第一章-2

 大鐘楼グロツケンチヤームが遠く鳴り響く。


 学院の軽やかなチャイムとは違う荘厳な音色を耳に、カリムは黒いローブ姿で空を見る。窓ガラス越しに見る空は相も変わらずくっきりと曇っている。


「大変よ、今日は」


「宮古」


 声に視線を向ければいつの間にか宮古が側に立っていた。


ブラウスの上から羽織った白衣のポケットに手を突っ込んでいるのが、妙に様になっている。

職場にいるからか、その雰囲気は家とは少しだけ違った。

ちょっとだけしゃんとしている。


 黒と白、対照的な色合いのふたりが見つめる先では、これから始まるグラオベーゼンのために有翼鯨ジヤンボ鰭飛びマンタが空を明け渡していくのが確認出来た。


近場の遊泳場が見つからない数羽がウロチョロしているのを見ると、完全に準備が整うまではもう少し時間がかかりそうだった。


「緊張してるのは、揺月が来てるから?」


「まあ」


「にしては、よく来たわね。仮病でも使って逃げるんじゃないかと思ってたわ」


「正直、腹痛い」


「あらそう。飛ぶ前に薬でも飲む?」


「いや、いい。こんなの飛べば吹き飛ぶし」


 そう言いながらカリムは窓の外へと背を向ける。

振り返った先では、宮古と同じ白衣姿の大人たちがそこかしこで働いていて、学院とは違った喧騒が周囲を覆っている。


 床や壁面からふわりふわりと精霊たちが漏れ出るここは、お伽の園フェアリーテイル・ガーデンと呼ばれ、人々の生命維持や都市機能を存続させるのに必要な精霊に関する様々な研究・管理・運用などを行っている場所だ。


当然、都市に精霊を呼び込むグラオベーゼンも、お伽の園の管理管轄のもとで行われることになっている。


「箒は?準備できてる?」


 カリムが尋ねると、顔なじみの職員が頷いて返す。

彼の視線の先には、精霊たちが放つ緑黄色の燐光と同じ色の液体に満たされた洗浄槽がある。

その中にはカリムが普段使いしているボロっちい箒とは比べ物にならない、きれいな箒が一本浸されている。


「カリムくん、いつもゴメンね?」


「はい?」


 洗浄槽から取り出された箒の水気が拭われるのを待っていると、特に口を交わしたこともない若い職員に話しかけられた。


宮古と違い、白衣に着られている感の強い彼女は、本当に申し訳なさそうな顔でカリムの前に立っていた。


「なんすか」


「あ、ううん。特に用事があるわけじゃないの。

ただ、いつもいつも申し訳ないなぁって思って。

ほら、わたしたちって大人なのにあなたたちヘクセに頼りっぱなしでしょう?」


 少し、鼻につく物言いだった。だから自然とカリムの態度も固くなる。

「まあ、いいんじゃないすか。大人にだって出来ないことあるんですし」


「そうなんだけどね。あ、でも大丈夫だよ。もうすぐミラー・ツリーが完成するから。そうしたら君たちの負担も減らせるから」


「そっすか」


「うん。それだけ言いたくて。じゃあ、またね。グラオベーゼン頑張ってね」

 それだけ告げると彼女はパタパタと白衣の裾を揺らして去っていく。


「なんだありゃ」


「あの下品タワーの推進派。

データ取りだか何だかでチョロチョロしてんのよね。邪魔くさいったらないわ。

カリム、アンタ変なこと言われなかった?」


「いや、むしろ宮古より好意的だった」


「アタシはアンタの保護者になったときから、必要以上に甘やかさないように決めてるのよ。ほら、準備出来たからちゃっちゃと飛んできなさい」


「はいはい。じゃ、いってくる」


 ひらりと手を振る宮古に見送られ、カリムは箒を手に取り歩いていく。


向かう先は洗浄槽が並ぶ先にある魔術階段だ。高い天井を貫通して伸びるその先に、ヘクセがグラオベーゼンを行うための舞台がある。


 手すりに寄りかかり伺う窓の外には、もう一羽の鰭飛びもいない。

どうやら空の準備も整ったようだと思った矢先、目に入ってくる一本の塔があった。


「……」


 先ほどの若い職員からかけられた言葉には、そこはかとなく反感を覚えた。あれでは、カリムたちヘクセなど用済みになると言われているのと変わらない。


(そのうち本当にそうなるのかもな)


