第1章-02 ソーリー・ロンリー・ファイヤ・スターター
振り仰ぐと、青い空が見えた。
雲ひとつ無い蒼穹。
蒼穹、なんていう生まれて十七年一度も使ったことがない古風かつレアな漢字を思わず海馬の片隅から引っ張り出してしまうほどに、青い空がぼくの網膜を鮮やかに染めている。太陽が遠くの山の稜線をくっきりとふちどり、日差しはあたりの景色の隅々にまで拡がっている。ぼくは暑熱をたっぷり含んだ日光におでこをさらし、大きく深呼吸した。
夏だ。
どこかで蟬の鳴き声がする。
このざわめきの震源地はおそらく近くに生い茂る原生林だろう。耳の奥で鳴り響くじんじんという音に誘われ、ぼくは一瞬目を閉じた。そして脳裏に夏と夏に類する単語をありったけ思い浮かべる。スイカ、アイスバー、かき氷、ビーチ、プール、水着、ビキニ、小麦色の日焼けあと、夜空に上がる花火に縁日、ことりと落ちる蚊取り線香、後れ毛を産む飴色のかんざしと浴衣姿の女の子───。
つるっ。
ふいに靴底がすべり、ぼくは体勢を崩した。全身の毛が逆立つ。
とっさに二の腕を絡めて無我夢中で鉄塔にしがみつく。二度三度、脚が空を蹴り、四度目になんとかスニーカーのつま先が足場を探り当てたところで、ようやく身体の落下が止まる。つかの間の現実逃避から現世に戻ったぼくはへっぴり腰のまま、アイガー北壁にチャレンジするクライマーもかくやという慎重さでそろそろと下半身を持ち上げた。そして自分がまだ生きているんだという事実を細胞の核小体レベルで実感しつつ顔を鉄塔に押し当てる。
視線を上げると、いくぶん斜めにゆがんだ空が見えた。日差しが、近い。
『27分30秒けーか』
つとシャツの胸ポケットにつっこんだスマホから
『ほらほら、しどーくん。早くしないと日が暮れるわよ。わたし、
ハンズフリー・モードにしたスマホから木佐谷樹の声が届く。発信主は……たぶん鉄塔の麓で優雅に脚でも組んでいるのだろう。さっき下を見たとき、たいくつそうに髪の毛先を弄っていたしな。
ぼくは息も絶え絶えに言った。
「ここから……ここから、ズームで撮るんじゃダメかな?」
『ダメよ。そんなことしたら鮮明に撮れないでしょ。わたし、くっきりはっきりしっかりとガイシーの勇姿を見たいの。それに、もし綺麗に撮れてたらスマホの待ち受けにするつもりだし。責任重大なのよ、きみは』
ガイシーって誰だよ。
つーか、スマホの待ち受けって……。
『ほらほらがんばって。しどーくんが一生懸命がんばる様を、わたし固唾をのんで見守っているのよ』
「うそつけ。さっき、でかいあくびが聞こえたぞ」
『あら。そうだった? それは失礼。……でも、時間をかけて不利になるのはきみよ。体力を消耗するし、その高さですもの。日が暮れて足下がおぼつかなくなったら脚を踏み外しただけで簡単に死ぬわよ』
「おそろしいことさらりと言うなよ」
『ごめん。ここは正確に「
「そっちもイヤだよ」
『じゃあ、転落死?』
「もっとイヤだ」
『ごめんなさい。わたしとしたことが言葉を惜しんでしまったわ。ここは言文一致時代の平易な散文精神に則ってそこから落下したら獅堂くんの肉体は潰れた
「すっごくいやだ!」
ぼくの悲鳴を受け、彼女は微笑みを含んだ声で言った。
『……いずれにせよ、もし生き残ってわたしのスカートを持ち上げることができても、暗くてはなにも見えないわよ。きみはそのためにがんばってるのでしょう? わたしの制服を脱がせて、あられもない下着姿を見るために。ね?』
「……」
『ねっ?』
「……」
『なにをナマイキに無視しているのよ、豚』
「……はいよ」
なんでこうなった?
掌にあとからあとからわいてくる汗をぬぐいつつ、その日何度目かの述懐が胸をよぎる。
どうしてこうなったか、その因果をたどるのは簡単だ。いくら暑い夏の盛りだからといって、
あれは学校の中休みのことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます