほら、念視とか瞬間移動とか物体浮遊とか、ゲームやまんがによく出てくるでしょ。物理法則をばんばん無視して、人の意のままに事物に干渉できる不思議な力。この世にはそういう力があるって信じる?』

「まぬけな高校生男子を鉄塔の上まで登らせる、理不尽で色っぽい力があることは信じるよ」

『あははは。獅堂くんっておもしろい!』

 木佐谷樹はくすくすと笑った。そして言う。

『前から思っていたけど、獅堂くんって見かけよりひょうきんよね。屈折したユーモアがあるっていうか』

 しみじみと言ってから彼女はがらりと口調を変えた。

『じゃあ、質問の仕方を変えるね……あなた、超能力者の存在を信じる?』

「し、信じない」

『へー。そうなんだ。どうして?』

「だって、そんなの非現実的だし……」

『ある日突然クラスメイトの女の子が近づいてきて「もし鉄塔にのぼってくれたらお礼にわたしのぱんつ見せてあげるっ」っていう言葉はそのまま鵜吞みにするのに、超能力者の存在は信じないんだ? ありえなさで言ったら、どっちも同じくらい非現実的だと思うけど』

「うっ」

 もっともな指摘に思わずひるむぼくをよそに木佐谷樹は静かに言った。

『わたしは信じるわ。というか、あっても不思議はないと思う。獅堂くん、お話をひとつしてあげましょうか?』

「お話?」

『ええ。そんなところに長くいるんだもの。あなたも少しは気分転換が必要でしょ?』

 今それどころじゃないんだけど……という言葉を飲み込むぼくの耳に、スマホの小さなスピーカーを通して木佐谷樹のなめらかな声がすべりこんできた。



『むかしね、あるところにとっても綺麗な女の子がいたの。その子は17歳のとき、偶然道ですれ違った男の子に恋をした。名も知らぬその男の子をその子は食事が喉を通らなくなるほど恋焦がれるんだけれど、どうしても再び巡り合うことができない。そのうち彼女はやつれ、折からのはやり病にかかって亡くなってしまったの。やがて、その子が持っていた着物は別の女の子に渡るんだけど、以来不思議なことが起こるようになったの。その子の持っていた振り袖を身につけた女の子が次々に病で亡くなるという事件が起きるようになったのよ』


 この子はいったいなんの話をしているのだろう……と汗を拭うぼくをよそに彼女は淡々と言葉をつむいだ。


『実はその振り袖には由縁があって、最初に亡くなった女の子が初恋の男の子が着ていた着物の柄を模して織らせたものだったの。きっとその子は男の子の面影を自分の中に留めようとしたのね。でも、着物を手にした子はなぜか呪われたように次々に病に倒れていってしまう。続けて三人の少女が病に倒れて亡くなった時、さすがに人々は不安に思って、とある寺社に頼んで護摩木を焚いてその振り袖を供養してもらうことにしたの』


「…………」


『祈禱が始まり、やがて人々が見守る中、燃え盛る護摩に振袖は投入されたわ。だけど次の瞬間、その火がついた振袖はぱっとお寺の本堂の天井へ舞い上がり、火の粉を撒き散らしたの。火はたちまち燃え広がり、折からの風に煽られてあたりの家並みに伝播した。結局、その大火事は町中を焼き尽くしたわ。一六五七年、江戸の街の四分の三を焼き尽くしたという明暦の大火よ』


「───……」


 ボルトにしがみついたまま耳を傾けるぼくに、つと彼女はがらりと口調を変えて訊ねた。


『では問題。火事を起こすきっかけとなった最初の炎、このふしぎな力は一体どっちに宿っていたと思う? 病に倒れた女の子か、それとも振り袖にか』


「さ、さあ、どっちかな」

 ぼくは我に返った。そしてなんとなく後頭部の髪がちりちりするような感覚の中、あいまいに言葉を濁す。ぼくには彼女がなぜ突然こんな話をし始めたのかわからなかったのだ。なにより身体が無性に熱く、ぼくは何度も汗を拭った。

 そんなぼくをよそに彼女はスマホ越しに言葉を続ける。


『わたし、どっちにも宿ってないと思う。こんなのただの俗説で、単なる偶然だったんじゃないかなって。だいたい、火が意志を持って暴れたりするわけないじゃない。おおかた急な突風が吹いたのを、当時の人が勘違いしただけじゃないかしら』


「う、うん」


『そもそも人の想いが物理現象に影響を与えるなんて、あるわけなくない? 人知を超えた力って、そんな都合のいいものかしら』


「そ、そうだね」


『ましてや超能力者がそうそういるわけないものね。いたとして、せいぜいクラスに一人ってとこじゃない? そう───獅堂くんみたいに』


「え……?」




『とぼけるんじゃないわよ、豚』


 その瞬間───、

「!」

 突然、ぼくの掌の中の登攀用ボルトが信じられないくらい熱を帯びた。ぼくは焼けたストーブに触れた時みたいに反射的にボルトから手を離し、大きく体勢を崩した。


「あっちっ」

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