 だからといって、今気にしたところでしょうがない。


それに今日のカリムには、本当に気にかけなくてはならないことが別にある。


『見に行くから』

『ちゃんと飛んで』


 そうメッセージを送ってきた揺月は、きっとどこかでカリムのグラオベーゼンを見るのだろう。


いっそ、中継用の伝目鳩を起こさなければいいのだろうか。

踊り場横の止まり木で目を閉じている鳩を見てそう思いもするが、結局カリムはその頭を撫でる。


 目を覚ました鳩に続いて外に出たカリムの目の前に広がるのは、薄暗い木立だ。

 

劇場庭園と呼ばれるこの場所こそが、カリムたちヘクセがグラオベーゼンを行う舞台であり、アリステルで最も多くの精霊たちが住まう場所でもある。

 

 下草を踏み庭園の奥へと進んでいくにつれ、周囲はぼんやりとした明るさに包まれていく。

 都会のど真ん中にあるにも拘らず、これだけ多くの精霊がいる場所など、他には存在しない。


 そんな緑黄色の燐光が穏やかに照らす場所で、カリムはふと立ち止まり、目の前に立つ一本の木へと目を向けた。

そっと、その幹へと優しく手を添える。


 古木だった。


 もうきっと数年間に渡りこの場所に立ち続けているのだろう。

多くの精霊をその身に宿した反動で、カリムより遥かに若いはずのその木は、すでに力を失いかけていた。


「今日までありがとよ」


 そう告げたカリムはその場でしばし祈りの時間を過ごす。

それはひとつの命に対する敬意と、新たな誕生を願う神聖なひと時。


 これまでこの劇場庭園において精霊の宿り木となっていた一本の樹木は、今回のグラオベーゼンでその役目を終える。


だからカリムはそっと目を閉じ、自分たち人間の生活を支える基盤として立ち続けた木へ感謝を告げ、霧散する生命の安寧を願い、そして新たな命を芽吹かせる糧となってもらうために、これから命を散らす木へと祈りを捧げるのだった。


それが、箒で飛ぶより先に設ける、グラオベーゼンの始まりだ。


「…………」


 目を閉じた静かな時の中、カリムは思う。

この時間こそが自分がヘクセなのだと最も自覚出来る瞬間だと。


着替えたローブによって身を引き締め、この祈りを通して自らの心も引き締める。


そうしてようやく、カリム・カンデラはひとりのヘクセとしてグラオベーゼンに臨むことが出来るから。


 祈り終わったカリムが手にした箒の穂で樹皮をひと撫ですると、木はその身を燐光として霧散させた。


 カリムがその木に宿り眠っていた精霊たちを起こしたことで、木は精霊化し、その生命を精霊たちと同じものへと変質させたのだ。

儚くも美しい光の粒子は、これから飛ぶカリムとって大きな助けとなる。


 しかし、カリムには彼ら精霊たちの力を借りて箒で飛ぶより先に、やることがもうひとつだけあった。


今しがた木が一本精霊化したことで、劇場庭園にはダスト層雲に覆われた空を見上げることの出来る空白がぽっかりと生まれてしまった。


 それでは次にこの地へと降りてきた精霊たちが行き場を見失ってしまう。

だから、カリムは箒に跨る前に、地面へと膝を着くのだ。


 そしてカリムは挿し木を行う。


 一本分の梢がなくなった空白へとその身を伸ばすのは、根を張ることすら出来ていない枝だ。

パナケアと呼ばれるその枝は、箒の穂にも使われる特別なもので、精霊たちが好んで宿り木に選ぶものでもある。


 頼りなく、ぽんと蹴飛ばせば簡単に倒れてしまうパナケア。


カリムの眼前で空を指す枝は、これからしっかりと根を張り、育ち、そして周囲の木にも負けない大きさとなり、たった今カリムが精霊化させた古木に代わって、その身に精霊を宿すのだ。


 立ち上がったカリムは周囲に漂う精霊たちを見渡す。


すでに気の早いものはカリムの箒へとすり寄り始めているし、そうでない者も、他の木に宿るでもなくカリムの側から離れようとしない。

 

 カリムはそんな彼らへ笑みを浮かべると、他の誰にも扱うことの出来ない長大な箒を振り回し、宙に漂う精霊たちを掃き集めていくのだった。


カリムは箒に跨り宙へと浮かぶ。


 もはや日常と化した浮遊感がカリムの身を包み、地を離れた足先に恐怖を覚えることすらとうに忘れた少年は、クルクルと螺線状に空へと飛び上がる。


 狭い木立の中だというのに、大きな箒をどこかにぶつけることもなく、カリムはあっさりと梢を抜けていき、一度だけ眼下を確認すると、ひとつ頷きダスト層雲に覆われた曇空へと飛び出した。

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