第1章-03 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター
「───
ぼくは「なに?」と小首をかしげ、さもなんでもないような表情で顔を上げたけれど、内心は理性担ぎ上げの青森ねぶた祭状態、さもなければ妄想ポールポジション争いのニューヨークシティマラソンの開始直後みたいになっていた。
ここで断っておくと、ぼくはこのときぜんぜんそんなことは考えてなかったんだ。ぼくが舞い上がったのは、単に女の子に声をかけられたことがうれしかったからであって、それ以上のことは誓って想像の外にあった。
さらに言えば、木佐谷樹軍乃は学校でも有名な美少女なのだ。切れ長の瞳、きめ細かな白い肌、まっすぐに流れる長い黒髪、170センチを超える身長……。世の中にはまれにモデルや女優になるより他に道はないだろうというような美貌レベルが傑出した女の子がいるけれど、木佐谷樹軍乃はまさにそうしたカテゴリーに属していた。ジャンルとしてはいわゆる美人タイプで、知的でどこか高貴な佇まいと、それと裏腹にもっとも俗っぽい青年週刊誌の表紙を飾る水着グラビアアイドルにも匹敵する傲慢そうな肉体はつねに男子の圧倒的な人気と支持を得ていた。
それを考えれば、クラスの中でも特に目立つわけでもない生徒のこのぼくが、このとき少々舞い上がったとしてもやむを得ないところだったろう。
そんなぼくの心を見透かしたように木佐谷樹は一瞬口の端にはっきりとした笑みを刻むと、「ちょっと」と言ってぼくを階段の隅にいざなった。そして言う。
「獅堂くん、今日、放課後あいてる?」
年中あいてます。どーせ帰宅部だし。
「どうだったかな……。どうして?」
「悪いんだけれど、ちょっとつきあってほしいところがあるの。時間は取らせないから、お願い出来ないかしら」
よろこんで。でも、なんでぼくに? クラスが同じになってから、今まで一度も話したことないと思うけど。
「ええと……今日は予定があったっけかな。なにか、あるの?」
「この町の外れにある鉄塔に行きたいの。ひとけの無いところだから一人で行くの、ちょっと心細くて」
ぜんぜんオッケー。無問題。
「ふうん。つうか、鉄塔って……? なんだってそんなとこに」
「ちょっと写真を撮りたくて。だけどそれ、ちょっと撮りづらい場所にあって、できたら獅堂くんに手伝って欲しいの。鉄塔の上にある絶縁碍子なんだけど」
「……ごめん。なんだって?」
精一杯見栄をはって考えるふりをしながら体裁と本音をドライヴしていたぼくは、ふいに見慣れぬ縁石に乗り上げ、一瞬、素になって訊ねた。そんなぼくに対し、木佐谷樹軍乃はふわりと黒髪を揺らすと微笑んで言った。
「ゼツエンガイシ、よ」
「絶縁返し?」
「返し、じゃないわ。碍子。磁器やセラミックで出来た電気を通さない絶縁体のこと」
「は、はあ」
初めて聞く単語に面食らうぼくに対し、彼女は自分が趣味で写真を撮っていること、その写真は風景写真であること、とくに最近は郊外に出向いて気に入った被写体をカメラに収めていることなどを淡々と語った。どうやらその碍子とやらはこの子の撮りたい被写体の一部であるらしい。
人は見かけによらないと言うけれど、木佐谷樹の見かけによらない渋い趣味に面食らいつつ、ぼくは訊ねた。
「ええと……絶縁碍子ってあれだよね? あの、電線にくっついてる白い奴でしょ。玉砂利みたいな」
おぼろな記憶をたどりながら言うぼくに対し、彼女は首を振った。
「ううん。それはピン碍子や玉碍子。絶縁体の上のほうに溝が切ってあって、通常は電線をつなげて固定するの。電柱に多く用いられるわ。わたしの言っているのはもっと規模の大きな懸垂碍子や長幹碍子」
……ぜんぜんわかんねえ。
「好きなの。わたし。絶縁碍子を見たり、写真を撮ったりするのが」
ぼくが引いたのを察したのか木佐谷樹がいくぶん早口で言う。
今振り返っても、このときの木佐谷樹の表情にはポーカーフェイスの中にも自分の個人的な嗜好を正直に他人に明かすことに対する照れやはじらいがあったように思う。それは率直に言って人の心を打つものだったし、ぼくは好感を持った。なにより「好きなの」と言って頰を染め視線をそらす木佐谷樹は控えめに言っても世界最強クラスのかわいらしさがあった。
「ふ、ふうん」
はたして絶縁碍子には親しくもない男子に声をかけてまでファインダーに収める価値があるのだろうかという素朴な疑問と、この学校一のアイドルが意外とニッチな趣味を持っていたというおどろき、なによりその私的関心をただひとり打ち明けられた自分というのはひょっとしたら……という甘くうれしい妄想に浸りつつ、ぼくはうなずいた。
「───だめ、かな?」
そんなぼくにとどめをさすように木佐谷樹はわずかに首をかしげて訊ねる。その滴るような表情に、ぼくはわけもなく身震いした。
どうしよう?
べつに断る理由はない。いや、それどころかこんな幸運は滅多にないと言っていい。地味で冴えないモブキャラとしてはこの美女の気まぐれな誘いにただ感涙にむせんで応じればいいし、じっさいそうすべきだったろう。でも、ぼくにはそうしづらい、ある個人的な事情があった。そう。告白すると、ぼくはほんの十日前に、生まれて初めて女の子の友達(?)が出来たばかりだったのである。
でも───このときの木佐谷樹軍乃の魅力は抜群で。
それはそれは抗いがたいもので。
校内一のアイドルに話しかけられ、舞い上がった馬鹿な男子高校生をまんまと虜にするくらいには抗しがたい魅力に溢れていた。が、しかし。
「ごめん。せっかくだけど───、」
ほめてくれ。かろうじて胸の内に残っていた警戒心をかき集め、ぼくはこの話を断った。うまい話には裏がある。べつにそこまで勘ぐったわけではないけど、このとき、ぎりぎりのところで踏みとどまろうとしたぼくはたぶんまっとうな判断を下したのだろう。
だが。
「ただで、とは言わないわ」
彼女はそう言うとぼくに一歩近づき、つとその手を伸ばした。
そして、信じがたいことに。
ありえないことに。
「え───」
彼女はぼくの手を取ると自分の制服のスカートのサイドからたくし上げるようにそっと差し込んだのだ。その行為の当然の帰結として、ぼくの指先に彼女の豊かな腰骨となめらかな肌、そして彼女の穿いているショーツがかすかに触れる。脳内で火花が散った。
「もし写真を撮るの手伝ってくれたら、獅堂くんにお礼をしてあげる」
「……でででで、で、でも……」
焦りまくってどもるぼくにとどめの一撃。
その切れ長の美しい瞳でまっすぐにぼくの目を射貫き、ネクタイの端を摑んで勢いよく引き寄せると、木佐谷樹はあざ笑うように言った。
「きみに断る権利はないの。つきあって」
───放課後、ぼくと木佐谷樹は町外れにある鉄塔の麓にいた。
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